平治物語を読む(軍記物のおもしろさ2)

 軍記物の続き、前回に保元物語に続いて読んだのは平治物語平治の乱を取り上げてたはずが、源頼朝の賛美にトーンが変わってしまう摩訶不思議な展開となっています。

 その頼朝賛美をのぞけば、この物語の主題は源義朝の悲哀です。保元の乱では勝利したものの、義朝本人にとってまったく喜ばしい勝利ではなく、兄弟は失い、父親は自らの手できらねばならなかった。その苦々しさが平治の乱の伏線となっています。
 その義朝の動機は一方で、貴族の視点からは、法皇の寵臣の二人、藤原信頼信西の対立から起きたクーデターです。清盛が熊野詣で都を留守にする間に、信頼の企てにのった義朝の軍勢が、あっという間に宮中を占拠する。察知して逃げ生きたまま地中に隠れていた信西(本当か?と思いますが・・)を見つけては首をさらしものにする。首謀者の藤原信頼については、この物語のなかでは、徹底して愚かな人物として描かれています。宮中を占拠した彼らは、やがて、藤原信頼側の武将たち、義朝をはじめとして○○守など官位を乱発していきますが、そういった官位など認めないとする、内裏での藤原光頼の勇気のある行動や、上皇法皇が宮中からの脱出に成功したところから事態は一変し、藤原信頼源義朝は賊軍に変わります。
 源氏方すべてが、藤原信頼に属していたわけではありません。例えば源頼政は官側についています。物語のなかで、義朝と頼政六波羅の合戦で出会います。なぜに平家に味方するのだと、頼政を詰る義朝ですが、なぜ愚か者の企てに加担したのだと頼政に返されて、義朝は返す言葉がありません。敗れた藤原信頼源義朝は、京都を離れ東に逃げることとなりますが、怖気づく信頼のみっともなさを見て、なぜこんな愚か者に加担したのだと義朝は後悔をする。その義朝も家人だったはずの長田父子に裏切られ討たれる。義朝については、戦には慣れていても、どこか思慮の足りなさから身を滅ぼした人物のように描かれています。

 それと対比されるように、物語の後半部は、頼朝の思慮深い行動がつづられていきます。死罪となるはずだった頼朝が、池の禅師の助力を自ら勝ち取りを長らえていくまでの経過。父の義朝を切った長田父子を、なにくわぬ顔で味方に引き入れながら、合戦が終わった後になぶり殺しにする頼朝の思慮深さが称えられ、なぜ源頼朝が、新しい権力者の始祖となった理由づけになっています。
 平治物語が成立した鎌倉幕府のころは幕府の運営も安定したころで、平治物語の世界は保元物語もふくめて絵巻物にもなっています。京都にいる王朝とは異なる、鎌倉幕府という革命政権の世界観が伝わりますが、それがけっして源頼朝ひとりの神格化と繋がっていないところが、後年の徳川家康とは異なるように思うのです。

保元物語を読む(軍記物のおもしろさ1)

 あまり読まれることもなく、かたすみに鎮座しているのが、図書館の中での、古典文学の扱いではないでしょうか。そんななかにある「新日本古典文学大系」という全集ものを読んでは、古文の魅力にはまってしまう。たかだか100年そこらしかない言文一致体による口語文にくらべれば、それ以前の文語体やさらにさかのぼったいろいろな古文の世界は、洗練された表現の積み重ねは、口語文とはまるで比較にならない厚みがあります。うだうだと「自分語り」におちいりがちな口語文とは異なる世界が広がっている。以前の記事でもいくつか書きました。
 ただいま読んでいるのは、鎌倉期に成立したとされる軍記物のひとつ「保元物語」です。「平治物語」「平家物語」「承久記」と合わせて4大軍着ものとまとめられるのは、それが、新しい権力者となった武士階級にとっての、アイデンティティとか建国神話を意味するのだと想像しています。保元物語では、武士たちはまだ権力者に上り詰める前のこと。摂関家や王朝の従者であるばかりに、駆り出され戦わざるを得ない悲哀の世界が描かれています。物語で出色なのは、もちろんさまざまな由来をもつ武者たちの戦いのシーンです。たがいに名乗りながら矢を合わせ、矢が刺さり馬からが崩れ落ちた武者を狙って、鎧のすきまから刀を差しとどめをさす。一騎打ちの戦いはそんなふうに展開していきます。そのひとつの戦いのバリエーションが、武者を変えて繰り返し繰り返し変奏されていくのです。橋本治さんが言うところの、文章がそれ自身でドライブしていくというのはこのことで、繰り返し繰り返される戦いのなかに、戦いの激しさや武者たちの悲哀も、かすかに感じられます。けれど、この古典文学の文体には、自分の内面を語る「わたし」は、現代文のようにはでしゃばってこないのです。
 武者でもないのに鎧にそでを通し、戦によって命をおとすことになった藤原頼長についてもいえることです。いくら、宮廷の儀式に精通し博識であっても、戦に関しては全くの素人だった頼長が、流れ矢にあたる。武者であるならばさっさと自害して果てるところで、我を忘れ半死の状態のまま父の忠実に会いに行く。現代文であれば、その頼長の訪問を拒否する忠実と頼長の葛藤の場面は、饒舌な言葉で語られることでしょう。しかし、ここでは両者ともに「涙した」という言葉でおしまいです。逡巡するような内面はここでは過剰に語られません。
 過剰な「内面語り」のないことは、とても物語の外形上の描写を見通しよくしてくれます。保元物語を読み終えてわかることは、前例のない王朝内部での戦が、政治は知っていても戦をしらない貴族の悲哀と、戦は知っていても政治を知らない武者の悲哀を呼んで、そのあとの歴史を動かしていったということ。古典文学の描写は、そんなスケールの大きな物語を簡潔に描写してくれるように思えます。

治天の君の欲望が争いのもと(橋本治「双調平家物語ノート〜権力の日本人」を読む3)

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))


平安時代に権力のまんなかに居たのは、やっぱり王朝や摂関家です。さらにそのまんなかに居たのは治天の君、すなわち後白河法皇 であって、たかだか平氏の権力や源平の争いというのは、添え物なんです。
それまで、摂関家がとり仕切る官僚機構にコントロールされていた、天皇上皇の欲がむきだしになったのが、院政の時代でした。摂関家はそれまでと変わらずに后を帝に送り込むのですが、そのすべてを帝が気に入るわけではありません。橋本さんによれば、その帝の欲望の正体は、子供を帝位に就けることで、母親の后に対する寵愛を示したかったということだそう。でも、生まれた子供が無事に大人になれるか?大人になるまえに病気などにかかり死んでしまうか?は、現代とは違いとても不安定です。治天の君が願うとおり帝位は引き継がれないという現実が起きます。寵愛を得られない母のもとで成長した息子が帝位につく。わだかまりを抱えた父子関係は争いのもとになります。その欲の深さこそが、東国の武士たちを帝に引き寄せていったのです。
 くり返しますが、平氏の権勢はそもそも帝や摂関家の後押しなしに成立しなかったということが平家物語では隠されています。平治の乱で敗れ、源氏はほとんどが都から排除されました。もはや王朝内部の争いで頼るべき武力は、平家のほかに残っていなかったのです。そして争う両者から頼られて、平氏一門の株はどんどん上昇していく。清盛をはじめとした一門が異例の速さで官位を駆け上ったのにはそんな理由があります。前回の記事では、清盛が摂関家の走狗ではなかったか?と述べましたが、そもそも院政のもとでは、武士たちのありようそのものが、王朝や摂関家の走狗でしかなかったのです。
 血なまぐい争いを王朝に呼び込んだのが帝や上皇の欲の深さならば、帝や上皇たちのパーソナリティがそのまま、その後に起きた争いのありようを定めています。たとえば、自分のお気に入りの后が生んだ子供を帝位につけたいという白河上皇の欲望は、息子の鳥羽上皇を経由して、崇道上皇後白河天皇が争う保元の乱のありようを規定していて、それはストレートに帝位を目指す争いです。

 けれども、後白河法皇の欲望の正体は、自分の子供を帝位に就けることになく、誰にもわかりません。治承の乱が、王朝そっちのけで源氏と平家が争う印象となるのは、子を帝位に就けることに関心がない後白河法皇の欲のなさに関係するのかもしれません。

 しまいには、平清盛源義仲に幽閉されてしまう後白河法皇は、暗愚とも呼ばれる存在ですが、後白河法皇が存命のうちは、頼朝も将軍にはなれなかったし鎌倉幕府も生まれませんでした。幕府の成立後でさえ、頼朝は娘を鎌倉から王朝に送り込むべく摂関家と交渉を重ねています。摂関家や王朝=雇う側、武士=雇われる側というわけで、それぞれの意識のなかでは院政の時代とあまり変わっていないのですね。その関係が決定的に変わるには承久の乱まで待たなければならなかった。ここで、天下を治めるという意識が、はじめて武士たちに芽生えたのではないでしょうか。

だんだん寒くなる道(甲州街道を歩く7)

 昨年の秋から始めた甲州街道歩きですが、小仏の峠をこえて山梨県に入り、野田尻宿に到達していました。ひな壇のような谷間の集落をぬう相模湖からの道中は、上野原からは段丘上に広がる集落ののぼりながら通る道に変わりました。それは、マチュピチュにでも行ったかのように体感される行程でした。今回は、山上の野田尻宿から大月まで。さきの笹子峠越えを考えれば、もっと先の宿までを目指したい行程です。前回の終点だった四方津駅は、高尾からはたかだか数駅しか離れていないのですが、まったくの谷間の小駅といった風情です。そこから野田尻まで行くバスは一日2本しか走っていません。f:id:tochgin1029:20170118123857j:image
 バスまですこし時間があったので「コモアしおつ」というニュータウンを覗いてみました。この「コモアしおつ」というニュータウンの街並みは、まったく四方津駅から見えません。なぜならこの街は、四方津駅から百メートルくらい?を登った丘の上にあって、そこに行くためには、斜面をのびるエレベーターやエスカレーターを登らないとたどり着けません。ただし、朝の時間にエスカレーターから人々が駅に足早に向かう光景、そして人の姿は途切れません。寂れた郊外の住宅地といったイメージで行くと「コモアしおつ」は、それとは少し違うようでした。
 さて、バス停にたどりつくと、ハイカーらしき人々が3組バスを待っていました。案内板に示された山は、どれもわたしには未知の山ですが、さすが都内から近いだけあって、ハイカーが途切れないのですね。
f:id:tochgin1029:20170118124006j:image 年末のとても暖かい日にたどり着いた野田尻の宿場は、それよりも少々寒いくらい。前回の終わりにおとずれた西光寺にあらためてお参りします。山間いの小集落にありながら、境内がきれいに整えられていて気持ちの良い寺です。この日、天気予報では、とても寒いはずなのですが、このあたり陽があたり非常に暖かく、歩いているうちに汗がでてきます。次の犬目宿までの道中は、舗装と山道が交互します。かつてここに拠点をかまえていた一族の墓や、2本の木に小さな社が挟まれて建っていますが、どれもよく整えられて、あまり廃墟をみかけないのも、歩いていてほんとうに気持ちがいい。明るい山上の道は、とてもきもちがいいです。
f:id:tochgin1029:20170118124048j:image 犬目宿につくと、ここには犬目兵助という人物の記念碑が現れました。犬目兵助は、かつて甲州で起きた一揆のリーダーの人だそうです。見つかれば、首謀者として死刑になるところを、彼は逃げきれたらしく、戻ったこの地で一生を終えることができたそうです。この宿の終わりには寺があって、葛飾北斎が描いた富士ひとつは、ここから描いたそうですが、残念ながら今朝は富士は雲に隠れていました。また、寺の近くの斜面には、男女のシンボルをかたどった御神体?が小さな社に祭られています。途中の君恋という場所には、とてもきれいに残った一里塚がありました。
f:id:tochgin1029:20170118124117j:image 暖かかったこれまでの道中は、犬目宿あたりから、一週間まえの雪が道脇に残る風景に変わり、大月市域に入るころには、あたりは日の当たらない曇り空になりました。犬目宿に行くバスは、上野原~四方津駅から来るのですが、犬目宿を超えると、バスの起点は大月駅に変わっています。ほんのひと山を越えただけで、生活圏が変わってくるのですね。このバス停にやって来るのはなんと一日1本です。バス停の路線図をしげしげと眺めていれば、日影なんていう名前のバス停もあります。なるほど、V字になった斜面の両面に集落があり、その一方が日差しのよくあたる日向の集落ならば、もう一方の反対斜面にある集落は、たしかに日があまり当たらないこともあうでしょう。日向とか日影とかいう地名には、そんな意味があるのですね。
 JRの駅もあるので、山を下りた鳥沢の集落は、さぞ大きな集落かと想像していたのですが、あまり活気がありませんでした。合流した国道の甲州街道は、隣を走るダンプカーに気をつけなあらの歩きで、あまり面白みのない道です。f:id:tochgin1029:20170118124215j:image遠く川の反対側を見ると、朝にみた「コモアしおつ」のように、丘の上にニュータウンらしき住宅街が広がっているのがぽつぽつと見えます。高度経済成長からバブル経済が終わるころまでは、都市化は進み、住宅の価格もどんどん高騰してくるばかり、都心から放射状に延びる鉄道路線沿いの住宅開発は、年々より遠くを目指すようになっています。これら山上のニュータウンもたぶんこのころに作られたものでしょうが、もう時代は変わっていて、駅前に高層マンションが立ち並ぶいまでは、遠距離からの通勤はただただ時間の無駄と考えられるように変わってきます。ましてや、このように通勤時間もかかり、駅からの道も不便なこのような山上のニュータウンは、もうこれから作られることはないだろうと思います。
f:id:tochgin1029:20170118124315j:image 今回の行程でゆいいつ観光地らしい観光地なのは猿橋です。ぽつぽつと国道沿いを歩いた先にとつぜん現れます。ですが、寒い土曜日の朝にだれひとり観光客はいませんでした。眺めをひとり占めした心地で風景をながめると、猿橋の手前で、普通の河原から岩場へ変化しています。わたしは写真はへたくそですが、ここではカメラのフレームのなかに橋や岩のおさまりがとてもよい。カメラのへたくそな人にお勧めしたい?スポットですね。
f:id:tochgin1029:20170118124341j:image 猿橋から大月の市街地まで、それほどの距離はありません。中央線の要所である駅のイメージから、さも大きな街のように想像されると思いますが、こじんまりしていて、駅前のひとどおりも少ない商店も少ないじつに静かな町です。まちなかの高校ちかくにあるラーメン屋に入ったところ、地元のひとばかり。店内のメニューは、どれもこんな値段でいいのか?というくらいリーズナブルな価格なのですが、出てきたのはきちんとしたラーメンで、これにはとても感心しました。日が暮れるにはまだ時間もあるので、この先もうすこし先に進みます。
f:id:tochgin1029:20170118124422j:image ひとつさきの下真木宿には、本陣の建物が残されていると、日野宿の資料館で教えてもらっていたので、見学したかったのですが、行ってみると見学はしばらく休んでいるそうで残念です。このさきも、あたりは国道沿いの単調なバイパス道がつづきます。やはり峠をま近にしているためか、道脇の雪の量は、先を歩くにつれて多くなってきました。雪は、ときどき凍結していたりするので歩きづらくなっています。そして、下初狩宿の手前まできたところで、ついに雪道をあるくはめになりました。10CMくらい先週の雪が溶けずに残って積もっています。そして、2人から3人分くらいの足跡が残っています。さいわい足跡をたどれば、道に迷うこともなさそうですが、この雪道のあたりは採石場になっていて、とても殺風景な場所です。
f:id:tochgin1029:20170118124438j:image 下初狩宿まで歩き、今日の行程はここまでです。宿のあたりはまとまった集落ですが、JRの初狩駅は無人駅らしく、コンビニをのぞいてあたりに人けもありません。朝の野田尻宿の暖かさから比べると寒くなりました。今日はあまり人けのないところばかりを歩いていたせいか、ひとの気配が恋しくなります。次回はいよいよ、笹子峠を越える道に入ります。このさきの道はもっと雪深くなるでしょう。雪が解けるまで待つしかないかなと思っています。

戦を知らない者たちの戦〜保元の乱(橋本治「双調平家物語ノート〜権力の日本人」を読む2)

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))


平安時代の初期に薬子の変が起きてから、保元の乱がおきるまで、都の王朝のなかに死刑はありませんでした。王朝に直属する常備軍というものも存在しなかった。武士の中には朝廷に仕え官職を持つ者はいるけれど、あくまで警察官という肩書きです。都を離れた関東では武力を伴った争いごとなど日常茶飯事ですが、それはあくまで私闘であって、都に住んでいれば、その肌感覚は伝わらないし、もちろん関心もないのですね。
そんななかで、事を起こした貴族たちも武士たちも、実は戦というものがどういうものかわからずにやってしまった戦というのが、保元の乱の本質です。もちろん謀をめぐらすための集まりはあって、上皇側では藤原忠実と頼長の摂関家源為義源為朝の父子が集まっています。武士とはいっても護衛しかやったことがなく、実戦経験もない父の為義に請われ、参じた子の為朝は、実践経験が豊富です。為朝はその場で、当時の常識の戦法である、敵の私邸の夜討ちを提案しますが却下されます。この時代に、貴族と武士が対等であるはずもなく、興福寺延暦寺の僧兵をあてにした、摂関家の朝まで待つという意見が通ります。上皇側では武士たちの意見は退けられましたが、後白河天皇側では、源義朝の意見が通り、夜討ちを実行した天皇側の圧勝となります。
 橋本さんはここで、保元の乱の主要人物を新しさと旧さとで2分します。武士では、長い都仕えによって、実戦経験がほとんどない為義と、地方での実戦経験が豊富な為朝や義朝の新しさが対比される。宮中の儀礼にあけくれる日常を過ごしつつ、それとはかけはなれた武力の行使を夢見る藤原忠実や頼長の摂関家父子に比べ、武力の行使による、新しい政治状態を冷徹に見据えている信西の新しさを対比します。なにしろ、死刑というものが300年なかった都では、保元の乱の敗者にも勝者も、死刑を行使する重さをわかっていなかった。為義は息子の義朝に投降すれば、命だけは助かるだろうと思っていただろうし、頼長も忠実も、藤原の氏寺である興福寺に逃げ込めば、命は助かると考えていた。300年ぶりの死刑そのものも、そのあとの歴史を動かした一因のように思います。
 源義朝は、弓矢を使った争いに勝利しても、宮中の弓矢を使わない争いには勝てなかった。後世の源義仲にもあてはまることです。そのなかでの平清盛の存在が薄いことに気が付きます。摂関家の走狗だったのではないか?というのが前記事の疑いですが、後白河天皇の存在もとても薄い。それは次回の記事にまわします。

摂関家の走狗(橋本治「双調平家物語ノート〜権力の日本人」を読む(その1))

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))


 前回の記事でとりあげた、大澤真幸さんの「日本史のなぞ」で、橋本治さん「双調平家物語ノート」に言及がありました。読んでみたいところですがなかなか入手しづらい本のようです。そんなとき役立つのはやっぱり図書館で、探しては借りて読んだところです。橋本さんの「双調平家物語」はかつて、ひととおり読んでいくつか記事を書いたこともありました。そんな「双調平家物語」の土台となった、橋本さんの思考の動きが「双調平家物語ノート」を読むとよくわかります。時代のありようをわしづかみにする感性は、やっぱり作家ならではのもので、学者では考えつかない視点なんだろうなと。あいかわらずの視点の鋭さに感嘆しています。
 たとえば、平家物語で大悪党とされた平清盛ですが、では具体的に彼が行った「悪行の数々」というのはいったいなんなのか?といえば、それほど具体的に平家物語に書かれているわけではありません。そして平家物語に書かれた清盛に行動を年表に落とし込んでいくと、非常にスカスカな年表が出来上がる。やたらに空白の年月が存在するわけです。そもそも「悪行」をしていないのだから書きようがないのです。それよりは、その間の出来事を書くと都合が悪かったとも考えられます。それは平家物語摂関家の視点から描かれているからで、年表が空白である間の出来事というのは、摂関家と清盛が協調関係にあった期間であったことが読み取れます。清盛を悪人としたい摂関家からそれは都合が悪いわけです。

 さらに付け加えるなら、退廃した平安王朝の中を、さも平清盛は自力の策略でのしあがったように思われていますが、どうもそうではないなとも思っています。保元の乱平治の乱を過ぎてしばらくは、清盛は摂関家の走狗でしかなかったのではないでしょうか。摂関家の争いのなかで、それぞれの勢力が平氏を大きくしていったのが実態だったと。

 保元の乱平治の乱から源平の合戦が始まるまでに20年を経過しています。この2つの乱の結果がただちに、平家の天下と戦乱を呼び起こしたのではなく、むしろ、摂関家と王朝に代表される貴族社会が、身内どうしの争いから自壊していった時代であった。あくまで平安時代の主役は、王朝であり摂関家であることは見誤ってはいけないと思います。

 

自覚されない革命(大澤真幸「日本史のなぞ」朝日新書)

日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか (朝日新書)


日本史上に革命はあった。という人もいれば、革命はなかったという人もいます。革命がなかったという人によれば、庶民が立ち上がった抵抗運動が時の権力者を滅ぼした、なんてことは歴史上になかったと述べ、革命があったという人にとっては、たとえば明治維新大化の改新のような出来事を、革命と捉えている。大澤真幸さん「日本史のなぞ」朝日新書を読んで見ると、そのどちらとも異なる見解に驚いたのでした。
 とはいっても、それは別にアクロバティックな珍説ではありません。出てきた名前がおおよそ通俗的な革命家のイメージからほど遠いのですが、日本史の通史をひととおり理解していればなるほどとも思う名前で、革命家として取り上げたのは北条泰時です。学校の日本史の授業が好きな人であれば知っていても、そうでなければあまり知らない人も多いでしょう。
 北条泰時鎌倉幕府の3代目執権とされる人物です。源頼朝が亡くなった後の幕府は、御家人たちが反目する場となっていました。そのはざまをぬって、幕府に対して朝廷が挑発し戦を仕掛けます。存亡の危機に結束した御家人たちが大勝利をおさめ、首謀者とされた天皇上皇たちが流罪となりました。この承久の乱と呼ばれた争いの10年後に、泰時は御成敗式目という法を定め、鎌倉幕府の権力が安定化しました。この一連のできごとを、大澤さんは日本史上唯一の革命と述べているのです。天皇上皇を裁いて流罪に処したことは、足利尊氏のように皇国史観では逆賊とされ断罪されてもよさそうなのですが、むしろ後鳥羽上皇側に非があったのだとさえ支持されています。そんな日本史上唯一の革命に、大澤さんは、中国の易姓革命とも違う論理を見つけます。易姓革命の論理からは、天皇上皇たちに徳がないから、「天」のもとに断罪されたのだ。解釈できるでしょうが、ここでの北条泰時の政治的な判断はそうではなかったのだと。正直なところ、その論理がなんであるかは大澤さんの文章ではわかりにくかったのですが、それよりも御成敗式目の起請文を読むと、スッと理解できたように思います。

 御成敗式目の起請文には、序列の違いや好悪を抜きにして理非をあきらかにすること。梵天帝釈天、その他列島60州余の神々に対して誓うと書かれています。そこに「天」とか「神」とか自然界に対して超越するような概念は存在しません。むしろ列島を構成する大地や山や川、いわゆる「八百万の神」に誓っているかのようです。   
 貴族や官職の律令のほかには、御成敗式目が成立するまで、日本の国内には成文化された法はなく、まして律令にしても、それは中国の王朝のものを輸入したものです。御成敗式目が画期的なのは、律令とは違い、貴族ではない武士たちにとっての法であることで、それまで日常でつちかわれた、物事の理非を定める慣習がここで初めて法として成文化されたことでもあります。だからこそ、改変や追記はされても、この式目は相当の後世にまで引き継がれ準拠されています。
 いわば八百万の神の名にもとずいて、北条泰時天皇上皇たちを裁いた一方で、その職を廃することもしませんでした。むしろ朝廷側が代わりの天皇をつけるように仕向けてさえいます。それは、天皇の絶対化や神格化の否定をも意味します。戦後に先立つ700年前、すでに天皇人間宣言はされていたのですね。
 大澤さんの「日本史のなぞ」から、承久の乱あたりの出来事を調べるほど、この一連の変遷を革命と述べてもいいように思えます。そして、この時代に世俗の側から王権に制限をかけたような動きは、同時代の世界史でも類例がなかったように思います。革命だからといって、フランス革命のようなドラマチックな市民の蜂起ばかりが革命ではないのです。
 なお、ここでの泰時をはじめとした御家人たちのふるまいは、後世の幕府や足利氏の政治判断の手本としても参照されています。ただ、ここでの尊氏の判断そのものは、泰時に比べても非常に筋のわるい二番煎じで、その筋の悪い政治的な意思決定が、むしろこの後の中世の混乱を呼んだとさえ思います。皇国史観のように尊氏を逆賊と思いませんが、後世に混乱を引き起こし、中世を曲げた原因なのではとさえ思います。