鬼怒川を渡る(北関東の諸街道8)

f:id:tochgin1029:20180212205208j:image前回の歩きでは日光から宇都宮まで到達しました。かつての例幣使はここから江戸に向かったのですが、ここから日本橋までの道のりは単調な道のように想像ができます。まっすぐ日本橋には向かわずに、一旦は白河を目指す奥州街道の道を選びました。
 前回の宇都宮の街は暗やみでわからなかったけれども、今回は、ようやく伝馬町の本陣跡の看板の向かいに、日光街道奥州街道の追分を見つけることができました。けれど宇都宮の街中では旧道の案内は素っ気ないものです。あらかじめ調べておかなければ旧道筋を忠実に歩くのは困難なようですね。
伝馬町からはオリオン通り馬場町とか、旧くからの宇都宮の繁華街をたどります。ただし、朝の時間では飲食店はまだ準備中ばかり。眺めるように店の脇を通り過ぎます。
f:id:tochgin1029:20180212204707j:image駅前の大通りを離れるとまもなく田川を渡り、幹線道路にぶつかります。広い幹線道路を自動車が通り抜けていくその片隅に古い文化財の建物が残っています。
旧篠原家住宅とよばれるその建物は、重厚な作りで中に入ります。案内のおじさんによれば、この建物は敗戦の1か月前に起きた宇都宮空襲を奇跡的に逃れた建物のひとつだそうです。危うく解体されそうなところを市が購入し開放したそうです。建物の中心には太い柱が天井まで伸びています。この建物は3.11の大震災でもびくともしなかったほど堅牢だったとのこと。そんな空襲を受けた宇都宮ですから街中にはあまり旧い建物は残っていません。市街地を過ぎると自動車が切れ目なしに通る殺風景なバイパス道を進みます。
f:id:tochgin1029:20180212204746j:imageようやく市街地を30分ほど歩いていくと住宅がすくなくなり、すき間から原っぱや林が見えるようになってきます。途中にはまたしても杉の並木!日光のうんざりするような杉並木を歩いてきた身には「やめてくれ!」とでも叫びたくなるほど拒否反応が起きてしまいます。
さらに進めばようやく車も少なくなりバイパス道とも離れていきます。そして、落ち着いた道中になるとまもなく坂を降りていきます。それまで台地の上を歩いていたことが分かります。坂道を降りたあたりが白沢宿です。
f:id:tochgin1029:20180212204822j:image旧い建物こそ残っていないのですが、この白沢宿のあたりの集落は、街道わきに水が流れ水車が回っています。それぞれの家にもかつての屋号が掲げられています。このような旧宿場町のたたずまいそのものは、それまで例幣使街道にも日光街道にもなくて、中山道の宿場町にみられた光景です。懐かしくなりました。そして宿場の奥には白髭神社という神社が鎮座しています。長い階段を上ると、神社の境内からは、鬼怒川の流れは見えなくても河原が広く伸びているさまを眺めることができます。それまで歩いてきた台地から、白沢宿に降りたときに、あたりの空気が一変したように感じられたのは、鬼怒川の河原から吹いてくる風のせいだったようです。そして鬼怒川の河原に向かって進んでいくと、左手には巨大な那須岳が見えます。台地から河原へと下りて行き、景色が一変する様は、そうとう劇的だと思います。
f:id:tochgin1029:20180212204847j:image 鬼怒川の河原から阿久津大橋を抜けて氏家の街を目指します。ここでも、あたりはまったくの車社会。旧道はバイパス道にさえぎられる始末。バイパス道を危険と知りつつ横断する年寄りの姿をいくつも見かけました。あまりにも道路が自動車の通行に合わせたつくりになってしまっています。それでもバイパス道を離れれば、沿道には古い社や地蔵などが残ります。
f:id:tochgin1029:20180212204913j:image氏家は、今となっては骨董品のような商店の建物ががたくさん街道沿いに残る旧い街です。いかにも「ザ・昭和」といった趣です。この日は雛まつりにちなんだイベントが行われていて公開されている旧家をのぞいてみました。ここには大谷石の建物はなくて、望楼の造形にはどこか欧風の趣があります。さほど保存状態は良くないようですが。
ここから喜連川までの道も、交差するバイパス道には、やはり自動車の長大な列が伸びています。次第に目の前に広がる丘陵の帯が近づいていきます。持参した2万5千分の一地形図では、このあたりの地形は、一定の間隔をおいて平行に流れている川の間を、これまた丘陵が平行に伸びています。向かうのはそういった丘陵の一つです。
f:id:tochgin1029:20180212204937j:image 丘陵をのぼり切ったところに、思わず奥州古道という看板を見つけました。これまでの例幣使街道にも日光街道にもなかった光景です。北関東の街道を歩いて、やっと「らしい」風景に出会ったようです。
f:id:tochgin1029:20180212205000j:image丘陵を降りてほどなく喜連川の街にたどり着きます。喜連川は温泉の街として少しは名が知れているはずですが、この日は市街地に人影がまったくありませんでした。バスの時刻を眺めても休日はどうやら非常に本数が少なくなるようです。楽しみにしていたのですが温泉につかるのは無理なようで、そのまま氏家まで戻ります。
 今日の行程はここまでです。日光街道や例幣使街道には、杉並木に象徴されるような徳川の権威を強調する側面が強くて、どこか堅苦しく面白みのない道であったのも事実です。けれど奥州街道の道はそれとは違っていました。
鉄道であれば関東平野を離れつつあるのを実感するのは、JR在来線で宇都宮駅を抜け鬼怒川を鉄橋で渡るあたりです。不思議なことに歩きの旅でも同じようです。宇都宮の台地を抜け鬼怒川の近く白沢宿に下りていくあたり、あたりの空気が一変して劇的に風景が変わるところはとても心に残っています。

戸惑いの赤(大田記念美術館「明治維新150年幕末・明治―激動する浮世絵」展)

原宿にある大田記念美術館では現在、幕末から明治にかけての浮世絵を展示していて見に行きました。北斎や広重や国芳といった大家の作品はないけれど、幕末と明治初期に描かれた作品群を眺めていると「ご一新」のかけ声と共にやってきた明治の時代を、絵師たちや町人たちがどのように捉え、どのように受容していったのかがわかります。
 明治初期の時代の作品を眺めると、いたるところに赤の色が多用されています。火事でも夕日の空を描いているわけでもないのに、絵の背景が赤く塗り籠めていたりとか。解説によれば、そういった作品の評価は現在では低いものということですが、反面でこの赤色こそ「ご一新」をうけとめた庶民の気分をもっとも象徴しているのではないかな?と思いました。

 はて、それ以前の江戸末期にそのような象徴する色はあったかな?と思い返します。そういえば、広重ブルーと言われる「ベロ青」がありました。それ以外でも、そういえば背景は青系の色が多かったかな?と思い出しました。

 ほんとうのところ、幕府の統制がどのくらい厳しいものだったか?それぞれの地方で異なったでしょうが、江戸の町に限れば、幕府の統制はかなり行き届いていたはずで、その存在も巨大なもの。そんな巨大な幕府が突然倒れてやってきた支配者たちが、なにを始めるのかもわからない状態。町人たちにとって世間がどう変わるかなんてわからないし、不安だらけだったでしょう。「ご一新」の号令は、どうやら「いままでと異なる様式の絵を描かなくてはならない」という具合に絵師たちには受け止められたのでしょう。それが「赤」という色で絵を塗りつぶした理由のひとつなんだと思います。明治初期の浮世絵に特徴のある「赤」をそんな不安の色のように感じました。
 井上安治や小林清親の光線画が登場するのは、その新たな支配の姿がだんだんと見えてきて生まれたものです。徳川の時代に、江戸の絵師たちに自分の描きたいように絵を描く自由はなくて、自分たちの師匠や流派に沿った様式で絵を描くしかありませんでした。新しい時代にはそうではなくて、流派とか形式ばったものではない「自分が描きたいように絵を描く自由」があることを、町人たちが会得していったから生まれた表現なのだと思います。おっかなびっくりでも風刺画といった表現が生まれてくるのも、その明治の世間が少し落ち着いてからのことです。

長州のように明治維新の勝利を叫びたい側と、会津のように明治維新を辛苦の時代の始まりととらえる側がいます。こと、江戸の町人たちにとっては、それまで偉そうにしてたサムライたちが退場し、自分たちを縛るものたちが居なくなったことの開放感が、明治のある時期の絵画から感じることができるのです。
 ところで、光線画に特徴のある絵の全体を覆う暗い闇を眺めていると、現在の明るい夜とはだいぶ様相が異なります。その昔に夜というものは、こんなに暗いものだったかと感慨深く思いました。

 

自分の心と身体2(再読「宗教なんか怖くない」橋本治)

 

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

 

 


 橋本治さんの「宗教なんか怖くない」は、オウム真理教サリン事件について書かれたものです。かつて初版が発売されたころはオウム真理教サリン事件が毎日のように報道されていた頃です。まだバブル経済の破たんは行動様式や社会認識に影響する前のことで、東西冷戦も終わって豊かさを実現したこの社会に「否」と叫ぶ人たちが存在する。このことが、1995年の当時に、サリン事件で一番衝撃をうけた事でした。もちろん、2018年のいま、サリン事件についての本を読むと、この事件がその後の平成史の展開のどこかを示唆しているのがわかります。
 本の随所に「サリン事件は子供の犯罪だ」とか「自分の頭で考えられない人たちが…」といった言い切りが差し込まれています。橋本さんは、ある時実行犯の林泰夫がヨガをやっている画像をながめ、彼のヨガのあまりのぶざまさを見ながら、そのぶざまさを「自分の身体を自分のものにしていない」と評しました。彼(林泰夫)は自分の身体も心も「自分のもの」として把握できていなくて、それが、ぎこちないヨガの動きに象徴的に表れているのです。

 オウム信者のなかには、彼のような優秀な学歴のひとたちが多く含まれていました。当時は、優秀なエリートがなぜ?と問われていました。法体系や経済活動といった現代社会のしくみは自立した「自分の頭で考え判断する」個人の存在を前提にしている反面で、そうした個人は必然的に孤独と向き合わざるをえない。そのあたりが腑に落ちないまま「自分探し」に溺れ、オウム信者でなくとも多くの人たちが新興宗教自己啓発セミナーに沈んでいきました。誰かが作り出した(自分自身のものでない)既製品に「自分の心と身体」をむりやり合わせて身を滅ぼす。彼(林泰夫)の「自分探し」は、ただのヨガ講師(麻原)の繰り言を「自分の心と身体」として身にまとおうとした行為でした。
 事件が露見した後に彼らオウム信者たちの行った行動は不可解なもので、秘め事なら秘め事らしく沈黙するはずが、わざわざマスコミ向けに会見を開き「自分たちはやっていない」と述べました。国家警察は敵とみなしながら、宗教法人の取消や破防法の適用は宗教弾圧と述べました。前者と後者は明らかに矛盾するはずですが、本人自身それを矛盾と感じないとすればその理由はただ一点、自分の正しさを無条件に疑っていない場合だと橋本さんは述べています。彼らオウム信者たちの行動は、いわゆる世間から注目してほしい愉快犯の行動原理で、大人たちにかまってほしい子供たちのふるまいに近しいと。
 オウム信者たちが、1995年の当時に世間をどう眺めていたか?ということは、2017年のいまのほうがよく見えるかもしれません。当時も身近な友人がぽつぽつと、新興宗教自己啓発セミナーにはまっていたのを覚えています。1995年ではオウムの信者たちの子供っぽいありようは異端児でしたが、当時のオウム信者のような子供っぽい矛盾した叫びは、いまではSNSによって可視化され、ごく普通に日常生活を送っている一般人のなかに内包されていることがわかります。その叫びのなかには、疎外感を感じながら日常生活に苦しんでいる人たちの孤独と不安、すなわち「淋しさ」が隠れています。

だから、フェイクニュース陰謀史観も排外主義もヘイトスピーチも韓国叩きも朝日新聞も彼らの疎外感を一時的に埋め合わせるものでしかなく実体が無い。産経新聞で展開されている「歴史戦」と称する運動がことごとく敗北しているのも当たり前なことで、彼らが敵とみなすものが観念にしか過ぎなくて実体が無いものだからでしょう。
 現在の日本で残っている宗教の多くは鎌倉時代に勃興した宗教で、国を守るためのそれまでの仏教でなく、「個人の救済」というものを社会が問題とするような社会になって生まれた宗教です。けれど室町時代の後の社会は、個人よりさまざまな利益集団の論理が優先される集団主義に変わります。織田信長一向宗の争いは宗教勢力と新興の世俗権力との争いで、負けた宗教勢力が世俗権力に管理される側に立ちます。そのあと「個人の救済」という歴史の問いは社会の歴史からすっぽりと抜け落ちました。庶民に信仰されている仏教の多くが、いまだ鎌倉仏教を源流としたものばかりなのは、そうした「個人の救済」という側面の歴史上の宿題に、鎌倉時代のあと社会の側がまったく解答を示していない事を明かしているかもしれません。

 「個人の救済」という問いは、ムラ社会や企業社会といった集団に帰属することで覆いかくされても、近代社会では空虚はむき出しになります。さまざまな新興宗教が勃興したのも、なにによって空虚を埋め合わせるのかという心理の表れで、オウム真理教もそんな新興宗教のひとつでしかないということです。1995年のサリン事件を過ぎて、橋本治さんが「宗教なんか怖くない」と書いたのはそういう意味なんだと思います。

終わらない杉並木(北関東の諸街道7)

f:id:tochgin1029:20180106145753j:image 東照宮までを歩き終わりました。かつての例幣使たちは参拝のあとで、江戸に向かっています。どこか日光には終着点というイメージは薄くて、ここで終えるには半端な感じがします。まずはここから宇都宮まで向かうことにします。再び降りたJR日光駅は訪日観光客でいっぱいでした。彼らが駅員に提示するのはJAPANRAILPASSです。わたしが提示するのは青春18きっぷです。
f:id:tochgin1029:20180106145812j:image 日光駅宇都宮駅には400mの標高差があります。宇都宮駅では晴れていましたが日光駅では風花がちらちらと舞うさむい曇り空です。ここが山間部であることを天気から感じます。歩きだせば快調な下り坂で、行きには苦しかった並木道も、進むこと進むこと1時間もあるけばあっという間に今市の市街にたどり着きました。このコースは前回は2時間で通過しているのですからだいたい半分程度の時間です。行きでは通り過ぎていた資料館に休憩がてら入ることにします。
f:id:tochgin1029:20180106145043j:image ここで知ったのは、現在の日光市域というのはそのまま江戸時代の日光神領と重なっていったことです。幕府の支えがあったからといってここに住む庶民が豊かだとはいいがたいわけです。江戸の終り頃、日光街道の通行量が増えれば増えるほど、近隣から駆り出される助郷の負担も大きくなっていったようで、説明書きには逃亡する農民もいたそうです。それだけでなく、重なる飢饉とかによる影響で、江戸の末期に北関東の人口が30%ほども減ったのだというグラフが掲示されていました。二宮尊徳が晩年にこの地の救済に乗り出したのはこのようなことが前提であったのだとわかります。思い出したのはイザベラバードの「日本奥地紀行」この記述では、日光を除いた北関東の光景は、人々が貧しくて、不衛生でみすぼらしかったと、だいたいは辛辣で否定的に描かれています。この当時に北関東の人々が、実際に貧しい暮らしをしていたのだということが想像できます。そして、杉並木の途中に政府軍の弾を受けた木が残っており、この地では戊辰戦争の戦場ともなった場所です。政府軍に負け続ける幕府軍はこの今市から会津西街道を北上していきます。そこから会津藩の悲劇へと繋がっていくのですから、ある意味この道は幕府軍が敗走していく道でもあるのですね。f:id:tochgin1029:20180106145107j:image今市で食事をとりたいところですが、この日の道の駅は休み、コンビニでの食事になります。再び杉並木へと入りますが、宇都宮への距離が28kmとあります。いままでであれば2日かけて歩く距離です。うんざりするような遠さです。
 入ってみた杉並木では、ここでも自動車の走路と杉並木は分かれていて、歩きを自動車にさえぎられることが少ない快適な道です。この杉並木には「保護地域」と「特別保護地域」いうのがあって、特別保護地域というエリアほど、よく見てみると杉の木が傷んでいることがわかります。自動車が杉並木から除かれたのも、杉の木にとって自動車の排気ガスが原因となっているとみなされたからです。たしかに途中には根が傷んだために中が空洞となってしまっている数本の杉の木がありました。f:id:tochgin1029:20180106145135j:image大沢宿のあたりでいったん杉並木は途切れますが、ここでもかつての宿場の面影はあまり感じません。そのまま通り過ぎ、また杉並木に入りしばらくすると並木の寄進碑があらわれます。鹿沼~今市のあいだのようにここで杉並木というものは終わりであるはずなのですが、そんな甘いものではなかったのを、あとで思い知ります。
f:id:tochgin1029:20180106145200j:image しばらく歩けば、あっけなく宇都宮市域にはいります。ですがまわりの風景は人家もまばらなさびしい集落の風景が続きます。日光神域ということも関係するのでしょうか?このあたり道端にたつ神社のたぐいの存在感がまるで薄いことも気になります。この地の歴史は、日光開山~幕府のの聖地化~避暑地~観光地 と進んでいくのですが、日光が幕府の聖地になっていく過程で、この土地に住んでいたさまざまな神々は追い出されていったのではないか?神々が追い出された代わり、この地には万里の長城のような並木道がそびえることになったのだと想像しました。
f:id:tochgin1029:20180106145220j:image 地図を見る限りでは、徳次郎宿を過ぎればどこでもあるロードサイドの道に変わるのだと思っていたのですが、その想像は裏切られました。寄進碑を過ぎても杉並木は点々と続いています。通常の並木道では歩道と並木とは平面ですが、このあたりの場所では並木の植えられている個所はこんもりと盛り上がっていて、わきに歩道がつけられています。車道と歩道のあいだにはけっこうな高低差があるのですが、この歩道が非常に歩きづらいやっかいな代物なのです。f:id:tochgin1029:20180106145246j:image街道沿いの住宅や店舗から車道への取り付け道路に繋がるたび、この歩道は車道の高さまでのぼり降りしていて、この上り下りが疲れた足に負担となるのです。このような道は、結局は宇都宮市街のごく近くまで伸びています。もっともこの並木道が延々と続いているため、よくあるロードサイド店舗がこの街道ぞいに増えるのを抑えているみたいです。
f:id:tochgin1029:20180106145846j:image並木道が終われば、全国チェーンの飲食店やらが立ち並ぶどこでもあるロードサイドの風景にきり変わります。途中には栃木県体育館を見つけました。この体育館は、自分が中学校と高校生のとき部活動で幾度か行ったことのある場所でとても懐かしくなります。

 ここから宇都宮の宿場町に入ります。ぽつぽつと旧い建物が存在するのは判別できても日も暮れていて、街並みを確認することはできません。それでも宇都宮駅につづく大通りに出たあたりが奥州街道との追分となります。追分を示す石碑は見つかりませんでしたが、このあたりに本陣跡の看板があって目じるしとなるものを見つけることができました。今日の歩きはここまでとします。

f:id:tochgin1029:20180106144926j:image ここから宇都宮駅まではバスで向かうことにしました。近くの伝馬町のバス停には、仕事帰りのサラリーマンがバス待ちをしています。大学を卒業し就職しようとしたのはもう30年近くも前のこと、栃木出身のわたしは、その時にUターン就職をしようとは思いませんでした。けれどUターン就職ならいまごろはこのサラリーマンのように宇都宮のバスにゆられていたかもしれません。戻ることはもうないと思いますが、自分にとってあり得たかもしれない人生の選択肢を間近でみたような気がします。宇都宮のサラリーマンをみながら、ひとりで感慨にふけっていたのでした。
 さて、例幣使の足取りではここから江戸に向かうところですが、わたしは反対の道白河へ進むことにします。

徳川の道(北関東の諸街道6)

f:id:tochgin1029:20171224160339j:image例幣使街道の歩きも、今市まで到着すればあと少しというところ。今回はJR日光線を使っての移動です。車中には日光線各駅の高度が記された路線図が掲げられています。始発の宇都宮では標高は100m台ですが、日光駅だと高度は500mを超えるのですからけっこうな高低差です。前回の歩きでは真っ暗やみで、日光の山々など眺められませんでしたが、一か月を過ぎて今市駅に降りれば、景色のうしろに雪の混じった日光の山々が鎮座しているのがよくわかります。同じ高山でも、壁のような信州の日本アルプスのそびえかたとは少し違い、個々の山が独立してそびえている印象です。この例幣使街道の歩きは、大田から足利、佐野、栃木、鹿沼、今市そして日光へと、歩くにしたがって、なだらかな女性的な山々から男性的な地形へ移り変わるさまを眺めるのがおもしろいです。
f:id:tochgin1029:20171224160317j:image それまでの街とおなじように、今市も街道沿いに古い町が広がっています。街のなかには二宮尊徳神社がありました。神社の入り口の、出来たばかりの木像は、チェンソーアートコンテストの優勝者の手によるものとのこと。この木像がまるで円空仏のようにも見えます。のみひとつで木片から仏をこしらえていった円空と一本の丸太からチェンソーひとつで像にしたてていく作者の姿がかぶるようです。今市のこの地は、二宮尊徳が晩年を過ごした地だそうです。すぐれた改良家の尊徳はリアリストのはずなのですが、世間に広まったのは薪と読書の少年金次郎の像で、彼の改良家としての事績とその本質は、たぶん誤解されているのだと思います。かんたんな朝飯で出かけたので、すぐにお腹が空き、道端の道の駅にかけこみます。この道の駅は、作曲家の船村徹の記念館が併設されていて、貸し切りバスもぽつぽつと停まっていますが、実際に広場でかけられているのは船村徹とは関係のない、いまのヒットソング。かれが作った演歌の数々が示す世界と、いまの世間はあまりにもかけ離れてしまったのかもしれません。
f:id:tochgin1029:20171224160446j:image 今市の街を抜ければ杉の並木と再会です。歩行者専用となっている並木道は歩くのには快適ですが、途中で行き会うのは地元の人たちばかりで、日光には多くの観光客が訪れても、杉並木を歩くのは意外に不人気?なのですね。木の隙間からながめる外の景色は淋しげです。今市と日光の街がそのまま続いているものと思い込んでいましたが、そうでもないようです。新政府軍の砲弾を受けた杉の木が枯れずに残っていました。説明板には戊辰戦争のころ旧幕府軍が日光に立てこもったといういきさつもあったようです。このあたり東武線とJR日光線が至近距離で、両脇を車両が通過していきます。
f:id:tochgin1029:20171224160504j:image 杉並木が途切れたあたりは、ちょうどJRと東武線の日光駅が並んで建っています。JRの日光駅はクラシックな洋館風な作り。東武日光駅はいかにも戦後の観光ブームのさなかで建てられたような山荘風の建物です。外国人の避暑地であり別荘地であったことからくる洋風のイメージと、徳川の霊廟であることからくる和風のイメージが混在して現在の日光のイメージを形作っています。が、洋風と和風のまったく異質なものがなんの疑問もなく共存できてしまうことって、よくよく考えてみれば不思議なこととも思ったりします。数々の観光客が歩く日光山を目指す道は、両脇にゆば料理を出す店が点在しますが、どうも値段が高くて手がでないなという印象でした。神橋のあるあたりを抜ければ、いよいよ日光山に入ります。
f:id:tochgin1029:20171224160858j:imageどうして徳川の霊廟がこの地に建てられたかは、風水とか吉凶とかいろいろな俗説があります。そういったものにはまるで興味はないのですが、この場所から日光山の方角を眺めると、なぜこの場所に霊廟が建てられたのかも分かるような気がします。日光駅のあたりから日光山の方角を眺めると、左に男体山を、右に女峰山を従えるように真ん中に日光山が位置します。そしてその方角からは冷たい風が流れています。ひんやりした空気が絶えることなく供給されているかのようです。広すぎてすべてを回ることはできませんが、輪王寺東照宮を見学しました。f:id:tochgin1029:20171224160939j:image輪王寺はちょうど、大改修工事をやっていて、いまでは本殿すべてがカバーに覆われています。その巨大なカバーには7階に上り展望ができるようになっています。f:id:tochgin1029:20171224161017j:image東照宮は、陽明門のぎらぎらとした意匠は、かつては悪趣味の代表のようにも思っていましたが、きらびやかな海外の仏教寺院などを知るにつけ、いまでは、陽明門をそれほど悪趣味とも思わなくなりました。ただ、全体として東照宮の全体を眺めてみると、この建物のありようは、まちがいなく霊廟なのだな。と思いました。女峰山や男体山といった霊山を、そして輪王寺二荒山神社といった寺社を従えるように建つこの地は、世俗の世界と宗教界をも従え、それまでの日本史上にないほどの権力を持ち得た「徳川の世」を表象する場所そのものです。
f:id:tochgin1029:20171224161119j:image さて、行きは例幣使街道を通って日光にたどりついた例幣使たちの帰りは、日光街道を江戸に向かったとのこと。この後は、故事にならって今市から日光街道を上ることにしましょう。帰り道を日光駅へ向かう道は、そうとうな下り坂になっています。行きには気が付かつかなかっただけで、そうとうな上り坂だったようです。距離のわりに時間がかかったように思われたのはそのせいでもあったようです。宇都宮へ向かうまで、快適な下り坂が続けばと思うのですが・・・。

どこまでも杉!杉!杉!(北関東の諸街道5)

f:id:tochgin1029:20171203120415j:image 前回の歩きから3週間、再び楡木駅へ向かう東武線の車窓には濃淡さまざま赤や黄色、緑色が入り混じった里山の景色が見え、心の底からきれいだと思いました。車中の高校生たちはもっぱらスマホいじりに夢中で、景色など興味なしといった姿ですが、自分の高校生のときもまあそうだったよなと思い返します。降り立った楡木駅とその周辺も同じで、空の青と緑や赤黄色が対比する景色をきれいと感じるのも同じです。
f:id:tochgin1029:20171203120743j:image 例幣使街道そのものはここでは国道となっていて、広い通りを自動車が過ぎていますが、それほど歩くのに邪魔になるほどではありませんが、宿場町とその他の集落の間に違いがあるわけでなく、楡木宿の次は、奈佐原宿があるらしいですがどこが宿場なのかはっきりとはわかりません。でも沿道でちらほらと眺めることのできる紅葉は美しく、すでにこのあたりでは杉の木が沿道に点々と立ちはじめています。大谷石の産地が近いこともあって、古い蔵はこのあたりでは、土蔵ではなくて大谷石でつくられた蔵がぽつぽつとしているのも面白いですね。f:id:tochgin1029:20171203120818j:image淡々と歩いたあとで、鹿沼の宿場町に到着しました。新鹿沼のあまりぱっとしない駅前とあまりぱっとしない商店街で、なぜか近所の人たちが集まっていて、それは不思議な光景です。なにかというとどうやらイベント兼特売セールのようです。軒先で売られている商品の多くはどれも100円で売られています。前回にあるいた栃木の街ほどではないですが、ほどほどに人が歩いている町中を見かけるのは心がなごみます。街中には公園があります。公園のなかで、無料で入れる旧家では紅葉がきれいですが、隣には山車会館という建物があります。中に入るとさっそく説明員のおじさんが丁寧に説明をしてくれました。その彫刻のすごさにびっくりしたのです。f:id:tochgin1029:20171203120955j:image入館すると、複雑に彫られた彫刻の複雑な意匠にびっくりするのですが、メインは館に展示された3台の山車です。隣の栃木でも秋に大きな祭りがあって町中を大きな山車が練り歩きますが、鹿沼でも大きな祭りが秋にあって、町それぞれ趣向をこらした山車が競うように練り歩きます。けれど、それぞれの山車の意匠は、鹿沼ならではのオリジナルな特徴があって、それぞれの山車にきらびやかな彫刻が飾られます。兎や鳥や唐獅子、そして龍が描かれたさまざまな彫刻は、まるで東照宮の陽明門を彷彿とさせるようなもので「動く陽明門」とも称されるそうです。それもそのはずで、江戸の当時に陽明門を作るために、日光にはたくさんの彫刻師が集められます。そして、陽明門が出来上がったあと、この鹿沼や付近の各地に彫刻師が移り住んだのが基になっているそうです。f:id:tochgin1029:20171203121033j:image3台の山車のうち1台は塗装がされた彫刻ですが、あとの2台は無色のままです。これは天保年間のあたり「贅沢禁止令」によるものらしく、その当時に華美な祭りが幕府のお達しで禁止されたことによる影響です。ですから天保年代をはさんで制作された1台の山車は、天保年間を過ぎて制作された彫刻部が無塗装ですが、天保前に制作された山車の本体は漆で塗られ、その対比が面白いと思いました。彫刻の作り方はどれもひとつの木から掘り出されるもので接着や接合の作業はありません。展示にはその製作法も展示されていましたが、簡単な下絵ひとつで立体的な造形を作り出していく力量には驚くし、そのスキルをもつ人たちが集団となって東照宮の造営に携わったこと、その地力のすごさにもあらためて驚くのです。
f:id:tochgin1029:20171203121425j:image その鹿沼の街を過ぎて、黒川の橋をわたると平地は終わって、台地の上を街道は通るようになります。次第に沿道には杉の木が増えてきて、鹿沼と日光の市境のあたりに立っている、杉の寄進碑をすぎて、本格的に杉並木が始まります。
f:id:tochgin1029:20171203121454j:image 杉並木といっても、歩行者は両脇の杉の間をあるくことはできなくて、その場所はほとんどが自動車のための道となっています。現代の歩行者は杉のわきに通じる細道を通りぬけます。f:id:tochgin1029:20171203121517j:imageその杉の並木の存在感は圧巻で、杉が並んだその空間は、沿道の景色とは遮断される傾向にあるようです。なので、杉並木のどこを通って写真を撮っても、あとで見返せばその写真はどこも同じような風景なのですね。それでも、途中の宿場町の部分では杉の並木は途切れます。その文挟宿のあたりで昼食をとります。立ち寄ったそば屋は夫婦で営んでいるようです。こういった場合、いつも夫婦で喧嘩をしているような雰囲気のお店も多いですが、このそば屋の夫婦はなごやかにおしゃべりをしていて仲良し夫婦のようです。
f:id:tochgin1029:20171203121602j:image その文挟宿を過ぎれば、また杉並木が始まります。この時期、山かげに太陽が沈もうとする時間は、いつも焦りだします。とりわけこの杉並木沿いの道は、人影もないし夜間にあるくのは怖い場所です。このあたりで木の間から眺める外の景色は、とても淋しい景色に見えます。板橋宿を過ぎると、その先は杉の木の痛みが激しいようで、痛みを防ぐため車両通行止めになっています。思いがけず、杉のあいだを独り占めして歩くことができました。
f:id:tochgin1029:20171203121645j:image 誰もいない杉の道を延々と歩いていると、深い緑に包まれた杉の並木の中の空間というのは、並木の外の空間とはあきらかに遮断される効果があることに気が付きました。杉によって遮断された空間は、このまま日光まで続いています。どうやらこの杉並木というのは、東照宮に祭られた東照大権現こと徳川家康の、権威やご威光を演出するための大掛かりな装置なのだと気づきました。この道を通り東照宮に向かう人々にはこのあたり、杉の景色のほかにはなにも眺めることはできません。ながめることのできるのは、ただ杉の道の終点にある東照大権現のみです。もともとあった東照宮が、きらびやかな姿になったのは徳川家光の代になってのことで、この杉並木も徳川を神格化させる東照宮の造営事業の一環なのだということです。
f:id:tochgin1029:20171203121703j:image 今市に近づけば、右手にも別の杉並木が近づいてきます。宇都宮からのびている日光街道の杉並木です。そして合流地点には地蔵堂がありました。今日の歩きはここまで、次は東照宮の終点に到着です。

左手は日光の山(北関東の諸街道4)

f:id:tochgin1029:20171119181159j:image例幣使街道の道中は、必ずといってよいほど左手の山々を眺めながらの道中でした。けれども、富田宿を過ぎたころ、左手の山はだんだんと低くなり遠ざかっていきます。この左手の山々が途切れるところが、両毛とよばれる地域の境を示しているように思いました。近くには永野川という川が流れています。この日もよい天気で、イチョウの木の黄色がとても空の青色に映えています。
f:id:tochgin1029:20171119181226j:image右手に東武線の高架が並ぶ道を進めば、あっけなく栃木の街に入ります。この日は日曜日で、栃木宿に着けば観光客がぽつぽつと現れています。町中には古い建物も多いのですが、多くの建物がきれいに整備されていて、そういった観光客向けのカフェも新たに作られようとしていました。それは、いままで通ったどこか寂れた市街地とは異なった華やかさが見られます。その先にある嘉右衛門町と呼ばれるエリアには、とりわけ古い建物が連なっていて、国の保存地区の指定を受けているそうです。
f:id:tochgin1029:20171119181304j:image 嘉右衛門町を過ぎれば、広い県道と合流します。いつのまに左手の山は遠くにいってしまい、その遠くに見えるのは日光の山々に変わっています。東武線をまたがる巨大な陸橋を超えたあたりは、どうやら合戦場宿らしいのですが、宿場を示すような石碑をまったく見つけられず困りました。そんな殺風景なこの場所にある旧跡らしきものといえば、日立製作所創始者とされる、小平浪平の生家が、街道沿いに立っていたことです。f:id:tochgin1029:20171119181338j:imageけれども、この家はいまでも現役の私邸として利用されているので、残念ですが中を見学することができません。そのさきには、升塚という史跡がありました。どうやら、この小高い丘は戦国時代の戦死者のお墓だそうです。f:id:tochgin1029:20171119181407j:image足利や佐野と比べると、栃木をすぎたこのあたりから沿道には史跡のたぐいが少なくなったように思います。庚申塚や馬頭観音が道端に点々と立つような光景もなく、合戦場という地名や升塚という戦死者の巨大な墓から受ける印象では、どこかこの場所は戦いが繰り返された場所だったのではないかという想像をします。たくさんの自動車が走る道は、ほんとうは家中宿、金崎宿を通過しているはずなのですが、どのエリアも宿場を示すような碑もなくて、いったいどこが宿場であるのかよくわかりませんでした。
f:id:tochgin1029:20171119181441j:image その単調で変化も乏しい道のりながらも、進んでいけば次第に車はすくなくなりました。金崎の集落を過ぎると思川を渡ります。赤城山を過ぎてからの両毛地域の風景は、岩舟山を例外とすれば、ほとんどがなだらかな女性的な地形のように見えたのですが、このあたりの風景は、遠くに見える日光連山の姿から、しだいに男性的な地形だという印象を受けています。これまで歩いた、足利の川崎天満宮や玉村八幡宮では例幣使が歌を残していますが、そのような例幣使の痕跡は、このあたりには残されていないのが、どこか不思議にも思いました。両毛地域のなだらかな山々を眺めて、そこに京都の風景を思い出したのかもしれません。そういった場所が例幣使にとっては心和む旅路であっても、このあたりだと、訪問先の日光も近づいて、例幣使にとっては緊張を感じされる場所だったのかもしれないなと想像しましたが、さて真偽のほどはどうなんでしょうか?
f:id:tochgin1029:20171119181510j:image 壬生道との追分を過ぎれば、まもなく楡木宿に到着します。今回の行程はここまでです。このあたりでは街道筋はとてもひろく、往時もそれなりに開けた宿場だったと想像しているのですが、集落の外れにある楡木駅につけば、駅はそっけない無人駅でした。