海外の風景を眺める眼差し(東山魁夷の絵画について)

http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20170912/ なにもすることのない週末。ひまつぶしとばかりに入った国立近代美術館で展示されていた、東山魁夷の作品を眺めました。名前だけは知っていても、この人の作品を取り立ててながめたことはありません。なので、通俗画を描く人なのかとさえ思っていたのですが、認識不足でしたね。その作品を見て驚いたのでした。国立近代美術館ではたびたび、収蔵されている作品を蔵出しとばかりに、テーマを掲げながら展示しています。今回の展示では、収蔵された作品から東山魁夷作品を中心とした展示だったようです。
 展示された彼の作品でも印象に残るのは、多くの絵で基調となっている緑色です。表向き風景画なのですが、絵の具の違いでしょう。日本画の技術によって製作された絵は、油絵具で描かれた世界とはまるで異なっていて、淡々とした風景のように感じます。描く対象は、海外への旅先での風景のはずで、決してそれが「日本の風景のように見える」わけではまったくありません。ですが、その空気感というのは「海外へでかけた日本人が風景を眺める眼差し」って、たぶんこのように見えるのだろうか?と眺めながら想像がふくらんでいくのです。
 また、一面に森がえがかれたり、川が流れていたりという大きな作品の構図は、どこか新聞の見開き広告の写真のようにも見えます。それは現在では、とても使い古された眼差しだとおもうのですが、製作年代を見る限り、東山魁夷が広告写真の手法をまねしたというよりはむしろ逆、このような眼差しは、戦後の大衆心理を的確に代表していたのだと思います。だからこそ、その視点や構図はテレビ的に大量に模倣されたたのだと思いました。だからといって、それがまったく通俗的な絵ではなわけではなくて、よく見れば、絵の奥にはデザイン的な琳派のような趣きが溶け込んでいたり、北斎の浮世絵にあるような風景画の独特な構図、それ以外にも彼の絵のなかに、さまざまな過去の日本画の手法がかすかに溶け混ざっているのを眺め、ああおもしろいなあと感嘆したのです。
 以前に、同じ近代美術館で藤田嗣治戦争画を眺めたことがあります。http://tochgin1029.hatenablog.com/entry/2015/09/23/220542

そこでは、描く対象としての戦争を、熱狂しながら見つめた藤田の姿を感じました。東山魁夷も従軍経験があるけれど、その絵から感じるのは、戦争が終わったあとに、海外をのびのびと旅し風景を描いているその解放感や空気感が、彼の絵からにじみ出ている。そのことをとても興味ふかく眺めていました。

かすかに西国を感じる道(北関東の諸街道1)

f:id:tochgin1029:20171009112342j:image甲州街道を歩き通し、泊りがけのいささか遠出の旅が続いていて、少し気軽に訪れるような場所を歩きたくなりました。探してみると、北関東の周辺部にはまだ歩いていない旧街道がぽつぽつと残っています。今度はそれらの旧街道を歩くことにしました。北関東だと、家康が祭られた聖地とされた日光のあたりが中心点になりそうです。起点から終点まで一直線に目指すよりは日光を中心としてコースを考えてみることとしました。出だしは、例幣使街道という街道で、京都の朝廷から日光に参拝する使節が利用した街道です。中山道倉賀野宿から分岐して、かつての東山道付近を通りながら日光を目指す街道です。
f:id:tochgin1029:20171009112303j:image まずは目指したのは中山道倉賀野宿です。3年前に中山道を歩いて以来の倉賀野駅に降りると、当時のことを思いだします。まずは、例幣使街道との追分を目指しますが、よく眺めると3年前には気が付かなかったことも見つかります。たとえば、駅前を少し歩くと、途中には空っぽになった堀を歩道として歩けるようになっています。低い視点からの眺めは、倉賀野の集落を下から除くような視点です。たとりついた中山道との追分。思ったより自動車の通行量は多くありません。
 となりの玉村町までの県道がそのままかつての例幣使街道の道です。道は広くてもさして通行量は多くないので、それほど気になりませんが、あまり旧街道の風情は残っていませんね。
f:id:tochgin1029:20171009112426j:imageしばらくあるくと、「観音山古墳」という旧跡の看板が見つかります。看板に従って横にしばらく歩けば、整備された古墳の小山が立っています。その山に登ると、パノラマ状になった上毛三山を眺めることができます。まるで三山を独り占めしたかのような心地になります。そのことから自然と、この古墳の主がこの地域の支配者か権力者だったのだろうと想像できます。いまの群馬県と栃木県は合わせて毛の国と呼ばれていましたが、そんな国の支配者たちの墓でもあるのだろうか?などと想像します。この付近にはほかにも古墳が点在しています。
f:id:tochgin1029:20171009112506j:image 古墳を過ぎて、街道はそのまま県道沿いを走ります。おそらくは赤城山からのびる台地の端と思われる地形を上り下りするところだけが、本日の唯一の上り下りです。その台地に伸びる道のまんなかを老人がせっせと自転車をこいでいて、それがとても危なっかしい光景です。いまも故郷に住む80の母親によれば、老人にとって田舎道を自転車で通る場合、道の端を通るのは転落がこわいそうです。だから、どうしても道の真ん中を走ってしまうのだそうです。
f:id:tochgin1029:20171009112548j:image しばらく行き、玉村町の中心部にたどりつくと、玉村八幡宮という立派な社がそびえていて、鎌倉時代に建てられたものだそうです。このあたりがかつての玉村宿です。しばらくいくと本陣跡の碑が建てられています。さすが京都からの使者が記すだけあって、碑に刻まれているのは和歌です。これは武家や大名たちが利用する他の街道すじではみられない雅?な趣ですね。
f:id:tochgin1029:20171009112631j:imageこのあとは、まっ平らな平野をとおります。登りもなければくだりもない道です。物流倉庫などが立ち並ぶ道は殺風景で、江戸時代に旅人が目にした風景はどうだったかな?などと想像してみます。遠くに赤城山が見えて、ススキが広がる原っぱの中を通過する旅人。なんていう光景を想像します。どこか歌川広重の図にでもでてきそうな景色です。
f:id:tochgin1029:20171009112707j:image やがて、利根川が近くに見え、川岸には五料の関所跡が残っています。この利根川の流れは遠く江戸にまでつながっているのですから、なるほど関所の守りも必要でしょう。となりに大きな橋が架かっているせいか旧街道の趣はみじんも感じませんが、関所があるあたりだけがバイパス道から外れていて、奇跡のように当時の街道風情が残っているのです。ここでは、下流のようにはてしない川幅が広がっているわけではなくて、10分も歩かずに渡ることができます。橋の上から眺める対岸は、家々が密集した旧い集落でした。自由に川を渡れない往時なので、たいがいは大きな川の両岸では、通常だと宿場が近接しています。旧い家があつまる集落は宿場になっていて、本陣跡との石碑があるけれど、ここでは一般の家屋となっています。敷地からはみでるほどの立派な松の木が立っていて、旧街道の雰囲気を唯一感じさせる光景です。
f:id:tochgin1029:20171009112946j:imageここから先の道は、旧い家々が入り混じる集落をたどります。あいかわらず、上りも下りもない単調な県道です。その県道から分かれた旧道には、「右赤城」という立札が掲げられています。京都から日光へ進む道のりのほとんどは左手に赤城山が見えますが、右に曲がったこのあたりだけが赤城を右手に眺められる光景だそうです。いまでこそ家がたち並ぶ集落の原風景は、ここでもススキ原だったのでしょう。
f:id:tochgin1029:20171009112823j:image 川を渡ればまもなく境宿にたどりつきます。ここでは、細い道の周りには旧い宿場風情が残る町です。京都から例幣使が通った街道であったり、古の東山道が通じていたこと。原っぱに古墳が並んでいる光景からは、このあたりが関東でももっとも早くから西の文化が伝播していたエリアなのではないでしょうか?かすかな西国の空気がこの地からは伝わってくるようなのです。

コロニー(植民地)とは?(北海道 松前と勝山館を訪れて)

f:id:tochgin1029:20170920200505j:image 北海道の南部、松前から上ノ国江差にかけての渡島半島のあたりは、地名からもわかるとおり、早くから和人が定住しだした場所と言われています。網野善彦さんの数々の著作では、上ノ国町にある「勝山舘跡」の巨大さについて言及されていて、いつか行きたいと思っていた場所です。先日に、念願かなって行くことができました。
f:id:tochgin1029:20170920200712j:image 最初に向かったのは松前。函館から松前までの道は、海岸近くまで段丘崖がせまります。風が強いせいか段丘には大きな木も生えていません。たどり着いた松前も、押し迫っている段丘に街並みがちょこんと乗っかっているよう。本州に住んでいるわたしたちがイメージするような、よく時代劇にあらわれる城下町という風情と、かなり異なっていることがわかります。旧城下町のあたりは往時の姿を再現していますが、その街並みは土地に根差したものというよりも、外来的にやって来たもののように感じられます。形容するならコロニー(植民地)のような雰囲気です。もちろん、松前にまったくおもしろいものがなかったわけではなく、城の形に建てられた資料館の最上階からは、遠く竜飛崎や小泊岬が見えます。おそらく、山を越えなければたどりつけない陸続きの集落よりも、遠くに見える海の向こうのほうが心理的な距離は近かったのだろうと思います。今ではただの集落でしかないこの場所にいくつもの廻船がやってきて、最果ての城下町が栄えた理由のひとつなのだろうと思います。
f:id:tochgin1029:20170920200742j:image 松前から上ノ国まで、ひたすら海と寄り添いながら海岸を登り下りしながら進む道でした。そして、しばらく進んだ海岸沿いの道を離れ丘を登った先に「勝山舘跡」があります。近くにはガイダンス施設があり、発掘された陶器などの品々が展示されています。それよりも感嘆したのはその広さです。勝山舘の中心部とされた場所は整地されていますが、国分寺跡のような場所と比べても遜色がない広さです。また、周囲にはアイヌの墓とされている墓地も多く残っています。松前の資料館でみた絵図には、アイヌはごくわずかしか描かれていませんでしたが、この勝山館でのアイヌの存在はおおっぴらです。網野善彦さんの著作によれば、この勝山舘ではアイヌと和人が混住していたとされています。さらに感嘆したのは夷王山からの眺めでした。上ノ国から江刺までの湾が一望できまて、遠くからやってくる船の出入りを見張ることもできます。この勝山舘の主、蠣崎信広の子孫が、後年になって松前に移転し大名となっていくのです。
f:id:tochgin1029:20170920200816j:image 松前の町をみてどこか不思議に思ったことが、勝山舘をみて瓦解していくようでした。江戸文化の意匠で整えられた松前の町が周囲の大地から浮いているコロニー(植民地)のように見えたのも、勝山舘につづくアイヌと和人の交易の歴史と伝統を引きずっているはずの、この町のありようと、江戸文化の意匠がアンマッチであることからくるものです。その伝統は、田園が広がるような農村の風景とも異なるし、屯田兵開拓使の歴史として理解されている北海道の歴史とも異なります。和人とアイヌの交易のこそが、この地にとっての歴史と伝統なのだと気が付いて感嘆したのです。松前の町を訪れるなら、上ノ国町の勝山館もあわせて訪れることをお勧めします。
 網野善彦さんが晩年に記した「日本社会の歴史」3巻では、ほとんどの記述は、豊臣秀吉の統一までで終わっています。たとえ、蝦夷地では和人とアイヌとの不平等な交易が、琉球では薩摩によよる公平でない交易がおこなわれていても、それを江戸や京都、大阪といった3都の人々が意識sることはない。沖縄への米軍基地の集中や、北方領土問題といった矛盾が首都圏の人たちに意識されないことと同じことです。

湖畔の小世界(甲州街道を歩く12)

f:id:tochgin1029:20170915221211j:image 「諏訪」と称する地域はどこからなのか?富士見町を歩いているあたりでは、高原の雰囲気が濃厚で、地域のシンボルは「八ヶ岳」でしたが、茅野市内に来たとたん、公共のポスターや役所の貼り紙には「諏訪」という文字が多くなります。この地域が「諏訪」と称されるのは、もちろん「諏訪湖」という湖がこの地域のど真ん中に鎮座していることが理由です。けれども、湖畔をとりまくこの地域がまとまりをもった地域になるには、諏訪大社の存在が想像以上に大きかったのではないか?と思えてきました。なにしろ、昨日から歩いても、このあたりに神社は多いけれどほんとうにお寺は数えるほどしか見つかりません。大小さまざまな神社の境内で、その由来が書かれた説明を読むと、この地域に諏訪大社を頂点とした神社の組織が張り巡らさせられていることが分かります。
 さもわかったふうに書いている私ですが、諏訪大社と称するのは下諏訪にある下社春宮と秋宮の2つだけを指しているものと勘違いしていました。茅野駅前に大きな鳥居があるのをみて、はじめて茅野に諏訪大社の上社が存在することを知ったのです。本日の茅野から下諏訪までの行程には余裕があるので、諏訪大社の上社に寄り道することにしました。まずは、前宮を先に回ります。駅裏の大鳥居を抜け、なんの変哲もない住宅地を2キロほど歩くとたどり着きます。前宮のあたりはそれほどの観光地ではなくて参道の仰々しさもそれほどでない。けれども、通り過ぎる大木のたもとには小さな祠があって、地元の人が頭を垂れながら通り過ぎるし、社の中では宮司らしき人がせっせと宮事をしていて、生活の中に大社と信仰が生きていることがよく分かるのです。f:id:tochgin1029:20170915221603j:image前宮からさらに1キロほど移動すると本宮へ到着します。境内には板張りの廊下のようになっているところがあり、一風かわった造りになっています。森の中というわけではないのですが、派手さのない大社の建物がまわりの緑と調和しています。さて、大社の周囲はごく普通の住宅地です。参拝のあと、茅野駅の大鳥居まで戻るのに地図とにらめっこしつつ、ああでもないこうでもないとうろうろと迷っているうちに、かつての諏訪大社の大祝亭跡にまよいこみました。大祝というのは諏訪大社でもっとも位の高い人らしく、かつては巨大な敷地を抱えていたそうです。
 その理由は、もちろん諏訪大社が巨大な権力を持っていたからであって、跡地の看板にかかれていた説明文をみて納得しました。江戸時代になるまで、諏訪大社が政治権力を持って、この地域を統治していたのだそうです。いまとはちがっていて、中世という時代に政治と宗教はいっしょくたです。幕府の存在など諏訪にとっては日常とは関係のない遠い世界の話でしょう。いろんなことに合点がいったのでした。この地域が「諏訪」とひとかたまり地域となったのは、実際に諏訪大社がこの地域の権力を持って支配していたこととおおいに関係があります。中世と現在とのつながりを実感しました。大鳥居から街道歩きに戻ります。国道沿いのわりには交通量はそれほどでもなく、沿道を眺めると、ちいさな祠石碑がすぐに現れるし数も多い。もちろんあまりお寺は存在しません。国道を離れれば、沿道は旧街道の雰囲気が濃厚に残っています。
f:id:tochgin1029:20170915222012j:image その旧道をあるくこと1時間、上諏訪の街に入ります。茅野と比べると、上諏訪の街は古い建物が残っています。昭和の雰囲気を残す商店街には看板建築の建物もあります。すこし進むと、街中には、有名な「真澄」の酒蔵をはじめとした五つの酒蔵が隣り合っています。残念ながら前を通り過ぎるだけにします。山梨では、台ケ原宿で「七賢」の酒蔵をのぞきました。「七賢」の酒蔵はカフェや工場見学など、酒蔵は一大観光地と化していましたが、ここ上諏訪では、販売店は併設されていても、本格的に飲食できるレストランやカフェのような施設はなく酒蔵はあくまで酒蔵で、ここでも隣県ながら山梨と長野の違いが如実に表れています。そういえば、泊まり先である茅野のビジネスホテルで、フロントのおばちゃんが淡泊でそっけなかったことを思い出しました。山梨だと損得にかかわる限り商売人は親切でしたが、くらべれば信州だと商売人でさえも淡泊。商売に関心がないのかくらいの印象です。悪名の高い「善光寺商法」という言葉が思いだされます。
f:id:tochgin1029:20170915222041j:image上諏訪の駅前には、かつて諏訪プラザという大規模な店舗ビルが建ってましたが、建物は解体され更地になっています。駅前に大きな空洞が空いているかのようです。この更地がどのように利用されるのでしょうか?箱ものや商業施設なら、むしろ郊外のほうが大規模で立派なものが作れます。それに比べれてこの諏訪プラザ後の更地は狭すぎる。もうこのような地方都市の駅前にハコモノを立てる時代は終わったように思うのです。市街地の空洞化に対する対策でしょうか?隣の茅野駅前には文化会館が建てられていましたが、結局はハコものの一種にしか過ぎないように思うのです。
f:id:tochgin1029:20170915221343j:image 上諏訪から下諏訪までは、湖畔から少し登った旧道沿いの道を通ります。祠やら石碑やらがほうぼうに表れるのは上諏訪までの道と同じで、静かで快適な道です。ここにきてやっと諏訪湖が見えてきました。湖そのものはそれほどきれいに見えないのですが、この地域が諏訪湖を中心としてこじんまりとまとまっているさまがよくわかります。この地域と諏訪湖の関係は、滋賀県と琵琶湖の関係に近いかもしれません。さて、53個目の一里塚が最後で、そこから1キロほど歩くとあっけなく諏訪大社秋宮が現われます。ですがゴールはここではありません。鳥居のわきをすこし進み、有名な塩羊羹のお店の隣がゴールで、中山道との合流地です。

f:id:tochgin1029:20170915221937j:image秋宮だけ行くのももの足りなく、このまま1キロ離れた春宮をめぐることにしました。途中には中山道の一里塚もありこちらは55個目となっています。ということは、甲州街道のほうが数キロ距離は短いはずなのですが、より多く利用されたのは甲州街道よりも中山道だったようです。参勤交代の行列でも甲州街道を利用した大名は少なかったらしく、5街道のひとつとはいっても、甲州街道中山道に比べれば格下であったのではないでしょうか?
 今回、甲州街道を歩きとおして印象に残ったのは、住む人たちの気質が、その土地土地によってそうとうに違うことでした。山梨の人たちは利にさとい商売人の気質で通俗的、反対に長野の人たちは、損得にもならない教養好きの一面があること。その気質は、県境を越えて一気に変わるのではなくて、甲府から諏訪までの盆地から台地、高原に抜けていく道を通じて、グラデーションのように徐々に変化していく。いわゆる「県民性」というものが、本当にあるのだなと実感したのです。

標高900mの道(甲州街道を歩く11)

f:id:tochgin1029:20170914234023j:image 甲州街道を歩くのも山梨県を過ぎて長野県に到達しました。甲州街道の歩きは、進めば進むほどに標高がだらだらと上がっていくのが特徴です。出発地の日本橋はほぼ海の近くで標高0mなら、ゴールの下諏訪の標高が700m台です。中山道和田峠のような極端な難所はなくても、上る道が延々と続くのは、中山道とは異なった甲州街道歩きのキツさです。
 前回に歩いた蔦木宿は、信濃境駅の真下にあります。ほぼ至近距離の信濃境駅と蔦木宿までは、標高差が200mもあります、前回に難儀した登り道を逆に下ります。このあたり縄文遺跡が多く発掘される地域らしく、発掘された土器や土偶の写真が駅にも掲げられています。信濃境駅からは田野倉遺跡という縄文遺跡が近くにあって、途中に寄り道しました。縄文遺跡だと青森の三内丸山遺跡が巨大ですが、それは青森市内かつ比較的海の近くです。舟を使った海上の移動も普通に行われていたと思うのですが、こちらはとても見晴らしの良い 山の奥の台地で、三内丸山に住んだ縄文人と同じライフスタイルだったか?とても同じだとは考えづらいのです。遺跡に立ちながら不思議に思います。標高差のせいか、蔦木宿のあたりは駅のあたりと比べてすこし暑いことに気が付きます。
f:id:tochgin1029:20170914234104j:image さて、蔦木宿を出発すると、せっかく下ったにもかかわらず、また登り坂が始まります。このあたりで、韮崎からの行程で至近距離にあった巨大な崖線もようやく終わります。その終わるあたりで、明治天皇が野立をしたといわれる場所がありました。それは、周りの山々の眺めがとても良い場所なのですが、けれどもこの辺りの農地は、鹿やイノシシといった動物の食害を防ぐために、それぞれが高いネットで囲まれています。旧道の一部もネットで遮断されていました。
f:id:tochgin1029:20170914234447j:imageしばらく国道沿いを歩いてから離れると、かつての街道筋の雰囲気を残した光景が続く集落が現われます。丁寧に保存された建物は少なくても往時の蔵などが残る旧家も点在して、きつい上り坂を登るのもそれはそれで味わい深いのです。途中のとちの木の集落では、ようやく八ヶ岳の山容をよく眺めることができました。雲がかからない八ヶ岳の全景を眺めるのも貴重で、高原の集落に特有なのではないでしょうか、湿度の少ないカラッとした空気感が感じられました。
f:id:tochgin1029:20170914233945j:image その先も登り坂は続いています。なかには旧道のあたりが企業の敷地となっていて、立ち入れない殺風景な個所も混在するのが少し残念なところ。このあたり、反対側からやってくる親子連れと出会いました。父親の方と二言三言言葉を交わします。上諏訪から歩いてきたという親子連れ、父親の方は元気そうでも息子さんはへばっていました。この先の蔦木方面にもう上り道はないと言いましたが、少しは気楽になってくれたでしょうか?このあたりの標高は950mほど。今日の歩きを始めた信濃境駅の標高は930m、下りた蔦木宿は700mですからせっかく下りた200mを登りなおしたみたいです。
f:id:tochgin1029:20170914234526j:image 富士見のあたりからは、徐々に標高が下ります。降りた先で国道と再び合流すれば、小川平吉先生と書かれた、やたら立派な石碑が建っています。山梨の笹子峠では、石碑にされるのは杉良太郎ご当地ソングの歌詞ですが、長野で石碑にされるのは、戦前の政治家である小川平吉の「博愛」とい文字ですから格調がまったく違う。隣県ながら、山梨と長野両県の正反対な気質の違いが面白いですね。そういえば長野県に入ってから沿道にコンビニをまったくみていませんでした。風情を楽しむにはよいけれど、不便さも少し感じます。
f:id:tochgin1029:20170914233836j:image 金沢宿にたどりついても、かつての宿場の雰囲気はあまり残っていません。2~3件古い建物を見かけただけです。宿場を通り過ぎてみかけた「権現の森」という一角にある神社の由来書きを見て合点がいきました。もともとの宿場はこの「権現の森」のあたりにあって青柳宿と名乗っていたそうです。それが、水害によって金沢宿に移転したそうで、なるほどあまり旧さを感じなかったのはそのせいかもしれません。川沿いにはずらっと石仏が並んでいますが、すぐとなりが近所のゴミ捨て場となっています。よそ者にはばちが当たりそうにさえ思えますが、住民にとっては、こういったことには無頓着なのでしょうか。ここからさきは国道沿いの道ですが、主要国道のわりには、そう交通量が多くないようです。
f:id:tochgin1029:20170914233811j:image さて、宿を茅野市内にとったこともあって、本日の行程は茅野駅までです。駅前には80年代に建てられたと思われる駅前ビルが建っていますが、例によってまるで活気がなくなっています。駅周辺を歩くのは学生と年寄りばかりで、地元で職を持って生活している現役世代の姿がほとんど見かけません。現役世代の生活圏からは駅周辺が外れてしまっているようです。そのビルの裏手には大きな鳥居があり、諏訪大社末社とされる神社も駅前にあります。その境内には御柱と思われる木が立てられていて、いよいよ諏訪の地にやって来たことを実感します。翌日は中山道との合流地点、すなわち甲州街道のゴールにたどり着く予定です。

故郷での同窓会から…

お盆で里帰りをして、故郷では中学校の同窓会がありました。中学生の時に暮らした町ではただひとつの中学校。いまから思い出すと、懐かしさのあまりにはしゃぎ過ぎたかなと、少し恥ずかしくなります。
中学校のころにおとなしかった自分は、話した友達もそんなに多くはないけれど、不思議なもので、顔を見れば中学生の時にさして仲良くもなかった同窓生なのに、意外と話ははずむものです。35年も前のことなので、既に他界した同級生もいれば、仕事が忙しくて出席できなかった人、来ることもできないくらい遠くで暮らしている人、もちろん中学生の当時の悪い思い出がわだかまっていて、はっきりと「行きたくない」という意思だった人もいるでしょう。出席率にしたら3割くらいだったと思います。
 それでも、100人をすこし超えたくらいの同窓生の現在の人となりを眺めたり、ひとことふたことの近況を話しただけでも、卒業してから35年という月日の重みを感じさせます。地元で会社を経営している同窓生はまったく社長さん然としたたたずまいだし、35年のあいだに辛酸をなめていた人、まったく往時とはたたずまいも変わっていない人さまざまです。私自身のように地元を離れて暮らす同窓生が、総じて郷愁のように昔を懐かしむ姿と比べれば、地元で暮らしている同窓生は、意外にも淡々としていたことを思い出しました。地元で暮らす彼らにとっては、この場所は懐かしむというよりも生業を持って生活している場所なのであって、ノスタルジーにばかり浸れる場所ではないのだと思いました。ただ、安穏と生きていようが生きていまいが、どの人も過ごした年月や体験は身体に刻まれているのがよくわかります。そしてただひとつとしてそれぞれでまったく同じものはないのだな。という感想を持ちました。
 そのお盆という季節は、テレビでは、毎年のように戦争を振り返る行事やテレビ番組が放送されます。それらの番組をながめてわかるのは、何十万という現地の人たち、日本から移民した民間人も、両軍の兵士たちも、従軍などしないでいれば過ごした人生のあれやこれやの可能性が、兵士として従軍することや戦争に出会ってしまったことで途切れてしまったのだ。ということ。ひとりの人間が過ごす人生はそれぞれ別なものであって、2つとして同じものはないはずなのに、兵士として従軍するということは、そのべつべつの人生が、○千人とかいう数値に換算されてしまう。ひとりひとりの個人個人の人生の可能性をぶち壊しにしてしまうこと。その愚かな行為に手を染めさせる。全体主義こそ憎まれるべきものだと思います。

 

台地に住む人たち盆地に住む人たち(甲州街道を歩く11)

f:id:tochgin1029:20170726185133j:image前日の晩はつよい雨が降ったようで路面は濡れていました。わたしはといえばそれに気が付かないほどぐっすり寝ていたようです。泊まったさきの甲府のビジネスホテルには、小学生の団体が大勢でとまっています。そういえば夏休みが始まったことにいまさら気が付きます。前日に比べて気温が低いのはいいですが、いつ雨が降り出すかわからないような雲行きです。雨具を着けるのはあまり好きではありません。降らずに済むことを願いながら出発します。穴山駅までの列車からも雨にぬれた路面が見えます。
f:id:tochgin1029:20170726185159j:image下におりて昨日の歩きを続けます。あいかわらず殺風景なバイパスの国道沿いですが、穴山橋を渡ると旧道に入ります。旧道に入ると少しだけ古い建物と旧い街道沿いの集落の雰囲気を眺めることができます。台ケ原までの10キロ以上もさある道中には、このような古い建物が残る集落が点々としていて、それほど退屈はしない道中です。武川という集落では恒例の朝市をやっています。道ばたで案内をしている若い人にあいさつすると、どちらまで?と聞かれます。甲州街道を歩くというと、少し呆れたように「頑張ってくださいね」と言われました。
f:id:tochgin1029:20170726185227j:image台ヶ原の宿場の手前には、古道が残っていて、その道を進みます。定期的に整備はされているようですが、季節がら小さな草が路面を覆っていてすこし歩きづらい道です。
 たどり着いた台ケ原の宿は、これまでの道中を思い出しても、比較的旧い宿場の雰囲気が残っています。古い建物はリノベーションされておしゃれなカフェや雑貨店などに模様替えしています。地味な街道歩きの中で、このような、華やかな観光客の姿を眺めると、すこしだけ自分がなにか場違いなところにたどり着いてしまったような気になります。その台ケ原の中でも、人を集めているのは二軒のお店で、生信玄餅の金精軒本店と、地元では有名な造り酒屋の七賢の酒蔵兼店舗です。
f:id:tochgin1029:20170726185254j:imageなかに入った七賢の店舗では、麹を使ったドリンク類を販売していて賞味にあずかります。暑い盛りの栄養ドリンクとして、冷たい甘酒が見直されているようですが、ここでもメインは、お酒よりも甘酒のほう。ここで飲んだ甘酒の甘さは、スポーツドリンクよりも自然に身体になじんでいくような気がします。
 台ケ原からは、延々と上り坂が続く、体力を奪うような道です。途中の教来石宿は、宿場のはずなのですが、こんどはどこからどこまで宿場なのかはっきりしませんね。それにしても七里岩の長いこと長いこと!ここまで延々と歩いても歩いても右手にはずーっと崖が続いています。あいにく雨も降ってきたので、神社の境内でひと休憩します。こういう時に道ばたの神社があるのはほんとうに助かるもので、これまでの街道歩きでもときどき助けられています。
f:id:tochgin1029:20170726185347j:image教来石を過ぎた集落のはずれには、突然のように関所あとが現れます。そういえばこのあたりで甲斐国は終わり、信濃の国に入っていきます。
 まもなく、信州最初の宿場の蔦木に到着します。今日の行程はここまで。この集落には公共交通機関というものがまるでありません。もよりの駅は信濃境駅ですがやっぱり崖の上にあります。この日もJRの駅までの崖を登る道をあるきます。
f:id:tochgin1029:20170726185425j:imagef:id:tochgin1029:20170726185431j:image蔦木のあたりでは、標高は730Mでした。登りきった先の集落で標高を見ると900m!わずかな距離でこの標高差の違いを見ると、ここでも崖の上と下は別世界のようです。このあたりには遺跡とか博物館があるようで、とても魅力的な施設なのですが、見とても見学する余力はありませんでした。。
 JR信濃境駅に着くと、次の列車までは一時間以上。さいわい駅前で一軒だけ開いていた喫茶店に入ります。この店はいでたちの上品なご夫人がひとりで切り盛りしているお店のようで、店内はピアノが置いていて、クラシック音楽がずっとかかっています。がさつな関東の国からきたわたしには、とても浮世離れしたような空間でした。
f:id:tochgin1029:20170726185457j:image実はわたしの母親も信州生まれで、どこか教養好きな面を持つ信州人には、クラシック音楽好きという印象があって、田舎のお店にクラシック音楽なんて、いかにも信州っぽいなと思いました。それまで歩いた山梨の甲府盆地あたりの人たちだと、印象はそれとは反対で、教養よりも実利を重んじる商売人という印象。食事をしたお店や買い物をしたお店のどちらも損得にならないことには淡白な印象をもっています。おもしろいのは、そんな気質が甲府盆地から崖を登り台地を抜けて、信州に近くなるにつれて、グラデーションのように気質は変わってくるように思います。特に八ヶ岳近辺の信濃境での浮世離れしたようなお店を見つけて、どうみても甲府盆地あたりのひとたちの人柄とは違っていて、その違いをとても面白く感じています。
さて、甲州街道も信州に入るとゴールはまぢかです。次の旅では、いよいよ下諏訪にいよいよ到着します。