湖畔の小世界(甲州街道を歩く12)

f:id:tochgin1029:20170915221211j:image 「諏訪」と称する地域はどこからなのか?富士見町を歩いているあたりでは、高原の雰囲気が濃厚で、地域のシンボルは「八ヶ岳」でしたが、茅野市内に来たとたん、公共のポスターや役所の貼り紙には「諏訪」という文字が多くなります。この地域が「諏訪」と称されるのは、もちろん「諏訪湖」という湖がこの地域のど真ん中に鎮座していることが理由です。けれども、湖畔をとりまくこの地域がまとまりをもった地域になるには、諏訪大社の存在が想像以上に大きかったのではないか?と思えてきました。なにしろ、昨日から歩いても、このあたりに神社は多いけれどほんとうにお寺は数えるほどしか見つかりません。大小さまざまな神社の境内で、その由来が書かれた説明を読むと、この地域に諏訪大社を頂点とした神社の組織が張り巡らさせられていることが分かります。
 さもわかったふうに書いている私ですが、諏訪大社と称するのは下諏訪にある下社春宮と秋宮の2つだけを指しているものと勘違いしていました。茅野駅前に大きな鳥居があるのをみて、はじめて茅野に諏訪大社の上社が存在することを知ったのです。本日の茅野から下諏訪までの行程には余裕があるので、諏訪大社の上社に寄り道することにしました。まずは、前宮を先に回ります。駅裏の大鳥居を抜け、なんの変哲もない住宅地を2キロほど歩くとたどり着きます。前宮のあたりはそれほどの観光地ではなくて参道の仰々しさもそれほどでない。けれども、通り過ぎる大木のたもとには小さな祠があって、地元の人が頭を垂れながら通り過ぎるし、社の中では宮司らしき人がせっせと宮事をしていて、生活の中に大社と信仰が生きていることがよく分かるのです。f:id:tochgin1029:20170915221603j:image前宮からさらに1キロほど移動すると本宮へ到着します。境内には板張りの廊下のようになっているところがあり、一風かわった造りになっています。森の中というわけではないのですが、派手さのない大社の建物がまわりの緑と調和しています。さて、大社の周囲はごく普通の住宅地です。参拝のあと、茅野駅の大鳥居まで戻るのに地図とにらめっこしつつ、ああでもないこうでもないとうろうろと迷っているうちに、かつての諏訪大社の大祝亭跡にまよいこみました。大祝というのは諏訪大社でもっとも位の高い人らしく、かつては巨大な敷地を抱えていたそうです。
 その理由は、もちろん諏訪大社が巨大な権力を持っていたからであって、跡地の看板にかかれていた説明文をみて納得しました。江戸時代になるまで、諏訪大社が政治権力を持って、この地域を統治していたのだそうです。いまとはちがっていて、中世という時代に政治と宗教はいっしょくたです。幕府の存在など諏訪にとっては日常とは関係のない遠い世界の話でしょう。いろんなことに合点がいったのでした。この地域が「諏訪」とひとかたまり地域となったのは、実際に諏訪大社がこの地域の権力を持って支配していたこととおおいに関係があります。中世と現在とのつながりを実感しました。大鳥居から街道歩きに戻ります。国道沿いのわりには交通量はそれほどでもなく、沿道を眺めると、ちいさな祠石碑がすぐに現れるし数も多い。もちろんあまりお寺は存在しません。国道を離れれば、沿道は旧街道の雰囲気が濃厚に残っています。
f:id:tochgin1029:20170915222012j:image その旧道をあるくこと1時間、上諏訪の街に入ります。茅野と比べると、上諏訪の街は古い建物が残っています。昭和の雰囲気を残す商店街には看板建築の建物もあります。すこし進むと、街中には、有名な「真澄」の酒蔵をはじめとした五つの酒蔵が隣り合っています。残念ながら前を通り過ぎるだけにします。山梨では、台ケ原宿で「七賢」の酒蔵をのぞきました。「七賢」の酒蔵はカフェや工場見学など、酒蔵は一大観光地と化していましたが、ここ上諏訪では、販売店は併設されていても、本格的に飲食できるレストランやカフェのような施設はなく酒蔵はあくまで酒蔵で、ここでも隣県ながら山梨と長野の違いが如実に表れています。そういえば、泊まり先である茅野のビジネスホテルで、フロントのおばちゃんが淡泊でそっけなかったことを思い出しました。山梨だと損得にかかわる限り商売人は親切でしたが、くらべれば信州だと商売人でさえも淡泊。商売に関心がないのかくらいの印象です。悪名の高い「善光寺商法」という言葉が思いだされます。
f:id:tochgin1029:20170915222041j:image上諏訪の駅前には、かつて諏訪プラザという大規模な店舗ビルが建ってましたが、建物は解体され更地になっています。駅前に大きな空洞が空いているかのようです。この更地がどのように利用されるのでしょうか?箱ものや商業施設なら、むしろ郊外のほうが大規模で立派なものが作れます。それに比べれてこの諏訪プラザ後の更地は狭すぎる。もうこのような地方都市の駅前にハコモノを立てる時代は終わったように思うのです。市街地の空洞化に対する対策でしょうか?隣の茅野駅前には文化会館が建てられていましたが、結局はハコものの一種にしか過ぎないように思うのです。
f:id:tochgin1029:20170915221343j:image 上諏訪から下諏訪までは、湖畔から少し登った旧道沿いの道を通ります。祠やら石碑やらがほうぼうに表れるのは上諏訪までの道と同じで、静かで快適な道です。ここにきてやっと諏訪湖が見えてきました。湖そのものはそれほどきれいに見えないのですが、この地域が諏訪湖を中心としてこじんまりとまとまっているさまがよくわかります。この地域と諏訪湖の関係は、滋賀県と琵琶湖の関係に近いかもしれません。さて、53個目の一里塚が最後で、そこから1キロほど歩くとあっけなく諏訪大社秋宮が現われます。ですがゴールはここではありません。鳥居のわきをすこし進み、有名な塩羊羹のお店の隣がゴールで、中山道との合流地です。

f:id:tochgin1029:20170915221937j:image秋宮だけ行くのももの足りなく、このまま1キロ離れた春宮をめぐることにしました。途中には中山道の一里塚もありこちらは55個目となっています。ということは、甲州街道のほうが数キロ距離は短いはずなのですが、より多く利用されたのは甲州街道よりも中山道だったようです。参勤交代の行列でも甲州街道を利用した大名は少なかったらしく、5街道のひとつとはいっても、甲州街道中山道に比べれば格下であったのではないでしょうか?
 今回、甲州街道を歩きとおして印象に残ったのは、住む人たちの気質が、その土地土地によってそうとうに違うことでした。山梨の人たちは利にさとい商売人の気質で通俗的、反対に長野の人たちは、損得にもならない教養好きの一面があること。その気質は、県境を越えて一気に変わるのではなくて、甲府から諏訪までの盆地から台地、高原に抜けていく道を通じて、グラデーションのように徐々に変化していく。いわゆる「県民性」というものが、本当にあるのだなと実感したのです。

標高900mの道(甲州街道を歩く11)

f:id:tochgin1029:20170914234023j:image 甲州街道を歩くのも山梨県を過ぎて長野県に到達しました。甲州街道の歩きは、進めば進むほどに標高がだらだらと上がっていくのが特徴です。出発地の日本橋はほぼ海の近くで標高0mなら、ゴールの下諏訪の標高が700m台です。中山道和田峠のような極端な難所はなくても、上る道が延々と続くのは、中山道とは異なった甲州街道歩きのキツさです。
 前回に歩いた蔦木宿は、信濃境駅の真下にあります。ほぼ至近距離の信濃境駅と蔦木宿までは、標高差が200mもあります、前回に難儀した登り道を逆に下ります。このあたり縄文遺跡が多く発掘される地域らしく、発掘された土器や土偶の写真が駅にも掲げられています。信濃境駅からは田野倉遺跡という縄文遺跡が近くにあって、途中に寄り道しました。縄文遺跡だと青森の三内丸山遺跡が巨大ですが、それは青森市内かつ比較的海の近くです。舟を使った海上の移動も普通に行われていたと思うのですが、こちらはとても見晴らしの良い 山の奥の台地で、三内丸山に住んだ縄文人と同じライフスタイルだったか?とても同じだとは考えづらいのです。遺跡に立ちながら不思議に思います。標高差のせいか、蔦木宿のあたりは駅のあたりと比べてすこし暑いことに気が付きます。
f:id:tochgin1029:20170914234104j:image さて、蔦木宿を出発すると、せっかく下ったにもかかわらず、また登り坂が始まります。このあたりで、韮崎からの行程で至近距離にあった巨大な崖線もようやく終わります。その終わるあたりで、明治天皇が野立をしたといわれる場所がありました。それは、周りの山々の眺めがとても良い場所なのですが、けれどもこの辺りの農地は、鹿やイノシシといった動物の食害を防ぐために、それぞれが高いネットで囲まれています。旧道の一部もネットで遮断されていました。
f:id:tochgin1029:20170914234447j:imageしばらく国道沿いを歩いてから離れると、かつての街道筋の雰囲気を残した光景が続く集落が現われます。丁寧に保存された建物は少なくても往時の蔵などが残る旧家も点在して、きつい上り坂を登るのもそれはそれで味わい深いのです。途中のとちの木の集落では、ようやく八ヶ岳の山容をよく眺めることができました。雲がかからない八ヶ岳の全景を眺めるのも貴重で、高原の集落に特有なのではないでしょうか、湿度の少ないカラッとした空気感が感じられました。
f:id:tochgin1029:20170914233945j:image その先も登り坂は続いています。なかには旧道のあたりが企業の敷地となっていて、立ち入れない殺風景な個所も混在するのが少し残念なところ。このあたり、反対側からやってくる親子連れと出会いました。父親の方と二言三言言葉を交わします。上諏訪から歩いてきたという親子連れ、父親の方は元気そうでも息子さんはへばっていました。この先の蔦木方面にもう上り道はないと言いましたが、少しは気楽になってくれたでしょうか?このあたりの標高は950mほど。今日の歩きを始めた信濃境駅の標高は930m、下りた蔦木宿は700mですからせっかく下りた200mを登りなおしたみたいです。
f:id:tochgin1029:20170914234526j:image 富士見のあたりからは、徐々に標高が下ります。降りた先で国道と再び合流すれば、小川平吉先生と書かれた、やたら立派な石碑が建っています。山梨の笹子峠では、石碑にされるのは杉良太郎ご当地ソングの歌詞ですが、長野で石碑にされるのは、戦前の政治家である小川平吉の「博愛」とい文字ですから格調がまったく違う。隣県ながら、山梨と長野両県の正反対な気質の違いが面白いですね。そういえば長野県に入ってから沿道にコンビニをまったくみていませんでした。風情を楽しむにはよいけれど、不便さも少し感じます。
f:id:tochgin1029:20170914233836j:image 金沢宿にたどりついても、かつての宿場の雰囲気はあまり残っていません。2~3件古い建物を見かけただけです。宿場を通り過ぎてみかけた「権現の森」という一角にある神社の由来書きを見て合点がいきました。もともとの宿場はこの「権現の森」のあたりにあって青柳宿と名乗っていたそうです。それが、水害によって金沢宿に移転したそうで、なるほどあまり旧さを感じなかったのはそのせいかもしれません。川沿いにはずらっと石仏が並んでいますが、すぐとなりが近所のゴミ捨て場となっています。よそ者にはばちが当たりそうにさえ思えますが、住民にとっては、こういったことには無頓着なのでしょうか。ここからさきは国道沿いの道ですが、主要国道のわりには、そう交通量が多くないようです。
f:id:tochgin1029:20170914233811j:image さて、宿を茅野市内にとったこともあって、本日の行程は茅野駅までです。駅前には80年代に建てられたと思われる駅前ビルが建っていますが、例によってまるで活気がなくなっています。駅周辺を歩くのは学生と年寄りばかりで、地元で職を持って生活している現役世代の姿がほとんど見かけません。現役世代の生活圏からは駅周辺が外れてしまっているようです。そのビルの裏手には大きな鳥居があり、諏訪大社末社とされる神社も駅前にあります。その境内には御柱と思われる木が立てられていて、いよいよ諏訪の地にやって来たことを実感します。翌日は中山道との合流地点、すなわち甲州街道のゴールにたどり着く予定です。

故郷での同窓会から…

お盆で里帰りをして、故郷では中学校の同窓会がありました。中学生の時に暮らした町ではただひとつの中学校。いまから思い出すと、懐かしさのあまりにはしゃぎ過ぎたかなと、少し恥ずかしくなります。
中学校のころにおとなしかった自分は、話した友達もそんなに多くはないけれど、不思議なもので、顔を見れば中学生の時にさして仲良くもなかった同窓生なのに、意外と話ははずむものです。35年も前のことなので、既に他界した同級生もいれば、仕事が忙しくて出席できなかった人、来ることもできないくらい遠くで暮らしている人、もちろん中学生の当時の悪い思い出がわだかまっていて、はっきりと「行きたくない」という意思だった人もいるでしょう。出席率にしたら3割くらいだったと思います。
 それでも、100人をすこし超えたくらいの同窓生の現在の人となりを眺めたり、ひとことふたことの近況を話しただけでも、卒業してから35年という月日の重みを感じさせます。地元で会社を経営している同窓生はまったく社長さん然としたたたずまいだし、35年のあいだに辛酸をなめていた人、まったく往時とはたたずまいも変わっていない人さまざまです。私自身のように地元を離れて暮らす同窓生が、総じて郷愁のように昔を懐かしむ姿と比べれば、地元で暮らしている同窓生は、意外にも淡々としていたことを思い出しました。地元で暮らす彼らにとっては、この場所は懐かしむというよりも生業を持って生活している場所なのであって、ノスタルジーにばかり浸れる場所ではないのだと思いました。ただ、安穏と生きていようが生きていまいが、どの人も過ごした年月や体験は身体に刻まれているのがよくわかります。そしてただひとつとしてそれぞれでまったく同じものはないのだな。という感想を持ちました。
 そのお盆という季節は、テレビでは、毎年のように戦争を振り返る行事やテレビ番組が放送されます。それらの番組をながめてわかるのは、何十万という現地の人たち、日本から移民した民間人も、両軍の兵士たちも、従軍などしないでいれば過ごした人生のあれやこれやの可能性が、兵士として従軍することや戦争に出会ってしまったことで途切れてしまったのだ。ということ。ひとりの人間が過ごす人生はそれぞれ別なものであって、2つとして同じものはないはずなのに、兵士として従軍するということは、そのべつべつの人生が、○千人とかいう数値に換算されてしまう。ひとりひとりの個人個人の人生の可能性をぶち壊しにしてしまうこと。その愚かな行為に手を染めさせる。全体主義こそ憎まれるべきものだと思います。

 

台地に住む人たち盆地に住む人たち(甲州街道を歩く11)

f:id:tochgin1029:20170726185133j:image前日の晩はつよい雨が降ったようで路面は濡れていました。わたしはといえばそれに気が付かないほどぐっすり寝ていたようです。泊まったさきの甲府のビジネスホテルには、小学生の団体が大勢でとまっています。そういえば夏休みが始まったことにいまさら気が付きます。前日に比べて気温が低いのはいいですが、いつ雨が降り出すかわからないような雲行きです。雨具を着けるのはあまり好きではありません。降らずに済むことを願いながら出発します。穴山駅までの列車からも雨にぬれた路面が見えます。
f:id:tochgin1029:20170726185159j:image下におりて昨日の歩きを続けます。あいかわらず殺風景なバイパスの国道沿いですが、穴山橋を渡ると旧道に入ります。旧道に入ると少しだけ古い建物と旧い街道沿いの集落の雰囲気を眺めることができます。台ケ原までの10キロ以上もさある道中には、このような古い建物が残る集落が点々としていて、それほど退屈はしない道中です。武川という集落では恒例の朝市をやっています。道ばたで案内をしている若い人にあいさつすると、どちらまで?と聞かれます。甲州街道を歩くというと、少し呆れたように「頑張ってくださいね」と言われました。
f:id:tochgin1029:20170726185227j:image台ヶ原の宿場の手前には、古道が残っていて、その道を進みます。定期的に整備はされているようですが、季節がら小さな草が路面を覆っていてすこし歩きづらい道です。
 たどり着いた台ケ原の宿は、これまでの道中を思い出しても、比較的旧い宿場の雰囲気が残っています。古い建物はリノベーションされておしゃれなカフェや雑貨店などに模様替えしています。地味な街道歩きの中で、このような、華やかな観光客の姿を眺めると、すこしだけ自分がなにか場違いなところにたどり着いてしまったような気になります。その台ケ原の中でも、人を集めているのは二軒のお店で、生信玄餅の金精軒本店と、地元では有名な造り酒屋の七賢の酒蔵兼店舗です。
f:id:tochgin1029:20170726185254j:imageなかに入った七賢の店舗では、麹を使ったドリンク類を販売していて賞味にあずかります。暑い盛りの栄養ドリンクとして、冷たい甘酒が見直されているようですが、ここでもメインは、お酒よりも甘酒のほう。ここで飲んだ甘酒の甘さは、スポーツドリンクよりも自然に身体になじんでいくような気がします。
 台ケ原からは、延々と上り坂が続く、体力を奪うような道です。途中の教来石宿は、宿場のはずなのですが、こんどはどこからどこまで宿場なのかはっきりしませんね。それにしても七里岩の長いこと長いこと!ここまで延々と歩いても歩いても右手にはずーっと崖が続いています。あいにく雨も降ってきたので、神社の境内でひと休憩します。こういう時に道ばたの神社があるのはほんとうに助かるもので、これまでの街道歩きでもときどき助けられています。
f:id:tochgin1029:20170726185347j:image教来石を過ぎた集落のはずれには、突然のように関所あとが現れます。そういえばこのあたりで甲斐国は終わり、信濃の国に入っていきます。
 まもなく、信州最初の宿場の蔦木に到着します。今日の行程はここまで。この集落には公共交通機関というものがまるでありません。もよりの駅は信濃境駅ですがやっぱり崖の上にあります。この日もJRの駅までの崖を登る道をあるきます。
f:id:tochgin1029:20170726185425j:imagef:id:tochgin1029:20170726185431j:image蔦木のあたりでは、標高は730Mでした。登りきった先の集落で標高を見ると900m!わずかな距離でこの標高差の違いを見ると、ここでも崖の上と下は別世界のようです。このあたりには遺跡とか博物館があるようで、とても魅力的な施設なのですが、見とても見学する余力はありませんでした。。
 JR信濃境駅に着くと、次の列車までは一時間以上。さいわい駅前で一軒だけ開いていた喫茶店に入ります。この店はいでたちの上品なご夫人がひとりで切り盛りしているお店のようで、店内はピアノが置いていて、クラシック音楽がずっとかかっています。がさつな関東の国からきたわたしには、とても浮世離れしたような空間でした。
f:id:tochgin1029:20170726185457j:image実はわたしの母親も信州生まれで、どこか教養好きな面を持つ信州人には、クラシック音楽好きという印象があって、田舎のお店にクラシック音楽なんて、いかにも信州っぽいなと思いました。それまで歩いた山梨の甲府盆地あたりの人たちだと、印象はそれとは反対で、教養よりも実利を重んじる商売人という印象。食事をしたお店や買い物をしたお店のどちらも損得にならないことには淡白な印象をもっています。おもしろいのは、そんな気質が甲府盆地から崖を登り台地を抜けて、信州に近くなるにつれて、グラデーションのように気質は変わってくるように思います。特に八ヶ岳近辺の信濃境での浮世離れしたようなお店を見つけて、どうみても甲府盆地あたりのひとたちの人柄とは違っていて、その違いをとても面白く感じています。
さて、甲州街道も信州に入るとゴールはまぢかです。次の旅では、いよいよ下諏訪にいよいよ到着します。

崖の上と崖の下(甲州街道を歩く10)

f:id:tochgin1029:20170726013319j:image甲州街道の歩く道中ですが、前回は甲府まで歩きました。甲府の街は、まんなかに甲府城が鎮座していて、政治経済からなにからなにまで山梨の中心です。駅前に鎮座する武田信玄銅像からは、どこか町全体がいかめしい印象を受けます。武田氏を滅ぼしたあとの甲府には、やがて徳川家の殿様がやってきたようですが、山梨といえば「武田」という印象が強くて、徳川の殿様の印象は薄い。ですから、いまの甲府の街も城下町の風情が強く、宿場町の名残りを求めるのは難しいようです。どこが本陣跡でどこが脇本陣の跡だったかも定かではなく、けっきょくは甲州街道と身延道の追分を旅の終わりにしています。今回はその追分からのスタートです。ともかく、7月の終わりにあるくのですから、今回は暑さと付き合いながらの歩きです。
f:id:tochgin1029:20170726013747j:image 少し歩くと、あっけなく街を抜けて郊外の風情となります。バイパスであろうが旧道であろうが、このあたりはまったくの車社会。歩く脇を自動車がすいすい通り抜けます。川を渡ると、その先には、大きくて印象的な木が建っています。昔の名残をのこすのはそのくらいでまわりは典型的な住宅地です。
 そこから少し歩くと、大きな公園があります。この山梨県を歩き続けてみると、とりわけ公衆トイレの少ないことや、たいがいトイレの設置されている小公園や広場みたいなものが極端に少ない印象を受けています。そんな数少ない公衆トイレのある公園にかけこむと、公園の中には立派な文学館や美術館が建っています。とりわけ、美術館はそうとうに力のはいった施設です。屋外には様々な近代彫刻が建っています。この山梨県立美術館は、ミレーの「落穂ひろい」を高額で購入したときに話題となったこととを覚えています。その美術館には客が途切れることなく中に入っていいきます。どうやら、国内の代表的なカメラマン101人の作品を網羅した企画展をやっています。通常だとこの手の企画は絶対に中に入って見学したいところですが、まだ旅もはじまったばかり、がまんして通り過ぎます。
f:id:tochgin1029:20170726013836j:image そのまま郊外風情の道路はつづいています。昼飯時には、安藤忠雄の作品らしく、いかめしい印象がする竜王駅のあたりで食堂を探しましたが、せいぜい1件くらいしか見つかりませんでした。ただ、中に入った定食屋のラーメンは予想外においしかったでした。その竜王駅のあたりは狭い道を自動車がびゅんびゅん割り込んできます、とても歩きずらいところ困惑していると、長い坂道が目の前に現れて、突然のように甲府盆地は終わります。いままで、びゅんびゅん飛ばしている自動車も、この急な坂道を上るためにアクセルをふかしながら登っていきます。もちろんわたしが登るのも息を切らしながら、こころの準備なく坂道を上るのはやっぱりつらいものです。登った先には台地がひろがっていて、あたりはすっかり高原の風景です。雲の多い空はとても遠くの山など眺めることはできないのですが、それでも起伏のある台地の道は、それまでのバイパス歩きに比べればのんびりしていて、とても気分のよい道です。起伏の多い台地上の道中では、視界に中央線が入ってくることはありませんが、道自体はほぼ中央線に沿っているようです
塩崎の駅を過ぎてから、韮崎までの道は線路に沿いながらの少し退屈な道で、釜無川を渡るとまもなく韮崎の街が現れてきます。
f:id:tochgin1029:20170726013942j:image韮崎の街は立派な駅前と立派な市街地を持つ街ですが、なにしろ35度を超える暑さですから、ほとんど誰も歩いていません。街を遠景で眺めた時にこの街を特徴づけるのは、何よりも遠くまで続く「七里岩」と呼ばれる長い崖線のことです。途中には崖に地蔵様が鎮座しています。そのひとつを音連れました。この先、中央線は崖の上を進みますが、甲州街道は、国道と一緒に崖の下を進みます。るあたりは、山梨では珍しい田園風景が広がっています。
f:id:tochgin1029:20170726014035j:image どこまでいっても崖は続きます。次の台ケ原宿までは16キロさきです。中間の穴山駅近辺までを今日の行程としました。ただし、ここから帰る方法が大変です。穴山駅は崖を登った台地の上、さっき歩き終えた甲州街道は崖の下です。崖の上に登るには、にあやしげな細い道を登らないとたどり着かないのです。登った先の崖上は崖下とは別世界です。田んぼが広がった崖下とは違い、崖上は畑が広がっています。ようやくたどり着いた穴山駅は、小さな無人駅でした。

エキセントリックの表出(山田詠美さんの恋愛小説)

無銭優雅 (幻冬舎文庫)


柄にもなく、ときどきは恋愛小説をむしょうに読みたくなるときがあって、その時に読むのは、山田詠美さんの諸作だったりします。短編も長編作品もたくさん書かれた山田さんの恋愛小説に、さて共通するモチーフってなにかあったっけ?などと考えてみると、恋愛もコミュニケーションのひとつだという、あたりまえの事実が提示されているのですね。
 数日前に、作家の平野啓一郎さんが、自身のアカウントでセックスもコミュニケーションのひとつだ。とツイートしていました。その意味は、恋愛がコミュニケートのひとつだということと同じ意味なんだと思います。でも、その言葉は女性作家たちの作品に体現されているように思います。例えば「無銭優雅」だと、どうにもうだつのあがらない登場人物たちの恋愛。どこかにエキセントリックな部分を抱えている女性。そして恋愛というコミュニケーションのなかで表出されたエキセントリックさは、受け止められて、反発されて、やがて許容されていく。長編作品では、そのエキセントリックさはやがて克服され、ハッピーエンドに終わっていきます。けれど、短編作品では、エキセントリックさは表出されたところでぶつっと終わる。読者であるわたしは、登場人物のその後を思い描いたりします。
 これだけ多作でキャリアの長いわりに、山田詠美さんの作品が、印象に残るような形でドラマ化されたり映画化されたことって少ない印象がするのです。山田さんの作品によく表れるエキセントリックな人間たちを演じるのはたぶん複雑で、映像作品として表現するのも難しいように思います。けっして浪花節のような、わかりやすい感動物語には収束されないし、人生訓や処世術みたいなものを小説の中に見つけようとする読み方への反発のようです。

 山田詠美さんの作品を読むたびに、人間誰しもそんなエキセントリックな部分のひとつやふたつは抱えているものだ。なんて気になります。

 

そういえば選挙だった

都内だと、すでに都議会の選挙が始まっています。自営の旧い工場や商店とかが立ち並んでいる職場の近くにはポスターが掲げられています。いつもであれば、掲げられているポスターのだいたいは、自民党一択なのですが、今回は少し様子が違っていて、貼られているポスターは2種類、自民党のポスターと都知事が立ち上げた都民ファーストの会のポスターを同時に掲げている店や工場が多いようです。自営業の家族だと義理立てで、都民ファーストの会自民党に分担して投票することも多いのでしょうか。
 都民ファーストの会では、ポスターには「ふるい都議会をあたらしく!」というキャッチフレーズが掲げられています。選挙ポスターの言葉としてさして目新しいものではないけれど、報道で流される豊洲市場の移転とか都議会自民党との対立といった、共通のコンテキストを知らなければ、その意味は、門外漢にはわからないだろうな?と思いました。読みかたによっては「古くなった都議会の建物を建て替えたいのか?」という意味にも受け取れますね。
 一方で自民党のコピーは、首相の顔とともに「進める責任。東京を前へ。」というコピー。これも、連日に報道される豊洲移転の問題を知らなければ、いったいなんの意味かわからない。東京を前へ、という文言は、門外漢にはウオーターフロンとの開発を進めよう!という公約にも読める。共通のコンテキストがなければ理解できない言語です。
5W1Hとかホウレンソウといったビジネスの情報伝達の視点では、どちらの文章もまるで落第です。戦後日本の広告コピーの世界は、そういえば、こうした共通するコンテキストを前提とした言語であって、そのコンテキストを共有しない人々にとってはまるで理解の及ばない言語です。
現代では、日本語の使われ方は、利害の調整、あるいは立場を規定する言葉としてしか使われていなくて、事実を伝達する言葉の機能が失われています。広告業界だと、その共通のコンテキストをコントロールしようとする技術だけが発達。
覚めた目線でその世界を眺めると、タレント政治家の登場のあと、その浅ましさばかりが現実政治の世界に入り込んでいるように思ういます。困るのはそうした刷り込みは、次第に個人の心身に侵食していくことです。