街を抜ける(甲州街道を歩く3)

 今回の歩きは、府中の大国魂神社がスタートです。七五三の家族連れでいっぱいの神社はとても賑やかです。f:id:tochgin1029:20161120212901j:image日本橋新宿と今まで歩いて、甲州街道で今の町並みから昔の宿場の名残を感じ取れるのは、府中が初めてです。それくらい今の甲州街道からは昔の名残を残すもの消えてしまっているのですね。それでも、府中の街を歩けば高札場の跡が残り、僅かですが旧家も残っています。

f:id:tochgin1029:20161120212930j:image 途中の分倍河原は合戦の場所として知られていて、駅前には新田義貞銅像が建っています。このあたり、多摩川と河岸段丘に挟まれた起伏の大きい土地のようです。

 しばらくあるき、バイパス道と合流します。何の変哲もないバイパス道ですが、道の脇に石碑とか神社とかいかにも由緒のありそうな旧家とか点在し、意外に飽きないものです。f:id:tochgin1029:20161120212955j:image

たとえば、府中の市街地を抜けて西に進んだところには、熊野神社という神社があって、裏手には復元され石が積まれた立派な古墳が建っています。隣の展示室では石室のレプリカがあって、おじさんが説明をしてくれます。おじさんによれば、この古墳の形は非常に珍しいもので、全国でも三つくらいしか存在しないそうです。武蔵国で古墳といえば、さきたま古墳群が有名ですが、それとはまったく形が違います。全く別の氏族なのでしょうね。古代の武蔵国は上州の側から開けていたからこそ、当初は東山道にふくまれていました。けれど、途中から東海道に変わっています。単なる地形の問題ではなく、途中で武蔵国を左右するような争いごとがあった。ヘゲモニーを握る氏族が変遷したのかもしれない。などと想像してみます。

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石室のレプリカに入って思うのは、立派な石室を死者のためにこしらえる風習は、やはり仏教伝来前の死生観なんだろうと思いました。仏教伝来後なら、死後に裁きを受けるあの世は、現世とは全く異なる世界です。けれど、古代人にとって、死後のあの世は現世と地続きの場所として認識されているように想像しました。

 さて、街道をさらにあるき国立市に入ります。谷保八幡宮という神社が途中にあります。この神社を訪れるのは2度目ですが、階段をあがるのでなく、下がって本殿に向かう不思議な神社です。台地の上を通っている街道から、降りたところに本殿があって湧き水が湧いています。大国魂神社の場所には、あまり「聖地」といった趣を感じませんが、こちらのほうが「聖地」といった趣きがあります。壁のコンクリートにおもしろいように苔が貼りついていました。
f:id:tochgin1029:20161120213050j:image しばらく歩けば多摩川の河原。ほかの街道でもそうだったように、往時には、ここも橋はかかってなく、日野の渡しという渡し舟で渡っていたようです。しばらくいけば、日野宿に到着します。
f:id:tochgin1029:20161120213118j:image 日野宿には、甲州街道では珍しく、本陣が残っています。中山道に比べれば簡素なものですが、それでも立派な建物で中に入れば、ガイドのかたの説明を聞きます。
日野は、なんでも新撰組にゆかりがある地だそうです。この本陣の持ち主かつ名主だった佐藤家も、近藤勇や土方俊三と交流があったそうです。一方ではこの本陣には、明治天皇も滞在したことがあるとのこと。ふすまに書かれた書は、建武の新政後醍醐天皇を助けた武将たちになぞらえていますが、ガイドさんによれば、それぞれの武将は実は新撰組の士を仮託したもの。新撰組は明治政府に取っては逆賊であって、おおぴらに名前を書くのははばかられたからではないかと。おもしろいことに、ここでは、ガイドの話を聞くのはわたしをふくむおじさんたちと若い女性たち、という変わった構成でした。
 多摩地域の土地やそこに住む住民たちには、自治意識が高くて進歩的な土地柄のイメージを持っていたのですが、説明してくれたボランティアのは、府中でも日野でも、侍にようなピシッとした佇まいの方。まるで、口ごたえなどできないないような雰囲気でした。そんなこの地域は、新鮮組を生んだ場所でもあるし、民進党では最も保守的な議員とされる、長島昭久さんのポスターが貼られています。地盤なのですね。かなり保守的な地域なんだなという印象を持ちました。
f:id:tochgin1029:20161120213310j:image 日野から八王子までは、再び台地を上ります。通り沿いには、日野自動車とかコニカミノルタなどの大企業の事業所が点在します。いまでこそ住宅地に囲まれていますが、かつては、台地上の広大な原っぱで、このような大きな工場を建てるにはうってつけの場所だったのだのでしょう。街道はいつのまにか八高線を渡っています。八高線などというといかにも都の果てまで来てしまったようですが、先入感とはだいぶ違う。多摩地域ってけっこう狭い範囲なんですね。
f:id:tochgin1029:20161120213334j:image 八王子の街は、もう戦争もおわろうかというころに空襲を受けています。途中の浅川を渡る橋には機銃の跡がのこるようです。そんな八王子は全く市街地が途切れない。歩いていてとても大きな街だというのがよくわかります。江戸時代の力士像が残る古い神社の公園で、こどもたちがせっせとあそぶ風景は、ここまでは見なかった光景で、人の往来も多い活気があふれる場所ですね。
f:id:tochgin1029:20161120213420j:image 関東では、山と平野の境にいろいろな街が生まれています。北関東なら、高崎、桐生、足利、伊勢崎などといった両毛線沿いに、どれも織物で栄えた街が点在しています。この八王子の町も、織物で栄えた町らしく、織物協同組合という建物もあります。通り沿いには看板建築がほうぼうに残っていて、金物店、洋品店、酒屋、鰹節店なんてものまである。味気ないマンションに変わった建物も多いですが、往時の名残り相当に残っている。ここがかつては相当の規模をほこった大商店街だったことを簡単に想像できます。両毛線沿いの町では、商店街は、モータリゼーションですっかり寂れてしまいましたが、八王子の場合は、都心との距離が幸いしたのか、それらに比べれば、衰退のスピードは緩やかです。f:id:tochgin1029:20161120213359j:imageしばらくいけば、銀杏が並んだ道を通ります。八王子の市街地の西端は、すでに西八王子駅のそばです。
西八王子駅では、ベンチにこしかける老人たちの姿が目立ちます。府中でもすることのない老人が神社わきでごろごろしている光景をみかけました。都心から放射状に延びるベットタウンのなかでも、さいたまと比べ、このあたり東京都下の高齢化はいっそう進んでいるようです。
 いよいよ、東京都も西の端。次は小仏峠を越え本格的な山道に入ります。

北関東民のさえないソウル(絲山秋子「薄情」)

薄情


 群馬、栃木、茨城、いわゆる北関東とよばれる3県は、テレビ番組のうえでは魅力のない県とされています。都道府県の魅力ランキングでは常に下位をさまよっているし、そんなありさまに自虐的ですらある。そんな場所でくらす男女は快活さからは程遠い。わたしは、群馬在住の絲山秋子さんの小説「薄情」を、そんな北関東目線でから読んだのでした。
 主人公である宇田川さんは、夏は嬬恋のキャベツ農家で働き、冬は実家にもどる生活を繰り返しています。実家は神主らしいのですが、彼自身は土地の生活からは自分は浮いているようだし違和感を抱えながら生活しています。そんな彼は、鹿谷さんという人の工房に通うようになります。そこは主人公と似たような人々が集う場所になっていて、自分の行動がいちいちつつぬけになるようなきゅうくつな田舎で、その工房だけが、自分がなにものかを問われない、居心地のよさを感じるのだと。
 そして、この話には蜂須賀さんという同級生が登場します。この地をいちどは離れた彼女は、遠方の生活が破綻して戻ってくる。2人が恋愛感情を募らせるわけではないけれど、土地に違和感を持ちながら暮らすところは似たもの同士です。が、やがて工房は焼けてなくなってしまう。工房に集まっていた主人公は、それまで、工房に委ねて任せっきりにしてた自分のなかの一部分を、これから自分自身でこしらえなければと知る。そんなふうにこの小説を読みました。

 工房が焼けた原因は、付き合っていた蜂須賀さんと鹿谷さんのいさかいから。この土地から再び出て行こうとする蜂須賀さんに、でていくのは逃げるようなものだというような意のことを言います。  土地に縛り付けるということではなく、土地に向き合うこと=自分と向き合うことと言っているのだと思います。

 私が生まれたのは栃木県の南部で、実家はいまもその地にあります。典型的な農村集落のなかに、越してきたサラリーマン家庭です。何十年とその地にすんでいても、どこか「よそもの」感は消えません。実家に帰れば、同級生のだれだれがうんぬん。という話ばかりですが、なかには同級生の刹那的なくらしなんてのも聞くのです。素性がばればれの田舎はきゅうくつで、刹那的になるのも理解できなくもない。私自身そのきゅうくつさがいやで故郷をあとにしたくらいですから。
 群馬が舞台となったこの小説に、栃木出身のわたしはどこか親近感を持っていて、小説に登場する人たちのさえない感じが「すばらしい大自然に囲まれた、人情味あふれる仲間たち」なんて、すくすくとした自己肯定感など生まれようがない北関東という土地柄を表しているように、勝手に想像しています。「自分自身であること」という命題に、なやみつつも前向きに生きていく、さえなくて快活でない人たちの物語。そう読めたのでした。

台地の上を通る(甲州街道を歩く2)

f:id:tochgin1029:20161113113329j:image 今回の行程は、京王線芦花公園駅からの歩きです。私鉄の駅につづく商店街と生活道路のコンビは、生活するには気楽そうですが、よそものにはあまり変哲のない街で、面白味のないところです。
 ところどころに通り過ぎる川はコンクリートだし、あたりはケヤキ並木のつづくバイパス道。通り沿いに起伏はあまりないのですが、道のわきをみれば起伏のある地形のなかを通っている。台地状になった土地の中を通っていることがわかります。その台地から坂を降りるところだけバイパス道から分かれているます。その瀧坂と呼ばれるあたりだけが、わずかばかり旧道の面影が残っていて、薬師如来があります。
f:id:tochgin1029:20161113113423j:image 調布市にはいると、すこし沿道の建物の高さが低くなってきて、空が広くなってきます。国領のあたりがかつての宿場町のようです。あいかわらず、マンションなどが立ち並ぶ無味乾燥な町に、それでも古い寺や神社が残るあたりは、宿場のなごりを感じます。調布駅は数年前に地下駅となっていて、かつての駅前はぽっかりと空洞のような空間がひろがっています。いずれ、駅前広場はバス停として整備されるのでしょうし、再開発ビルが空間を塗りつぶすように建つのでしょう。でも、空っぽの空間を空っぽのまま残しておけばいいのにと思ったりもします。
 調布駅を過ぎて、台地上の道はえんえんと続いていますが、しだいにまわりはゆったりとした敷地の家がめだつようになります。そんな途中に、寺があって門のまえには新撰組で有名な近藤勇銅像がたっています。f:id:tochgin1029:20161113113501j:image彼はこの地の出身なのだそうです。この寺には立派な山門もあります。江戸時代の末期ともなれば、そうとうに農業の技術も発展した時代です。江戸の大消費地を控えたこのあたりは、かなりの豪農を排出したのではないかと思います。そして、豪農たちの知的欲求はかなりのもので、そんな知的欲求にあふれた環境が、近藤勇という政治的な人物を生んだのではないのでしょうか?この土地を歩きながらそんな想像がでいるのです。
 あいかわらず、台地の上はのっぺりとした住宅街がえんえんと続いています。地蔵やら石碑をのぞけば家も道路もどこか均一なところが、のっぺりとした印象を受けるのです。台地の上は強い風がよく通る場所です。そして、その場所は、昔の面影などのこらない住宅街。台地の上って家も田畑も風景も非常に移ろいやすい土地のように感じるのでした。
f:id:tochgin1029:20161113113523j:image 府中の町は、名前のとおりかつての武蔵の国の政治の中心です。今の大国魂神社のあたりが国府のあったあたり。ほかにも八幡神社もあります。ただ、台地の上にたつこの神社からは、ふしぎと霊的な印象を受けません。近畿の都の目線から見れば、この場所に国府が建つことの意味は、武蔵の国は「台地の広がる国」として都からは捉えられていて、その台地を征する存在として国府がこの場所に建っている。
 今日の歩きはここまでです。まだまだ単調な住宅街はつづきます。

なんの変哲のない道(甲州街道を歩く1)

f:id:tochgin1029:20161113112632j:image 中山道をゴールしてしばらくたつと、田舎の道が恋しくなって、街道歩きを再開することにしました。今度は甲州街道で、甲府まわりで下諏訪までの道を歩きます。日本橋から新宿までの道は、散歩のようにして歩いてしまったので省略。実質の歩き始めは新宿からです。
 新宿に昔の甲州街道の風情を残すところなど存在しないのはあたりまえというえばあたりまえ。ひたすら、雑踏の中をあるき始めます。すっかり雑踏は苦手になりました。早足で歩けば前を歩くひとにぶつかるのがうっとおしくもあります。
f:id:tochgin1029:20161113112657j:image 初台をすぎて、首都高の高架と合流します。わきには緑道が並びます。玉川上水の跡のようです。どちらかといえば、歩くにはあちらのほうが趣があって、静かでうらやましい道です。建物と高架のわずかなすき間にけやきの街路樹が続きます。ほんのわずかな風情です。やがて明大前のあたりでは京王線をわたります。都内の甲州街道は、しばらく京王線と併走します。
f:id:tochgin1029:20161113112726j:image 一里塚の跡には案内板だけが残るばかり。中山道では、旧道がそのまま、現在の幹線道路である場合は少なくて、まったく当時の面影が失われた場所は少なかったように覚えているのですが、都内の甲州街道はいまでも幹線道路として機能しています。高井戸の宿がどのあたりかはガイドブックではわかっても、かつての面影がないので違いがよくわかりません。
f:id:tochgin1029:20161113112744j:image それでも、桜上水をすぎれば、やっと高架道路との併走が終わって、見える空が広くなりました。なんてことのない生活道路と住宅街はえんえんとつづきます。今日の行程は、芦花公園駅のあたりで終わりです。街なかの道ははやく通り抜けたいところです。

タレント政治あるいは政治タレントたち

 目立ちたいがための強い言葉は、たんに相手を傷つけるだけでなく、自分自身が言葉の虜となり自分を蝕むのだと、長谷川豊さんのブログ騒ぎを、前々回の記事で取り上げました。その後、長谷川さんに対する謝罪署名を集めた女性が、実際に長谷川さんに会ったと、ハフィントンポストに記事が掲載されていました。

「長谷川豊さんになぜ強く反論しなかったのか」対談した腎臓病の女性患者が疑問の声に答える | Huffington Post
 このような面談では、両者が罵り合うばかりで、なんの解決にならないことも多いのですが、その女性は非常に聡明でした。「この人とはそもそも議論ができない」と判断し、長谷川さんの話を聞きながら、彼の人となりを観察していました。
 彼女によれば、少し会話した時点で、長谷川さんは私と議論をしたいのではなく、ただただ自分の意見表明をしたい。という態度でこの場にやってきたのだと見ぬいています。たとえば、彼女が話している途中であっても、言葉を遮って自説を通そうとする。ジャーナリストを自称する長谷川さんですが、人の話を聞かない人が、そもそもジャーナリストを名乗るのも変なことだと思います。そうではなく、やっぱりテレビタレントなのでしょう。

 テレビやラジオの番組には、数限りないコメンテーターたちが出演しています。政治も芸能ネタも同じようにコメントする仕事ゆえ、評論家やジャーナリストなどタレントと名乗らなくとも、本質は悪い意味で「テレビタレント」と形容したいひとがたくさんいます。長谷川さんだけではない。
 悪い意味での「テレビタレント」とは、だいたい以下のような条件でしょう。
・対話は必要ない。
・話の真偽には頓着しない。
・自分の言いたいことだけを話す。
・その場で自分が目立つことを優先する。
ひな壇をしつらえた、テレビのバラエティー番組や朝まで生テレビ。一見では彼らは会話をしているかのように見えますが、そこには出演者の自己アピールだけがある。だいたい、朝まで生テレビの議論が、のちに政治を動かしたり政策を動かした事例があったでしょうか?私の知る限りありません。
 タレントが政治家になるケースは、ほんとうに多い。特に大阪では、横山ノックさんも西川きよしさんといった芸人が議員になっています。橋下さんも、本質は政治家というよりもタレントです。有権者の声をすくい上げ、市民の代表者(議員たち)と話し合い、よりよい政策をおこなうというよりは、自分がどれだけ目立つか。政治の場をすべて自己アピールの場に変えてしまう。政治を借りたタレント活動というものでしょう。民主主義とは異なる価値観です。
 東京都でも、小池知事のタレント政治が始まりました。連日のように報道される豊洲市場やオリンピック会場の話題は、よくよく聞いてみると、さして中身がある内容でないのがわかります。先日は小池さんの「政治塾」に、3000人もの応募があったとのこと。なかにはエドはるみさんのようなタレントも含まれています。政治塾ではどんなことを教えるのでしょう。自己アピールの方法だけを教えるのだろうか?と勘ぐりたくもなります。

 事実、小池さんが新人議員のときのインタビュー記事を雑誌「SPA」で読んだことがあります。その価値観は自己実現のために政治をやる。という価値観でした。自己実現であるならなにも政治家を選ぶ必要はありません。そのころと今も、小池さんが政治家をやるスタンスは変わっていないし、そういうスタンスで政治をする彼女を、私はけっして支持はしないでしょう。
 いまや、テレビで報道されない選挙の投票率は、おおむね20%。都市部や都市圏ほど低くなります。政治というものがタレント活動のように理解され、報道されるだけなら、低い投票率は、今後もけっして向上することはないでしょう。

ヘイトするくらいならみんなで踊ろう(サムルノリの音楽について)

 今年は、高麗郡が創られてから1300年の記念の年なのだそうです。700年代、平城京の都のころに、国が滅んだ高句麗から1700人もの人たちがこの地にやってきたとされています。その記念の年に、高麗神社ではサムルノリという韓国の音楽家たちのグループが、コンサートを開くとのこと。観に行ってきました。
 彼らは30年前にも、同じように高麗神社でコンサートを行ったそうで、彼らの音楽に初めて触れた著名人たちにも衝撃を与えたとのことです。サムルノリのリーダーである金徳洙さんは、その当時に近藤等則さんのIMAバンドのアルバムに、ゲスト参加していたのを覚えています。
 で、私にとっては、サムルノリの音楽は、もともとワールドミュージックのひとつのような感覚で捉えていたのですが、実際に訪れた会場はいわゆる在日と呼ばれる方々が多いのが印象に残りました。そして、開場を待つ人々の列の中には、あちらこちらで旧知の人々を見つけ、旧交をあたためる人々の姿がたくさん見られました。隣席のおじさんからは、半島から日本にやってきたてんまつ話などが聞こえてきます。彼らにとって、サムルノリは自分のアイデンティティとふるさとの文化を繋ぐひとつの糸のような存在なんだと思いました。
 実際に触れたサムルノリの音楽は、半島の土地に根付いた音楽が根底にありました。彼らの太鼓と鐘のアンサンブルは、たとえば和太鼓と比べると、よりリズミカルに感じます。そしてなにより驚くのが、どう見ても楽な演奏には見えない全力での演奏を、延々と休むことなく叩きつづける、その体力にびっくりします。もの凄いものだと思います。そして観客席から見ると、金徳洙さんの腕が、左右に早く動いて千手観音のよう。というのは言い過ぎでしょうか・・・2曲目は、鐘が加わります。大きな鐘はベースとタイムキーパーのような役割を果たしていて、その上を太鼓がそれぞれ自由に飛び跳ねるように踊っていて、全体は非常に複雑なリズムを表しています。この曲が一番長かったでしょうか。休憩をはさんでの3曲目は、リボンのついた帽子を回しながら、立っての演奏になります。まるで、この演目にあわせたかのように真っ暗やみになった会場の中を、ひらひらと帽子のリボンが舞っていて、とても綺麗に見えます。もちろん彼らの演奏は、踊りながらだといえ、ぞんざいになることはなく、座ったのと同じクオリティを保っています。いや、ほんとうにすばらしい!
 アンコールでは、彼らはステージからおりて演奏を始めました。彼らをとりかこむように観客が集まって踊り出します。彼らの演奏は、もともとは祝祭の音楽。みんなで踊る姿こそが、本来の姿なんだとも改めて思いました。もちろん私も一緒に踊りにならない踊りをしたのです。
 現在のコンサートは、舞台や構成の都合から、段取りもアンコールもあらかじめ決められ、その時々の盛り上がりでからハプニングも起きずらいのですが、この日このコンサートで起きた、盛り上がりはごく自然なものでした。
 そんな楽しんだ会場を後にして、帰りの電車でツイッターのタイムラインを眺めれば、この日も秋葉原では、拝外主義をスピーチするいわゆるヘイトデモが行われたそうで非常に残念なことです。金徳洙さんは、コンサートの始まりに「みなさまの幸せを祈るために演奏する」と言って演奏を始めました。デモというものも、ひとつの祝祭と捉えるなら、それは、みんなが幸せに暮らせるようにするためのお祭りでなくてはなりません。誰かを排除するための祭りなど起こしてほしくない。サムルノリのアンコールの祝祭を体験して「へイトするくらいなら、みんなで踊ろうぜ!」なんてことが頭をよぎるのです。

自己陶酔の言葉(過激な言葉の麻薬性)

 テレビを見ていると、女優の杉田かおるさんが出演していました。それは自分の失敗経験を取り上げるというつくりの番組でした。テレビをしかもバラエティー番組など見ることは珍しいのですが杉田さんのコーナーはたまたまみてしまったのです。彼女は失敗の多くを、自分の傍若無人ぶりに求めていましたが、一時期のテレビは、そのことがおもしろおかしく取り上げられていたのも事実。タレントたちの極端で過激な意見や行動は、テレビ上では目立つし面白がられますが、それは反面で自分自身をぼろぼろに浸食していく。これ、テレビ業界の恐ろしいところかもしれません。杉田かおるさんはこういう世界から脱出できたこと、良かったのだと思います。
 極端で過激な意見といえば、最近に問題化したのが、長谷川豊さんのブログ記事での、人工透析患者に健康保険など必要ない、生活の不摂生など自業自得なのだから、全部自腹を切れ。という意見が批判されました。人工透析の患者のなかには、先天的にそうせざるを得ない人もいるのですから、透析の患者が怒るのはごくあたりまえのことです。案の定、彼はかかえたレギュラー番組を降板することになりました。形ばかりのお詫びを述べつつも、彼はこのことを、本心では「世間の理不尽な仕打ち」とうけとっているようです。
 降板したテレビ番組で、彼と一緒に出演していたアナウンサーが、彼の人となりを「目出ちたがり」と称していました。毒舌ゆえにレギュラーのテレビ番組を持ち、それなりに面白がられた長谷川さんですが、その毒舌ゆえに身を滅ぼした。ということなのだと思います。他人への批判を吐き、過激な言葉を連ねてブログを装飾するのが、彼の目立ちたがりゆえだというのは想像ができることで、自身が吐いた言葉に自分自身が中毒になってしまったのだと思います。それは杉田かおるさんのケースと似ていると思います。
 よく、動画で見かけるヘイトデモへの参加者は、なぜかへらへら笑っています。たまたま乗り合わせた電車で遭遇したヘイターも、ヘラヘラと笑っています。何故なのだろうと不思議でしたが、「殺せ!」とかいう言葉を自分自身がはく。自分自身がその言葉に陶酔している。それは「言霊」のようなものかもしれませんが、それよりは言葉の麻薬としか称しようがないですね。もともと思慮も分別もある大人が、目立ちたい注目されたいがために、より過激な言葉、より過激な意見を吐く。言葉を発した本人は、その言葉をコントロールしているつもりなのかもしれませんがまるで逆です。むしろ悪意のある言葉が、自分自身が蝕まれていく。しかもやっかいなのは、たぶん快感と陶酔を伴っていること。アナウンサー出身だからこそ、長谷川豊さんは言葉をコントロールできるという自負があるのでしょうが、彼に起きたことは、自分が吐き出した言葉の魔力に自分自身がはまっていったのだと思います。
 私自身、ここで書いているブログは、よりたくさんのひとに読んでもらえたらよいなと思います。そのためには、タイトルはこんな感じにして・・・と思ったり言葉を選んだりします。内容をわかりやすくするためには、よりはっきりとした言葉を選択することもあります。
 その作為は、言葉の麻薬とうらはらなんだろうと思います。前回は内面を探索することの無意味さを記事にしましたが、それと似たことかもしれません。書くこと話すことで形作られる内面というのもある。自分で吐き出した言葉は、口先だけに済まなくて自分自身の内面を蝕んでいく。言葉の恐ろしさはそんなところにもあります。