どこまでも杉!杉!杉!(北関東の諸街道5)

f:id:tochgin1029:20171203120415j:image 前回の歩きから3週間、再び楡木駅へ向かう東武線の車窓には濃淡さまざま赤や黄色、緑色が入り混じった里山の景色が見え、心の底からきれいだと思いました。車中の高校生たちはもっぱらスマホいじりに夢中で、景色など興味なしといった姿ですが、自分の高校生のときもまあそうだったよなと思い返します。降り立った楡木駅とその周辺も同じで、空の青と緑や赤黄色が対比する景色をきれいと感じるのも同じです。
f:id:tochgin1029:20171203120743j:image 例幣使街道そのものはここでは国道となっていて、広い通りを自動車が過ぎていますが、それほど歩くのに邪魔になるほどではありませんが、宿場町とその他の集落の間に違いがあるわけでなく、楡木宿の次は、奈佐原宿があるらしいですがどこが宿場なのかはっきりとはわかりません。でも沿道でちらほらと眺めることのできる紅葉は美しく、すでにこのあたりでは杉の木が沿道に点々と立ちはじめています。大谷石の産地が近いこともあって、古い蔵はこのあたりでは、土蔵ではなくて大谷石でつくられた蔵がぽつぽつとしているのも面白いですね。f:id:tochgin1029:20171203120818j:image淡々と歩いたあとで、鹿沼の宿場町に到着しました。新鹿沼のあまりぱっとしない駅前とあまりぱっとしない商店街で、なぜか近所の人たちが集まっていて、それは不思議な光景です。なにかというとどうやらイベント兼特売セールのようです。軒先で売られている商品の多くはどれも100円で売られています。前回にあるいた栃木の街ほどではないですが、ほどほどに人が歩いている町中を見かけるのは心がなごみます。街中には公園があります。公園のなかで、無料で入れる旧家では紅葉がきれいですが、隣には山車会館という建物があります。中に入るとさっそく説明員のおじさんが丁寧に説明をしてくれました。その彫刻のすごさにびっくりしたのです。f:id:tochgin1029:20171203120955j:image入館すると、複雑に彫られた彫刻の複雑な意匠にびっくりするのですが、メインは館に展示された3台の山車です。隣の栃木でも秋に大きな祭りがあって町中を大きな山車が練り歩きますが、鹿沼でも大きな祭りが秋にあって、町それぞれ趣向をこらした山車が競うように練り歩きます。けれど、それぞれの山車の意匠は、鹿沼ならではのオリジナルな特徴があって、それぞれの山車にきらびやかな彫刻が飾られます。兎や鳥や唐獅子、そして龍が描かれたさまざまな彫刻は、まるで東照宮の陽明門を彷彿とさせるようなもので「動く陽明門」とも称されるそうです。それもそのはずで、江戸の当時に陽明門を作るために、日光にはたくさんの彫刻師が集められます。そして、陽明門が出来上がったあと、この鹿沼や付近の各地に彫刻師が移り住んだのが基になっているそうです。f:id:tochgin1029:20171203121033j:image3台の山車のうち1台は塗装がされた彫刻ですが、あとの2台は無色のままです。これは天保年間のあたり「贅沢禁止令」によるものらしく、その当時に華美な祭りが幕府のお達しで禁止されたことによる影響です。ですから天保年代をはさんで制作された1台の山車は、天保年間を過ぎて制作された彫刻部が無塗装ですが、天保前に制作された山車の本体は漆で塗られ、その対比が面白いと思いました。彫刻の作り方はどれもひとつの木から掘り出されるもので接着や接合の作業はありません。展示にはその製作法も展示されていましたが、簡単な下絵ひとつで立体的な造形を作り出していく力量には驚くし、そのスキルをもつ人たちが集団となって東照宮の造営に携わったこと、その地力のすごさにもあらためて驚くのです。
f:id:tochgin1029:20171203121425j:image その鹿沼の街を過ぎて、黒川の橋をわたると平地は終わって、台地の上を街道は通るようになります。次第に沿道には杉の木が増えてきて、鹿沼と日光の市境のあたりに立っている、杉の寄進碑をすぎて、本格的に杉並木が始まります。
f:id:tochgin1029:20171203121454j:image 杉並木といっても、歩行者は両脇の杉の間をあるくことはできなくて、その場所はほとんどが自動車のための道となっています。現代の歩行者は杉のわきに通じる細道を通りぬけます。f:id:tochgin1029:20171203121517j:imageその杉の並木の存在感は圧巻で、杉が並んだその空間は、沿道の景色とは遮断される傾向にあるようです。なので、杉並木のどこを通って写真を撮っても、あとで見返せばその写真はどこも同じような風景なのですね。それでも、途中の宿場町の部分では杉の並木は途切れます。その文挟宿のあたりで昼食をとります。立ち寄ったそば屋は夫婦で営んでいるようです。こういった場合、いつも夫婦で喧嘩をしているような雰囲気のお店も多いですが、このそば屋の夫婦はなごやかにおしゃべりをしていて仲良し夫婦のようです。
f:id:tochgin1029:20171203121602j:image その文挟宿を過ぎれば、また杉並木が始まります。この時期、山かげに太陽が沈もうとする時間は、いつも焦りだします。とりわけこの杉並木沿いの道は、人影もないし夜間にあるくのは怖い場所です。このあたりで木の間から眺める外の景色は、とても淋しい景色に見えます。板橋宿を過ぎると、その先は杉の木の痛みが激しいようで、痛みを防ぐため車両通行止めになっています。思いがけず、杉のあいだを独り占めして歩くことができました。
f:id:tochgin1029:20171203121645j:image 誰もいない杉の道を延々と歩いていると、深い緑に包まれた杉の並木の中の空間というのは、並木の外の空間とはあきらかに遮断される効果があることに気が付きました。杉によって遮断された空間は、このまま日光まで続いています。どうやらこの杉並木というのは、東照宮に祭られた東照大権現こと徳川家康の、権威やご威光を演出するための大掛かりな装置なのだと気づきました。この道を通り東照宮に向かう人々にはこのあたり、杉の景色のほかにはなにも眺めることはできません。ながめることのできるのは、ただ杉の道の終点にある東照大権現のみです。もともとあった東照宮が、きらびやかな姿になったのは徳川家光の代になってのことで、この杉並木も徳川を神格化させる東照宮の造営事業の一環なのだということです。
f:id:tochgin1029:20171203121703j:image 今市に近づけば、右手にも別の杉並木が近づいてきます。宇都宮からのびている日光街道の杉並木です。そして合流地点には地蔵堂がありました。今日の歩きはここまで、次は東照宮の終点に到着です。

左手は日光の山(北関東の諸街道4)

f:id:tochgin1029:20171119181159j:image例幣使街道の道中は、必ずといってよいほど左手の山々を眺めながらの道中でした。けれども、富田宿を過ぎたころ、左手の山はだんだんと低くなり遠ざかっていきます。この左手の山々が途切れるところが、両毛とよばれる地域の境を示しているように思いました。近くには永野川という川が流れています。この日もよい天気で、イチョウの木の黄色がとても空の青色に映えています。
f:id:tochgin1029:20171119181226j:image右手に東武線の高架が並ぶ道を進めば、あっけなく栃木の街に入ります。この日は日曜日で、栃木宿に着けば観光客がぽつぽつと現れています。町中には古い建物も多いのですが、多くの建物がきれいに整備されていて、そういった観光客向けのカフェも新たに作られようとしていました。それは、いままで通ったどこか寂れた市街地とは異なった華やかさが見られます。その先にある嘉右衛門町と呼ばれるエリアには、とりわけ古い建物が連なっていて、国の保存地区の指定を受けているそうです。
f:id:tochgin1029:20171119181304j:image 嘉右衛門町を過ぎれば、広い県道と合流します。いつのまに左手の山は遠くにいってしまい、その遠くに見えるのは日光の山々に変わっています。東武線をまたがる巨大な陸橋を超えたあたりは、どうやら合戦場宿らしいのですが、宿場を示すような石碑をまったく見つけられず困りました。そんな殺風景なこの場所にある旧跡らしきものといえば、日立製作所創始者とされる、小平浪平の生家が、街道沿いに立っていたことです。f:id:tochgin1029:20171119181338j:imageけれども、この家はいまでも現役の私邸として利用されているので、残念ですが中を見学することができません。そのさきには、升塚という史跡がありました。どうやら、この小高い丘は戦国時代の戦死者のお墓だそうです。f:id:tochgin1029:20171119181407j:image足利や佐野と比べると、栃木をすぎたこのあたりから沿道には史跡のたぐいが少なくなったように思います。庚申塚や馬頭観音が道端に点々と立つような光景もなく、合戦場という地名や升塚という戦死者の巨大な墓から受ける印象では、どこかこの場所は戦いが繰り返された場所だったのではないかという想像をします。たくさんの自動車が走る道は、ほんとうは家中宿、金崎宿を通過しているはずなのですが、どのエリアも宿場を示すような碑もなくて、いったいどこが宿場であるのかよくわかりませんでした。
f:id:tochgin1029:20171119181441j:image その単調で変化も乏しい道のりながらも、進んでいけば次第に車はすくなくなりました。金崎の集落を過ぎると思川を渡ります。赤城山を過ぎてからの両毛地域の風景は、岩舟山を例外とすれば、ほとんどがなだらかな女性的な地形のように見えたのですが、このあたりの風景は、遠くに見える日光連山の姿から、しだいに男性的な地形だという印象を受けています。これまで歩いた、足利の川崎天満宮や玉村八幡宮では例幣使が歌を残していますが、そのような例幣使の痕跡は、このあたりには残されていないのが、どこか不思議にも思いました。両毛地域のなだらかな山々を眺めて、そこに京都の風景を思い出したのかもしれません。そういった場所が例幣使にとっては心和む旅路であっても、このあたりだと、訪問先の日光も近づいて、例幣使にとっては緊張を感じされる場所だったのかもしれないなと想像しましたが、さて真偽のほどはどうなんでしょうか?
f:id:tochgin1029:20171119181510j:image 壬生道との追分を過ぎれば、まもなく楡木宿に到着します。今回の行程はここまでです。このあたりでは街道筋はとてもひろく、往時もそれなりに開けた宿場だったと想像しているのですが、集落の外れにある楡木駅につけば、駅はそっけない無人駅でした。

左手はなだらかな山(北関東の諸街道3)

f:id:tochgin1029:20171119180845j:image 前回の歩きでは八木宿についたのは真っ暗な夕方のころで、あたりの風景もよくわかりませんでした。福居駅に再び降りた後で、かつての宿場跡はどうなっているのやらと探しました。八木宿の本陣跡というのは、現在は八木節会館となっている敷地の手前に発見しました。この八木節会館というのはかつての御厨町役場という敷地だったようで、足利の市街とは離れています。この日は快晴で、近くの母衣輪神社のイチョウの木の黄色が空の青によく映えます。しばらくは右手に田んぼを眺めながらの道です。かつての新田荘から足利荘へと移動していくと、新田荘では水田はあまり存在しませんが、足利荘に入り水田が見えてきます。その先の梁田宿は、すぐ近くにあるらしいのですが、その存在はあまりはっきりとはわかりませんでした。
f:id:tochgin1029:20171119180929j:image そのまま進めば視界がひらけ、渡良瀬川の河原へと出ます。渡良瀬を渡るときの広い視界からは、すでに赤城山は隅に追いやられて、近くの山々のなだらかな稜線が見え、川の向こう側には足利の市街地が広がっています。その光景からは、足利がとても豊かな土地のように見えました。
f:id:tochgin1029:20171119180953j:image橋を渡ったあとの川岸の集落のあたり、道ばたに多くの石碑や庚申塚がとりわけ多く残っているようです。近くの川崎天満宮には例幣使がのこした歌がかかげられています。その3つの歌は、どれも王朝をたたえる内容なのですが、そもそも例幣使が向かうのは世俗の権力者である徳川が祭られる日光ですし、王朝から派遣された例幣使にとってこの道はけっして晴れやかな道でないはずです。この道中での王朝を称える歌というのは、かなり意味深にも想像できるのです。
 神社を過ぎ集落を抜けると、すこしだけ起伏のある道に変わります。小さな山の間を通り抜けると、視界に広がる山々が変わってきます。遠くのほうには白い山肌が見えるようになります。この近くの葛生という場所で、石灰石を採掘され削りとられた山の姿です。足利から佐野へと生活圏が変わると、目に飛び込む風景も変わってくるのです。電車や自動車の移動ではどうしてもわかりづらいことが、徒歩の旅ではよく見えてくるのです。ここから佐野の市街地までの道中は車も少ない静かな集落を通ります。どちらかというと殺風景な場所が多い例幣使街道の中でも、古い街道の風情が比較的に残された場所です。となりには両毛線の線路が見えます。
f:id:tochgin1029:20171119180737j:image途中に佐野市の資料館があり中をのぞきました。田中正造に関する展示や地域の歴史に関する展示物が中心です。資料館の展示によれば、毎年に京都から派遣される例幣使は、一行はだいたい50名ほどで編成されるそうです。そして例幣使がこの街道を利用するのは、日光に向かう往路のみ、復路は江戸に寄り東海道経由で帰るそうです。この街道沿いにどこか西国っぽい風情を感じたのも、この街道を利用する例幣使の流れが、西から東への一方通行で、それとは逆の東から西へといった流れが存在しないことと関係があるのかなとも思いました。f:id:tochgin1029:20171119180631j:imageたどり着いた佐野の市街もそうとうに旧い町で、とても活気があるとはとてもいえない街のなかには、旧い看板建築や旧い商店が街道沿いにポツポツと立っています。その市街地を横断するように街道は進んでいます。その市街地は延々と犬伏宿まで繋がっています。佐野の市街地で何が目立つかといえば、ラーメン屋が一番目立つのです。佐野ラーメンで知られる街とはいえ、とりたてて繁華街でもない道路沿いには、300mごとにぽつぽつとラーメン屋が立っていて、どの店にもそれなりに客が入っているようです。ちょっと尋常じゃない印象を受けます。f:id:tochgin1029:20171119180721j:image市街地の終わりには米山古墳が建ち、そのわきには薬師堂が立っています。真田父子の「犬伏の別れ」という一件で著名になったらしくそれとわかるよう境内には旗が立っています。太田の天神山古墳とは違い、古墳と称さなければ普通の小山で、あまり古墳とわかりません。
f:id:tochgin1029:20171119180502j:image その古墳を過ぎると、起伏のある山の間を街道は進み、その起伏を抜ければ、目の前に異様な形をした山が現れます。岩舟山というこの山は、岩石の採掘によってこの異様な山体になったそうです。岩石の採掘が現在も行われているかは不明ですが、このあたりの街道は、わきを通っていく車列のうち、何台かに1台は必ずダンプカーが通行していて、その頻度はちょっと異常に感じるほどです。ダンプから落ちたのかこのあたりの路面は白っぽく、なにやら粉っぽい道だなという印象です。
 岩舟山がみえなくなるあたりから日もすっかり落ち、暗くなってきました。先を急ぐように街道を歩くと、荒々しい岩舟山の山体から別の山に変わっていますf:id:tochgin1029:20171119180446j:image富田宿の本陣跡についたころには、すっかり暗くなっていました。今日の行程はここまでです。左手に見える山々の姿が刻々と切り替わっていき、この地域の生活圏も連動して区分けされているようです。例幣使街道を歩いて3回目で、その意外な面白さに気が付きました。

江戸を目指さない道(北関東の諸街道2)

f:id:tochgin1029:20171104100727j:image 例幣使街道は、年に一回、京都からの使者が日光東照宮に向かうために通る道です。両毛地域とよばれるこの辺りは、かつては東山道が通っていた地域であれば、もしかすると、往時の使者もかつての王朝の栄華を懐かしみながらかつての東山道の道をたどったのだろうなと想像できます。この道は江戸を目指さない道だからこそ、この道は西から東へ、江戸を指向しないベクトルが流れていて、その地層はより深いように思いました。
f:id:tochgin1029:20171104100804j:image 今回の歩きは、前回にたどりついた境宿からのスタートです。前回に着いたころには日も暮れていて、町の様子も眺められませんでしたが、それまでの宿場に比べれば、かつての宿場町の名残を残しています。ここには古民家を利用したカフェもあれば、旧い看板建築の商店も残っています。両毛地域の諸都市は、どれも養蚕と織物とのかかわりから発展しています。このあたり東武線の線形がうねうねとしているのも、これら両毛地域の都市をフォローするためです。
f:id:tochgin1029:20171104100834j:image 街道から外れて、世良田にある東照宮に向かいます。この辺りはかつて新田荘と呼ばれた新田義貞にゆかりのある土地で、その跡は新田荘遺跡と呼ばれています。ここに何故東照宮があるのか?という答えは、徳川家康が新田氏の末裔を自称し源氏由来とされる征夷大将軍の称号をうけたことに関係があります。そのことでこの地は徳川幕府の手厚い庇護を受け、それだけ東照宮の建物は立派なものです。東照宮が建てられた隣に資料館もあっったのですが、この日は休館日でした。

 f:id:tochgin1029:20171104100902j:image東照宮のとなりは遺跡がそのまま歴史の森という名前の公園となっています。看板にしるされた遺跡の図と公園の景色を眺めると、この東照宮の建物は新田義貞が住居としていたであろう舘の上に建てられたようですが、一方でこの立派な建物のありようはどこかこの土地に対して外来的なものにも感じました。その地に代々暮らした庶民からすれば、「あたらしいお殿さま(徳川家)は新田の子孫を自称して手厚く支えてくれるけど、新しいお殿さまの流儀は、うちらの流儀となんだか違うなあ」という感じで、困惑したのではないだろうか?と。
 街道に戻って歩き進むと、このあたりの街道は区画整理されていて街道すじとそうでない道の区別がつきません。木崎宿までの道もきれいに整備された県道で、あんまり情緒は感じない道ですね。木崎宿では、かつてここが宿場であったことを示すのはあたらしく作られた石碑だけです。ここで食事。

 f:id:tochgin1029:20171104100935j:image食堂では女性2人が話し込んでいます。医療機関で事務仕事をしているとおもわれる彼女たちの話、職場や夫婦間の人間関係にまつわるもののようで、知り合いらしい店主も加わり世間話をしています。地方で平日の昼間に行きあうのって、ほとんど医療や介護職のひとたちが中心ですね。そういえば、先月に故郷のクラス会に集まったうち地元に在住している同級生、とくに女性の場合では、ほとんどが医療や保育士に従事していたのを思い出しました。
 木崎宿から太田までの道は、整えられた県道を進むエリアと古くからの家が入り混じるエリアを交互に進みます。群馬太田のイメージは、新興の工業都市という印象なのですが、それなりの歴史もある町で、市街地から横道を眺めると旧い神社が見えるし、きれいに整った太田駅と駅前の図書館の隣には古いままの商店街が隣り合っています。

f:id:tochgin1029:20171104100953j:image けれども、太田でもっとも目立つのは駅前の巨大なスバルの工場と、これまた巨大な本社ビルでしょう。市役所はどこにあるのかわからないけれど、巨大なスバルビルは市内の遠くからも見えます。整った街並みや駅前の巨大な本社ビルを見るたび、現代の太田は、町から歴史を消し去ろうとしているようにしか見えません。それなりに大きい規模の都市の中心街に歩く人が極端に少ないのも気になります。
 f:id:tochgin1029:20171104101019j:imageそうはいっても、歴史はそう簡単には消し去ることができないことも示しているのです。市街地を抜けてしばらくすると、大きな古墳の山を眺めることができます。天神山古墳という全長200m以上もある東日本最大の古墳です。公園としてそんなに綺麗に整備されているわけでないこの場所には、実は道路のすぐ横。あっけなく入ることができます。スバル(現代)→徳川(江戸)→新田(南北朝)とこの地の歴史をさかのぼると、その先には、古墳が鎮座していたのでした。
 古墳を過ぎたあたりで日が傾きだしました。傾く太陽と競争するように後の道を進みます。小学生の下校時間で通勤の帰宅とも重なり道には自動車が列を作っています。このあたりの日常生活での移動手段はほとんど自動車による移動なのでしょう。自転車の姿はここではほとんど見かけることがなく、せいぜい通学の航行生のみです。群馬県を過ぎ栃木県の足利市に入ります。群馬では左手に赤城を眺めながらの道のりでしたが、赤城は遠く左手の山々は低くなり右手には広い田園風景が広がっています。

f:id:tochgin1029:20171104101043j:image 八木宿に入ることにはすっかり日も暮れました。暗くて石碑のようなものは確認できません。ここがかつての八木宿にあたる場所なのだとわかるのは、せいぜいバス停だけです。近くの東武線の福居駅まで本日の行程は終わりです。
f:id:tochgin1029:20171104101100j:image 気がつけば、今日の行程は南北朝の時代を争った新田氏が支配する地域(新田荘)と足利氏が支配する地域(足利荘)園にまたがっています。驚くのは敵対していた両一族の本拠地が実は隣り合っていて、しかも至近距離なところです。次回はその足利からのスタートになります。

海外の風景を眺める眼差し(東山魁夷の絵画について)

http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20170912/ なにもすることのない週末。ひまつぶしとばかりに入った国立近代美術館で展示されていた、東山魁夷の作品を眺めました。名前だけは知っていても、この人の作品を取り立ててながめたことはありません。なので、通俗画を描く人なのかとさえ思っていたのですが、認識不足でしたね。その作品を見て驚いたのでした。国立近代美術館ではたびたび、収蔵されている作品を蔵出しとばかりに、テーマを掲げながら展示しています。今回の展示では、収蔵された作品から東山魁夷作品を中心とした展示だったようです。
 展示された彼の作品でも印象に残るのは、多くの絵で基調となっている緑色です。表向き風景画なのですが、絵の具の違いでしょう。日本画の技術によって製作された絵は、油絵具で描かれた世界とはまるで異なっていて、淡々とした風景のように感じます。描く対象は、海外への旅先での風景のはずで、決してそれが「日本の風景のように見える」わけではまったくありません。ですが、その空気感というのは「海外へでかけた日本人が風景を眺める眼差し」って、たぶんこのように見えるのだろうか?と眺めながら想像がふくらんでいくのです。
 また、一面に森がえがかれたり、川が流れていたりという大きな作品の構図は、どこか新聞の見開き広告の写真のようにも見えます。それは現在では、とても使い古された眼差しだとおもうのですが、製作年代を見る限り、東山魁夷が広告写真の手法をまねしたというよりはむしろ逆、このような眼差しは、戦後の大衆心理を的確に代表していたのだと思います。だからこそ、その視点や構図はテレビ的に大量に模倣されたたのだと思いました。だからといって、それがまったく通俗的な絵ではなわけではなくて、よく見れば、絵の奥にはデザイン的な琳派のような趣きが溶け込んでいたり、北斎の浮世絵にあるような風景画の独特な構図、それ以外にも彼の絵のなかに、さまざまな過去の日本画の手法がかすかに溶け混ざっているのを眺め、ああおもしろいなあと感嘆したのです。
 以前に、同じ近代美術館で藤田嗣治戦争画を眺めたことがあります。http://tochgin1029.hatenablog.com/entry/2015/09/23/220542

そこでは、描く対象としての戦争を、熱狂しながら見つめた藤田の姿を感じました。東山魁夷も従軍経験があるけれど、その絵から感じるのは、戦争が終わったあとに、海外をのびのびと旅し風景を描いているその解放感や空気感が、彼の絵からにじみ出ている。そのことをとても興味ふかく眺めていました。

かすかに西国を感じる道(北関東の諸街道1)

f:id:tochgin1029:20171009112342j:image甲州街道を歩き通し、泊りがけのいささか遠出の旅が続いていて、少し気軽に訪れるような場所を歩きたくなりました。探してみると、北関東の周辺部にはまだ歩いていない旧街道がぽつぽつと残っています。今度はそれらの旧街道を歩くことにしました。北関東だと、家康が祭られた聖地とされた日光のあたりが中心点になりそうです。起点から終点まで一直線に目指すよりは日光を中心としてコースを考えてみることとしました。出だしは、例幣使街道という街道で、京都の朝廷から日光に参拝する使節が利用した街道です。中山道倉賀野宿から分岐して、かつての東山道付近を通りながら日光を目指す街道です。
f:id:tochgin1029:20171009112303j:image まずは目指したのは中山道倉賀野宿です。3年前に中山道を歩いて以来の倉賀野駅に降りると、当時のことを思いだします。まずは、例幣使街道との追分を目指しますが、よく眺めると3年前には気が付かなかったことも見つかります。たとえば、駅前を少し歩くと、途中には空っぽになった堀を歩道として歩けるようになっています。低い視点からの眺めは、倉賀野の集落を下から除くような視点です。たとりついた中山道との追分。思ったより自動車の通行量は多くありません。
 となりの玉村町までの県道がそのままかつての例幣使街道の道です。道は広くてもさして通行量は多くないので、それほど気になりませんが、あまり旧街道の風情は残っていませんね。
f:id:tochgin1029:20171009112426j:imageしばらくあるくと、「観音山古墳」という旧跡の看板が見つかります。看板に従って横にしばらく歩けば、整備された古墳の小山が立っています。その山に登ると、パノラマ状になった上毛三山を眺めることができます。まるで三山を独り占めしたかのような心地になります。そのことから自然と、この古墳の主がこの地域の支配者か権力者だったのだろうと想像できます。いまの群馬県と栃木県は合わせて毛の国と呼ばれていましたが、そんな国の支配者たちの墓でもあるのだろうか?などと想像します。この付近にはほかにも古墳が点在しています。
f:id:tochgin1029:20171009112506j:image 古墳を過ぎて、街道はそのまま県道沿いを走ります。おそらくは赤城山からのびる台地の端と思われる地形を上り下りするところだけが、本日の唯一の上り下りです。その台地に伸びる道のまんなかを老人がせっせと自転車をこいでいて、それがとても危なっかしい光景です。いまも故郷に住む80の母親によれば、老人にとって田舎道を自転車で通る場合、道の端を通るのは転落がこわいそうです。だから、どうしても道の真ん中を走ってしまうのだそうです。
f:id:tochgin1029:20171009112548j:image しばらく行き、玉村町の中心部にたどりつくと、玉村八幡宮という立派な社がそびえていて、鎌倉時代に建てられたものだそうです。このあたりがかつての玉村宿です。しばらくいくと本陣跡の碑が建てられています。さすが京都からの使者が記すだけあって、碑に刻まれているのは和歌です。これは武家や大名たちが利用する他の街道すじではみられない雅?な趣ですね。
f:id:tochgin1029:20171009112631j:imageこのあとは、まっ平らな平野をとおります。登りもなければくだりもない道です。物流倉庫などが立ち並ぶ道は殺風景で、江戸時代に旅人が目にした風景はどうだったかな?などと想像してみます。遠くに赤城山が見えて、ススキが広がる原っぱの中を通過する旅人。なんていう光景を想像します。どこか歌川広重の図にでもでてきそうな景色です。
f:id:tochgin1029:20171009112707j:image やがて、利根川が近くに見え、川岸には五料の関所跡が残っています。この利根川の流れは遠く江戸にまでつながっているのですから、なるほど関所の守りも必要でしょう。となりに大きな橋が架かっているせいか旧街道の趣はみじんも感じませんが、関所があるあたりだけがバイパス道から外れていて、奇跡のように当時の街道風情が残っているのです。ここでは、下流のようにはてしない川幅が広がっているわけではなくて、10分も歩かずに渡ることができます。橋の上から眺める対岸は、家々が密集した旧い集落でした。自由に川を渡れない往時なので、たいがいは大きな川の両岸では、通常だと宿場が近接しています。旧い家があつまる集落は宿場になっていて、本陣跡との石碑があるけれど、ここでは一般の家屋となっています。敷地からはみでるほどの立派な松の木が立っていて、旧街道の雰囲気を唯一感じさせる光景です。
f:id:tochgin1029:20171009112946j:imageここから先の道は、旧い家々が入り混じる集落をたどります。あいかわらず、上りも下りもない単調な県道です。その県道から分かれた旧道には、「右赤城」という立札が掲げられています。京都から日光へ進む道のりのほとんどは左手に赤城山が見えますが、右に曲がったこのあたりだけが赤城を右手に眺められる光景だそうです。いまでこそ家がたち並ぶ集落の原風景は、ここでもススキ原だったのでしょう。
f:id:tochgin1029:20171009112823j:image 川を渡ればまもなく境宿にたどりつきます。ここでは、細い道の周りには旧い宿場風情が残る町です。京都から例幣使が通った街道であったり、古の東山道が通じていたこと。原っぱに古墳が並んでいる光景からは、このあたりが関東でももっとも早くから西の文化が伝播していたエリアなのではないでしょうか?かすかな西国の空気がこの地からは伝わってくるようなのです。

コロニー(植民地)とは?(北海道 松前と勝山館を訪れて)

f:id:tochgin1029:20170920200505j:image 北海道の南部、松前から上ノ国江差にかけての渡島半島のあたりは、地名からもわかるとおり、早くから和人が定住しだした場所と言われています。網野善彦さんの数々の著作では、上ノ国町にある「勝山舘跡」の巨大さについて言及されていて、いつか行きたいと思っていた場所です。先日に、念願かなって行くことができました。
f:id:tochgin1029:20170920200712j:image 最初に向かったのは松前。函館から松前までの道は、海岸近くまで段丘崖がせまります。風が強いせいか段丘には大きな木も生えていません。たどり着いた松前も、押し迫っている段丘に街並みがちょこんと乗っかっているよう。本州に住んでいるわたしたちがイメージするような、よく時代劇にあらわれる城下町という風情と、かなり異なっていることがわかります。旧城下町のあたりは往時の姿を再現していますが、その街並みは土地に根差したものというよりも、外来的にやって来たもののように感じられます。形容するならコロニー(植民地)のような雰囲気です。もちろん、松前にまったくおもしろいものがなかったわけではなく、城の形に建てられた資料館の最上階からは、遠く竜飛崎や小泊岬が見えます。おそらく、山を越えなければたどりつけない陸続きの集落よりも、遠くに見える海の向こうのほうが心理的な距離は近かったのだろうと思います。今ではただの集落でしかないこの場所にいくつもの廻船がやってきて、最果ての城下町が栄えた理由のひとつなのだろうと思います。
f:id:tochgin1029:20170920200742j:image 松前から上ノ国まで、ひたすら海と寄り添いながら海岸を登り下りしながら進む道でした。そして、しばらく進んだ海岸沿いの道を離れ丘を登った先に「勝山舘跡」があります。近くにはガイダンス施設があり、発掘された陶器などの品々が展示されています。それよりも感嘆したのはその広さです。勝山舘の中心部とされた場所は整地されていますが、国分寺跡のような場所と比べても遜色がない広さです。また、周囲にはアイヌの墓とされている墓地も多く残っています。松前の資料館でみた絵図には、アイヌはごくわずかしか描かれていませんでしたが、この勝山館でのアイヌの存在はおおっぴらです。網野善彦さんの著作によれば、この勝山舘ではアイヌと和人が混住していたとされています。さらに感嘆したのは夷王山からの眺めでした。上ノ国から江刺までの湾が一望できまて、遠くからやってくる船の出入りを見張ることもできます。この勝山舘の主、蠣崎信広の子孫が、後年になって松前に移転し大名となっていくのです。
f:id:tochgin1029:20170920200816j:image 松前の町をみてどこか不思議に思ったことが、勝山舘をみて瓦解していくようでした。江戸文化の意匠で整えられた松前の町が周囲の大地から浮いているコロニー(植民地)のように見えたのも、勝山舘につづくアイヌと和人の交易の歴史と伝統を引きずっているはずの、この町のありようと、江戸文化の意匠がアンマッチであることからくるものです。その伝統は、田園が広がるような農村の風景とも異なるし、屯田兵開拓使の歴史として理解されている北海道の歴史とも異なります。和人とアイヌの交易のこそが、この地にとっての歴史と伝統なのだと気が付いて感嘆したのです。松前の町を訪れるなら、上ノ国町の勝山館もあわせて訪れることをお勧めします。
 網野善彦さんが晩年に記した「日本社会の歴史」3巻では、ほとんどの記述は、豊臣秀吉の統一までで終わっています。たとえ、蝦夷地では和人とアイヌとの不平等な交易が、琉球では薩摩によよる公平でない交易がおこなわれていても、それを江戸や京都、大阪といった3都の人々が意識sることはない。沖縄への米軍基地の集中や、北方領土問題といった矛盾が首都圏の人たちに意識されないことと同じことです。