崖の上と崖の下(甲州街道を歩く10)

f:id:tochgin1029:20170726013319j:image甲州街道の歩く道中ですが、前回は甲府まで歩きました。甲府の街は、まんなかに甲府城が鎮座していて、政治経済からなにからなにまで山梨の中心です。駅前に鎮座する武田信玄銅像からは、どこか町全体がいかめしい印象を受けます。武田氏を滅ぼしたあとの甲府には、やがて徳川家の殿様がやってきたようですが、山梨といえば「武田」という印象が強くて、徳川の殿様の印象は薄い。ですから、いまの甲府の街も城下町の風情が強く、宿場町の名残りを求めるのは難しいようです。どこが本陣跡でどこが脇本陣の跡だったかも定かではなく、けっきょくは甲州街道と身延道の追分を旅の終わりにしています。今回はその追分からのスタートです。ともかく、7月の終わりにあるくのですから、今回は暑さと付き合いながらの歩きです。
f:id:tochgin1029:20170726013747j:image 少し歩くと、あっけなく街を抜けて郊外の風情となります。バイパスであろうが旧道であろうが、このあたりはまったくの車社会。歩く脇を自動車がすいすい通り抜けます。川を渡ると、その先には、大きくて印象的な木が建っています。昔の名残をのこすのはそのくらいでまわりは典型的な住宅地です。
 そこから少し歩くと、大きな公園があります。この山梨県を歩き続けてみると、とりわけ公衆トイレの少ないことや、たいがいトイレの設置されている小公園や広場みたいなものが極端に少ない印象を受けています。そんな数少ない公衆トイレのある公園にかけこむと、公園の中には立派な文学館や美術館が建っています。とりわけ、美術館はそうとうに力のはいった施設です。屋外には様々な近代彫刻が建っています。この山梨県立美術館は、ミレーの「落穂ひろい」を高額で購入したときに話題となったこととを覚えています。その美術館には客が途切れることなく中に入っていいきます。どうやら、国内の代表的なカメラマン101人の作品を網羅した企画展をやっています。通常だとこの手の企画は絶対に中に入って見学したいところですが、まだ旅もはじまったばかり、がまんして通り過ぎます。
f:id:tochgin1029:20170726013836j:image そのまま郊外風情の道路はつづいています。昼飯時には、安藤忠雄の作品らしく、いかめしい印象がする竜王駅のあたりで食堂を探しましたが、せいぜい1件くらいしか見つかりませんでした。ただ、中に入った定食屋のラーメンは予想外においしかったでした。その竜王駅のあたりは狭い道を自動車がびゅんびゅん割り込んできます、とても歩きずらいところ困惑していると、長い坂道が目の前に現れて、突然のように甲府盆地は終わります。いままで、びゅんびゅん飛ばしている自動車も、この急な坂道を上るためにアクセルをふかしながら登っていきます。もちろんわたしが登るのも息を切らしながら、こころの準備なく坂道を上るのはやっぱりつらいものです。登った先には台地がひろがっていて、あたりはすっかり高原の風景です。雲の多い空はとても遠くの山など眺めることはできないのですが、それでも起伏のある台地の道は、それまでのバイパス歩きに比べればのんびりしていて、とても気分のよい道です。起伏の多い台地上の道中では、視界に中央線が入ってくることはありませんが、道自体はほぼ中央線に沿っているようです
塩崎の駅を過ぎてから、韮崎までの道は線路に沿いながらの少し退屈な道で、釜無川を渡るとまもなく韮崎の街が現れてきます。
f:id:tochgin1029:20170726013942j:image韮崎の街は立派な駅前と立派な市街地を持つ街ですが、なにしろ35度を超える暑さですから、ほとんど誰も歩いていません。街を遠景で眺めた時にこの街を特徴づけるのは、何よりも遠くまで続く「七里岩」と呼ばれる長い崖線のことです。途中には崖に地蔵様が鎮座しています。そのひとつを音連れました。この先、中央線は崖の上を進みますが、甲州街道は、国道と一緒に崖の下を進みます。るあたりは、山梨では珍しい田園風景が広がっています。
f:id:tochgin1029:20170726014035j:image どこまでいっても崖は続きます。次の台ケ原宿までは16キロさきです。中間の穴山駅近辺までを今日の行程としました。ただし、ここから帰る方法が大変です。穴山駅は崖を登った台地の上、さっき歩き終えた甲州街道は崖の下です。崖の上に登るには、にあやしげな細い道を登らないとたどり着かないのです。登った先の崖上は崖下とは別世界です。田んぼが広がった崖下とは違い、崖上は畑が広がっています。ようやくたどり着いた穴山駅は、小さな無人駅でした。

エキセントリックの表出(山田詠美さんの恋愛小説)

無銭優雅 (幻冬舎文庫)


柄にもなく、ときどきは恋愛小説をむしょうに読みたくなるときがあって、その時に読むのは、山田詠美さんの諸作だったりします。短編も長編作品もたくさん書かれた山田さんの恋愛小説に、さて共通するモチーフってなにかあったっけ?などと考えてみると、恋愛もコミュニケーションのひとつだという、あたりまえの事実が提示されているのですね。
 数日前に、作家の平野啓一郎さんが、自身のアカウントでセックスもコミュニケーションのひとつだ。とツイートしていました。その意味は、恋愛がコミュニケートのひとつだということと同じ意味なんだと思います。でも、その言葉は女性作家たちの作品に体現されているように思います。例えば「無銭優雅」だと、どうにもうだつのあがらない登場人物たちの恋愛。どこかにエキセントリックな部分を抱えている女性。そして恋愛というコミュニケーションのなかで表出されたエキセントリックさは、受け止められて、反発されて、やがて許容されていく。長編作品では、そのエキセントリックさはやがて克服され、ハッピーエンドに終わっていきます。けれど、短編作品では、エキセントリックさは表出されたところでぶつっと終わる。読者であるわたしは、登場人物のその後を思い描いたりします。
 これだけ多作でキャリアの長いわりに、山田詠美さんの作品が、印象に残るような形でドラマ化されたり映画化されたことって少ない印象がするのです。山田さんの作品によく表れるエキセントリックな人間たちを演じるのはたぶん複雑で、映像作品として表現するのも難しいように思います。けっして浪花節のような、わかりやすい感動物語には収束されないし、人生訓や処世術みたいなものを小説の中に見つけようとする読み方への反発のようです。

 山田詠美さんの作品を読むたびに、人間誰しもそんなエキセントリックな部分のひとつやふたつは抱えているものだ。なんて気になります。

 

そういえば選挙だった

都内だと、すでに都議会の選挙が始まっています。自営の旧い工場や商店とかが立ち並んでいる職場の近くにはポスターが掲げられています。いつもであれば、掲げられているポスターのだいたいは、自民党一択なのですが、今回は少し様子が違っていて、貼られているポスターは2種類、自民党のポスターと都知事が立ち上げた都民ファーストの会のポスターを同時に掲げている店や工場が多いようです。自営業の家族だと義理立てで、都民ファーストの会自民党に分担して投票することも多いのでしょうか。
 都民ファーストの会では、ポスターには「ふるい都議会をあたらしく!」というキャッチフレーズが掲げられています。選挙ポスターの言葉としてさして目新しいものではないけれど、報道で流される豊洲市場の移転とか都議会自民党との対立といった、共通のコンテキストを知らなければ、その意味は、門外漢にはわからないだろうな?と思いました。読みかたによっては「古くなった都議会の建物を建て替えたいのか?」という意味にも受け取れますね。
 一方で自民党のコピーは、首相の顔とともに「進める責任。東京を前へ。」というコピー。これも、連日に報道される豊洲移転の問題を知らなければ、いったいなんの意味かわからない。東京を前へ、という文言は、門外漢にはウオーターフロンとの開発を進めよう!という公約にも読める。共通のコンテキストがなければ理解できない言語です。
5W1Hとかホウレンソウといったビジネスの情報伝達の視点では、どちらの文章もまるで落第です。戦後日本の広告コピーの世界は、そういえば、こうした共通するコンテキストを前提とした言語であって、そのコンテキストを共有しない人々にとってはまるで理解の及ばない言語です。
現代では、日本語の使われ方は、利害の調整、あるいは立場を規定する言葉としてしか使われていなくて、事実を伝達する言葉の機能が失われています。広告業界だと、その共通のコンテキストをコントロールしようとする技術だけが発達。
覚めた目線でその世界を眺めると、タレント政治家の登場のあと、その浅ましさばかりが現実政治の世界に入り込んでいるように思ういます。困るのはそうした刷り込みは、次第に個人の心身に侵食していくことです。

 

ラジオ体操をしながらの妄想

 やっかいな梅雨がやってくるまでの季節は、新緑がきらきらとしたここちよい季節で、すこし早起きをしてご近所の公園に行けば、だいたい6時半ころにラジオ体操をしています。多くの体操をする人たちは、もう仕事はリタイヤしたんだろうななと思う年配の人たちがほとんど。彼らが「久しぶりだね」と知人に声をかけあう姿を眺めると、毎日のように欠かさず参加する人はそう多くはないようです。

 ちょっとした大きさのこの公園のラジオ体操は、日曜日ともなればほんとうにたくさんの人々が集まります。この公園を歩きながら、大勢の年配の人たちを眺めて妄想じみた考えが頭をよぎります。
朝にこの公園にラジオ体操に訪れる人たちは、だいたい300人くらい。そして、訪れる年配の方たちの平均年齢をだいたい70歳と仮定するなら、その合計値は、300×70=21000にもなる。その途方もない数字に妙な感慨を覚えたのです。この21000という数字は、こどものときに眺めたテレビ雑誌に載ってた、ウルトラマンの年齢に近いことを連想します。

 この公園に集まる300人が人生を過ごした時間は、それぞれはまったく別なものです。そして、ひとりの人間が過ごす70年という時間も、まっすぐな時間ではなく、だいたいは曲がりくねった時間でしょう。1年1年がまったく同じことなんてありえないでしょう。

 その人間の営みの総体は、現在を生きる人たちだけが占有しているわけではなくて、過去に生きていた人、これから生まれるであろう人たちまでを含めると、それはそれは膨大なものです。
 お墓に祭られるご先祖様、神様として神社に祭られる権力者から、遠い過去にこの地で行き倒れた人たち、非業の死を遂た人たちといったひとたちまで、神として祭られるモノや人は、なにか特別なひとのように思っていましたが、どうやらそうでもないのだと思います。有名だろうが無名だろうが、地上に生きてきたひとたちの人間の営みの膨大さに気がつくと、怪しげな心霊現象や宗教などに頼らなくとも、人間の営みの総体それ自身が、すでに神秘的なものなのかもしれません。

 

ぶどう棚の道(甲州街道を歩く9)

f:id:tochgin1029:20170523233755j:image 甲州街道の歩きは、前回は勝沼まででした。それから1か月が空いてまごまごしているうちに、春は過ぎて初夏になっています。1か月ぶりにおりた勝沼ぶどう郷駅におりると、あたりの風景は、4月よりも濃い緑色に変わりました。甲州街道勝沼宿から勝沼ぶどう郷駅までの離れた距離を歩くのは、前回はつらかったのですが今回はその逆。体力は十分だし、延々と葡萄畑が続く途中の道も快適に歩けます。ブドウの実はまだ小さな緑の小粒。農作業もいまが盛りらしく、手入れをする農家の人たちの姿を眺めることができます。f:id:tochgin1029:20170523233911j:imageJRの駅と離れた勝沼宿のあたりのほうが、古くからの街です。途中には田中銀行という建物があり、意外とモダンな建物とか寺社もあります。大善寺を見学したときに、この地のぶどう栽培の歴史の古さにびっくりしたのですが、この勝沼は、おもったよりも歴史の深い町であることを知りました。
f:id:tochgin1029:20170523233937j:image 街はずれには古い神社があり中に入ります。境内には大ケヤキの木がそびえていて、本堂へお参りします。ただし、本堂には、最近話題となった「日本人にうまれてよかった」という神社本庁のポスターが掲げられていて困惑します。日本人だろうが日本人でなかろうが、この世に生まれてくることに優劣などないのだから、このポスターがいわんとしているメッセージは、わたしは間違っていると思います。そして、この土地の精霊たちは、きっと日本人だから護るとか外国人だから護らないわけではなく、この土地を通り過ぎる人たちすべてだろうなと。この神社のお参りを拒否することもできたでしょうが、わたしはあえてお参りしました。「日本人だろうが日本人でなかろうが、この神社をおとずれるすべての人が護られるように」と。f:id:tochgin1029:20170523234004j:imageこの近くには萬福寺という、相当に歴史の旧い寺もありました。残念ながらあまり境内の手入れは行き届いていないようですが、ほかにもこのあたりには寺社が点在します。笹子峠から甲府盆地へ、山地から平地へと切り替わるこのあたりを良く眺めると、そうとうに古くから開けた土地であることがわかります。
f:id:tochgin1029:20170523234125j:imageここから、栗原宿までは、だいたい3~4キロくらいです。宿場町に由来するような古い建物もそれほど残っていないこの集落は、一見すればなんの変哲もない街道沿いの集落です。そういえば街道そいには、食堂チェーンの大戸屋 創業者の生家というものもあります。この甲斐の国は、やっぱり商人の国なんだなあと思います。そういえば中山道の旅では湖国を巡りました。近江の国も近江商人と呼ばれる商人の国でした。この甲府盆地の光景もどこか近江の国に似ているような気もします。近くのコンビニで休憩すると、あたりは自転車でひまを持て余している地元の中学生が居ます。自転車で中学生がふらふらできるのもあたりが平地だからであって、坂の多い山間部だと自転車でふらふらはできませんね。こういう中学生の光景は、平地の集落に特有に思うんです。
f:id:tochgin1029:20170523234102j:image ここから石和までの道は笛吹川がそばに寄ってくる道になります。川にはあまり水は流れていませんが、松並木を越えれば、堤防のわきに笛吹権三郎という少年の碑があります。この笛吹権三郎という少年、洪水によって生き別れた母親を探してあきらめきれず、自らも洪水によって死んでしまったそうです。笛吹川という名前もここからら採られているそうです。いまでは、非業の死者を供養するという習慣は薄れたのかもしれません。さらにすすむと廃墟のような古い建物のテアトル石和という映画館があります。つぎつぎに客が出入りしています。これを過ぎれば石和の本陣跡です、この付近には公園があって足湯があり、しばし休息。
f:id:tochgin1029:20170523234251j:image それにしても、この日は真夏のような高気温でした。そのせいか、石和から甲府までの道は、とりたてて述べるようなものがない変哲のない郊外の道です。ただ、わき道の行き止まりをのぞけば、行き止まりにはお寺が建っています。有名寺院ではないのですが、甲府盆地のあたりはさりげなく寺社が多いようです。
f:id:tochgin1029:20170523234207j:image 街道から少しそれて、甲斐善光寺に立ち寄りました。この甲斐善光寺は長野に比べればまったく無名なのですが、本堂の建物の大きさは信州となんら変わりがありません、むしろこちらのほうが、付近に高い建物が存在しないぶんだけ、あたりの景色に与える存在感や威圧感は、信州の善光寺よりもすごいと思えます。もっとも、参拝客の数は比べるまでもなく、こちら甲斐の善光寺は参拝客もぽつりぽつり。胎内くぐりという本堂の真っ暗やみをぬけるところも信州の善光寺と同じなのですが、客が少ないぶん、右左どっちに進めばよいのかわからない不安感や怖さはこちらのほうが上かなあと思います。
f:id:tochgin1029:20170523234228j:image 善光寺から街道筋に戻り、甲府の市街地に向かいます。日曜の甲府の市街地は見事なまでのシャッター通りと化しています。そして通りを誰も歩いていないのですね。市街地の道路にはなるほど歩道橋が多くて、たとえば老人にとっては、気の毒なくらい歩きづらい場所です。そんなのも、誰も通りを歩いていない市街地の理由のひとつではないでしょうか?甲府柳町の宿には、なかなか本陣跡らしき場所もみつかりません。しかたなく、身延山に向かう街道との追分で、本日の行程を終わりにしました。すこし、甲府盆地の歩きは変化が乏しかったようにも思います。ここからさきの道は、だんだんと標高が高くなっていくはず。きっと、高原の良い景色も眺めることができるでしょう。

 

関東平野の河川交通と蒸気船

 中世の関東平野を推定した地図を眺めると、おおきな河川がいくつも関東平野を縦断していることに気がつきます。茨城県東部の湖沼は、太平洋と繋がっていて、まるで太平洋の内海であるかのようです。その往時の光景は現在の姿からはかけ離れていて、そこでは水上交通がさかんであったと書かれた本もあります。けれど、いざ詳しく調べたくなると文献が少ないのです。 現在、埼玉県の東部では、それぞれの自治体が協力して「埼玉県東部の交通」と題した展示を、持ち回りで巡回展示しているそうです。非常に貴重なジャンルの展示なので、現在、展示を行っている宮代町の郷土資料館まで行きました。
 このあたりの東武線の車窓は、平坦な土地に田んぼと住宅が入り混じるのが代表的な風景で、いまだとちょうど田植えの季節です。そして、このあたりの河川のは、満々と水を蓄えゆったりと流れています。降りた姫宮という駅も、駅前こそ住宅が建ちならんでいますが、すこし歩けばすぐに田園風景が広がっています。郷土資料館の敷地のそばには、藁ぶきの旧家が移築されています。
 展示のなかで興味をもったのは水上交通でした。よくよく考えれば、あれだけの人口をかかえる江戸の暮らしを支える物資が、人足や馬だけで運べるわけもありません。築地にせよ日本橋にせよ川の近くに位置して、往時の浮世絵には蔵が頻繁に描かれています。こうした蔵に納められる物資というのは舟運によって運ばれていて、大量の物資を江戸まで運ぶのは、舟運の利用が前提となっています。江戸時代に盛んだった舟運が、明治になり発達した鉄道網に取って代わられますが、近代的な鉄道と時代遅れの舟運、というくくりには決してあてはまらない動きに興味を持ちました。この地域に鉄道が開通するまでの明治の一時期、それなりに舟運の近代化がされていた時代があったということです。この地域には江戸時代に盛んだった舟運を引き継いだ、蒸気船による定期航路というのが存在していて。利根川といった大河川では、通運丸とか古川丸とかいった名称で、複数の通運会社が競争を繰り広げていたそうです。東京発のこうした航路は、江戸川をさかのぼって、埼玉県北部、さらには、茨城県の古河、はては現在の小山市とか栃木市といった栃木県南部まで到達する航路さえあります。展示されている当時の時刻表だと、奇数日の午後3時に船は東京を出発し、反対に偶数日の正午に埼玉北部の河岸を出発するダイヤとなっています。現代だとフェリーとか高速夜行バスに類するのでしようか。高い堤防に囲まれた現代の利根川からとても想像ができない光景で、だからこそ、とても興味を掻き立てられるのです。
 水上交通に変わったのは鉄道交通です。日本鉄道がまっさきに建設したのは、現在でいう高崎線で、そこから東北線が分岐します。東北線ルートのもともとは大宮分岐案と熊谷分岐案があって、もしも熊谷で分岐するなら、その支線は足利佐野栃木といった現在でいう両毛線の諸都市を経由する予定だったようです。現在ではこれらの諸都市はどうもぱっとしない小都市ですが、東武鉄道がこの地域に建設されたのも、足利で作られた絹織物を東京へ輸送するためだとのこと。現在からは想像できないほどおおきな存在だったのだと思います。いままで気が付かなかったのですが、東武伊勢崎線のルートというのは、当時の舟運ルートを意識して選択されたようです。だから、いくつかの船問屋は、鉄道の開業後には駅の荷物問屋に衣替えしたそうです。
 その後、この地では鉄道免許の申請がブームとなっています。展示物をひと目見ただけでも、大宮から成田へ向かう鉄道とか、幸手鉄道やら○○鉄道という名称やらあらゆる名前の会社が鉄道の計画を立てています。そのなかでも武州鉄道という鉄道は、川口から蓮田を経由して、はては日光までを目ざすという壮大な計画を持っていたそうですが、結局は資金難で蓮田駅から先に延びることはなかった。現在の埼玉高速鉄道の延伸予定のルートがかつての武州鉄道のルートだったそうです。
 あまりにも都市化が進んだ関東平野では、歴史を紐解くにもとかく陸上交通の歴史に偏りがちで、さかのぼるのも鉄道の歴史から、せいぜい旧街道の情報くらいだと思います。実際に関東平野の舟運に関して情報を得るのに、ネットの検索は役立ちませんでした。けれど、ほんの100年ほど前まで、河川を通る舟運というのがれっきとした交通手段として生きていたのは事実です。展示物の文章を丹念によむと、舟運の衰退や廃止が、決して時代遅れによる利用者の減少などではなく、治水対策という時の政府による政策の影響だったことがわかります。実際に、栃木南部のいくつかの河岸は、足尾鉱毒の対策による渡良瀬遊水池の建設に伴い廃止されたようです。
 それにしても、関東平野の舟運については、いろいろなことを知りたくなるのですが、図書館にでも通わない限り、わからない情報があまりにも多いようです。

社会が見えなくなる(橋本治「たとえ世界が終っても〜」)

たとえ世界が終わっても ──その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)


 橋本治さんの新刊「たとえ世界が終っても〜」を読み終えたところです。
難病を抱えてるという橋本さんの体調もあるのでしょうか、最近の近刊には老いを感じてしまうところもあるのですが、それでもところどころに、鋭い指摘があります。
 書の後半を占める、異なる世代の編集者2人との鼎談形式の文章、1人はバブル期に成人を迎えた世代のかた、ほぼわたしと同世代。もう1人はゼロ年代に成人を迎えた年少の編集者です。橋本さんの繰り出す世相批判の言葉にたいして、年少の編集者は「ちょっとムカつくところがある」と述べます。橋本さんは「なんでムカつくの?あなた自身のことではない、世相批判だよ」と指摘します。そのような指摘をその年少の編集者は新鮮だという。彼の意識にとって、社会と自分が不可分のものとなっていて、だからこそ、世相批判をまるで自分が批判されたかのように感じてしまう。この編集者の思考経路には、わたし自身もおおいに当てはまるふしがあるのでギクッとします。個人としての自分と、自分を取り囲む家庭や仕事先、はては国家とか政府がカテゴライズする「国民」とが、一緒くたになってしまっているのですね。
 橋本さんは、バブル期のあとに日本人の心底から社会が消えてしまったと指摘しています。自分と自分以外の区別がつかなくなる。やれパヨクとか反日とかせっせとTweetする自称愛国者たちを、自分自身と国家を区別できない輩。と批判しても、それは彼らに限ったことではないことに、気を付けなければならないでしょう。それはバブル期以降の現代に生きる日本人にはある程度共通で持っている性格となってしまっているかもしれません。

「いや、わたしは違う」と思っても、毎日を仕事と家庭の往復に費やしている現代人にとっては、仕事と家庭のなかだけが社会のすべて。その社会とか公共に対する見方がとても貧しくなっている。だからこそ、決してネトウヨではない年少の編集者でさえも、橋本さんの述べる世相批判を自分が批判されたように受け取ってしまう。
 清水克行さんの「喧嘩両成敗の誕生」を読むと、中世 室町時代の都市が、個人個人がえんえんと争っている殺伐とした側面を持っていたことがわかります。結局は江戸幕府による管理社会になるまで、そのエスカレートした争いは終わらなかった。個人の心根から公共が失われた社会が行き着く先は、おそるべき管理社会だったり、上下つながりだけで横つながり欠落したような、軍隊社会になるのではないかと不安なりません。