大切だが重いことを考える道(北関東の諸街道11)

f:id:tochgin1029:20180513132238j:image 前回は、芦野宿まで奥州街道を歩きました。奥州街道の北上は白河までにしようと決めているので、今回の歩きのひとまずのゴールでもあるのです。新幹線を使わないと決めれば那須への公共交通の足はとてもたよりない状態で、いったん宇都宮で前泊することにしました。翌朝は早朝の電車で宇都宮から芦野に向かいます。
 地元の高校生の通学と一緒になります。もちろん県庁所在地の宇都宮にむかう高校生のほうが圧倒的ですが、意外なほどに北上して通学する高校生が多いようです。宇都宮と那須ではとても遠いように思うのですが、地元の高校生は、そう苦も無く遠距離通学しているようです。通学ラッシュが少ない分だけ都心近郊の通勤通学よりも遠距離はストレスは少ないようにも見えるのです。黒田原駅を降りてバスに乗り換え、芦野宿にたどり着きます。
 あいかわらず、芦野宿のあたりには外を歩いている老人たちもいません。でも歩きだせば、農作業を行っている姿を眺めながらの歩きになります。f:id:tochgin1029:20180513132434j:image

ちょうど今頃は田植えのシーズンで、田植え機を操作しながらの田植えもあれば、なんと手で苗を植えている老人の姿も見られます。広い田んぼに、ぽつんと手で苗を植えている老人の姿はとても頼りなげです。農作業の膨大さを想像して、その途方もなさに驚嘆します!
自動車の交通量が少なければ、カエルの声があたりに鳴り響いています。人気のない山道は、無音だと一人では心細いところですが、カエルの声が鳴りひびくと不思議と淋しくはならないものです。f:id:tochgin1029:20180513132533j:image

途中には初花清水という水が湧き出る場所があります。そこには仇討をするためにこの地で暮らし、土地の人たちに世話してもらった夫婦の話が載っていました。旅人を親切に世話する村人の話というのが昔話にはよくあります。いっぽうでは、毎朝の通勤電車で困っている乗客に、舌打ちするビジネスマンの姿なんてのは日常の光景です。どちらが人間の感情に則した、自然な振る舞いと感じるかといえば、それは前者のほうだとおもうのですが…次第に人家が少なってくると、いよいよ栃木県と福島県の県境にたどり着きます。
 県境にはそれぞれ、境の明神という神社が建っていてこのあたりだけ道路幅も狭くなっています。付近には2~3軒の民家が建っていますが、そのほかには人けのない場所です。白坂宿はその先にあるらしいのです。どうやらそれらしい集落もあったのですが、残念ながらあまり違いが分かりませんでした。次第にあたりは開けてきて、地方都市郊外らしく、住宅がぽつぽつと立ち並ぶ風景に変わっていきます。さすがに腹がすいてきて途中のコンビニで買い込みましたが、すぐ近くにラーメン屋があって、昼食はこちらのラーメン屋で取ります。白河ラーメンという名前の、ご当地ラーメンがあるそうです。白河ラーメンの特徴がなんなのか?というのはわかりませんが、途切れることなく客がやってきます。出てきた醤油ラーメンは、なるほどあったりしていて美味しいラーメンでした。
 さらに市街地に近づけば、ますます郊外型スーパーなども立ち並ぶようなへんてつのない郊外の風景が広がっていて、少し退屈していました。敵を防御するための仕掛けとして、街に入るまえの街道筋は鍵のように折れ曲がっています、その折れ曲がる道の正面に大きな石碑が建っています。これを見てびっくりしたのです。f:id:tochgin1029:20180513132637j:image「戦死墓」と書かれた大きな石碑は、戊辰戦争戦没者を供養したものでした。戊辰戦争の敗者といえば会津藩が代表ですが、稲荷山というこの石碑の裏手でも大きな戦闘があったことを知りました。町の入り口に建つ戊辰戦争の供養塔。もちろん白河の人々が150年前の戦いの仕返しをしようとは思ってはいないでしょう。けれど、この石碑の存在は、この地の人たちが決してこの故事を忘れないという誓いのようにも思いました。かつてサントリーの社長が、東北について「熊襲」という発言をしたときに、たいへんな抗議行動が起きています。尊厳や誇りを傷つける言葉には、とてつもない怒りを表出することもあるのです。
f:id:tochgin1029:20180513132658j:image ネットで検索すれば、白河市の人口は6万人程度しかない、単なる地方都市のはずですが、街を歩いてみれば、他の同規模の都市に比べ思いのほか市街地が広がっていて、かつてはとても大きな町であったことがわかります。この白河は、江戸末期には1万5千人をかぞえる、近辺では会津に次ぐ大きな都市であったそうです。「白河の関」という境界イメージからくる、どこか寂し気な土地のように白河をイメージしていたのは、大きく裏切られました。中心商店街にまったく活気がないのは、よくある地方都市のことで珍しくも何ともないのですが、そんな活気のない商店でも、白河ではほとんどの店のウインドーがピカピカで、また中もこぎれいに整えられている!そのことにびっくりしたのでした。会津若松を訪れたときに、街全体にきりっとぴしっとした印象を持ったのですが、この白河の街にも同じような印象を持ちました。
 帰りには、隣りの白坂駅にあるアウシュビッツ平和資料館を見学しました。民間で建てた資料館のようです。20分ほどのビデオを眺めると、このアウシュビッツの土地でなされた行為は、いわば「システム化された殺人装置」とでも形容すべきで、その途方もない恐ろしさに戦慄を覚えました。その虐殺の源といえば、幼少の頃に父親から虐待を受け自尊感情を破壊されたヒトラーの「憎しみ」とその連鎖にしかほかならない。ビデオを見終わった後、となりの展示室では、ポーランドの子供が描いた戦争の絵画と、日本の子供が描いた戦争の画が並べて展示されていました。自分の肉親が兵士に連れていかれたり殺されたり、残酷で冷徹な兵士が描かれているポーランドの子供の絵に比べ、日本の子供の絵には、勇敢で勇ましい兵士が描かれています。そこには桃太郎の鬼退治のように思っている心理が見えます。
 戊辰戦争アウシュビッツでの虐殺に直接は関係なけれど、白河で思いがけず「戦争による人間の尊厳の破壊」なんていう、大切でも重いテーマについて考えることになりました。

黙々と歩く道(北関東の諸街道10)

f:id:tochgin1029:20180429185314j:image大田原宿までたどり着いたのはひと月まえのことでした。やっと春がやってきて、咲きだした花を楽しみながらの道中でした。すでにあたりは新緑の季節になっていて、まだ若い淡い緑色が日を浴びて透き通っています。
宇都宮からの電車はこの日もゴルフへ向かうグループで賑わっています。西那須野駅で降りてがらがらのバスにのり、大田原の市街地へ向かいます。

  トコトコ大田原というバス停で降りて、そこから街道あるきを再開します。大田原の市街地は、表通りこそきれいに整えられていますが、一歩裏通りに入ればそこはガタガタとした舗装道路が残る古い町です。市街地を見下ろす丘に大田原神社という神社があります。登れば大田原の市街地が見えます。

 f:id:tochgin1029:20180429185345j:image市街地を抜け蛇尾川を渡れば、あたりは次第に郊外の趣に変わっていきます。那須野が原はひと月前とは違っていて、田んぼに水がはられ、まもなく田植えが始まろうかという頃です。その田園の中を抜けていくと、右手には棚倉街道との追分が、左を眺めれば那須岳の姿をみつめながらの行程になります。
f:id:tochgin1029:20180429185410j:image 渡貫のあたりで那須野が原は終わり、丘陵があらわれ、人家もまばらになってきます。沿道にはいろいろな花が咲いています。例年だとさして気にも留めないツツジの花が、とりわけ今年は鮮やかで、花を眺めながらしばらく進めば鍋掛宿に着きます。宿場に入ろうかというところから、黙々と歩く同好の士?らしきおじさんたちを、ちらほらと見かけるようになりました。
f:id:tochgin1029:20180429185448j:image 鍋掛宿のあたりにそれほど旧家は残っていません。芭蕉の句が残る石碑だけが往時をしのばせています。隣接していた高札には、各宿場との距離が載っていて、芦野宿まではあと11キロくらい。今日の行程はそれほど大変ではない距離感だなと思います。
f:id:tochgin1029:20180429185516j:image 鍋掛宿と隣の腰堀宿との間は、実は1キロもありません。どういうことかといえば2つの宿場の間には那珂川が流れてて、深い谷となっています。これを渡るのが難所であるわけです。現代はもちろんかけられた橋を渡るのみですが、山深い場所をわたる両岸は、北関東の歩きで初めて見る渓谷の風景です。ちょうど山藤が咲いていてとても印象的でしたが、カメラで映してみると、あまりはっきりとはわからない写真で、見たときの鮮やかな印象がなくて少し残念ですね。越堀宿も鍋掛宿とほとんど同じような集落で、知らなければなんの変哲もない集落でしか見えないでしょう。
f:id:tochgin1029:20180429185536j:image 腰堀宿を抜け、富士見峠までの道は工事中となってました。わたしのように旧街道を歩く身には、きれいに整備された道はまったく味気ないものですが、生活をする人にとっては便利なほうがいいわけです。山を抜ける工事中の道の上は真っ青な空で、まるで岸田劉生の画「道路と土手と堀」を連想させる風景でした。
f:id:tochgin1029:20180429185604j:image このからの行程はひたすら、いくつかの川と丘陵をまたがります。ここで、同好のおじさんたちひとりひとりを追い抜いて歩いていきます。もちろん「こんにちわ」と挨拶くらいしかは交わしますが、それ以上の話をお互いにするわけではありません。こちらも黙々と歩けば相手も黙々と歩く。仲間と一緒にわいわいがやがやと歩くというよりは、生活のことや仕事のことやいろんな思いを、垂れ流すように考えながら歩いています。ほかの同好の士たちは何を考えながら歩いているのだろうか?などと想像します。
f:id:tochgin1029:20180429185627j:image 丘陵を抜けるころに、芦野宿が遠景で見えます。それなりに大きい集落なのに、外にはあまり人が歩いていないでがらんとしています。本日の行程はここまでです。

 後ろに同好の主があらわれ、ここで初めてまとまった話をします。聞くところ宇都宮から泊りがけの行程で、今日の当日のうちに白河まで向かうとのこと。日帰り軽装のわたしとは、出で立ちもだいぶ違います。同好の士とは言っても、それぞれ指向はだいぶ違うのですよね。
 さて、駅に戻ろうにもまったくバスが走っていません。しかたがなく、近くにある芦野温泉まで行き時間をつぶすことにしました。温泉から黒田原駅までは臨時のバスが通じているようです。またもやがらがらのバスを黒田原駅まで行けば、黒田原の集落にはあまり観光地然としたところがないのが好ましい場所です。それでも高原らしい湿気の少ないさっぱりとした雰囲気が、信州長野の冨士見のあたりに少しにているかなと思い出します。f:id:tochgin1029:20180429185730j:image

黒田原駅の駅舎は旧い洋風建築でした。ひと昔ならふつうにみられた様式の駅舎ですが、現役の駅舎も今では珍しくなりました。窓のステンドグラスが面白くてじっと眺めていました。
f:id:tochgin1029:20180429185655j:image ここまで来て、関東平野はかなり遠くなったことを実感する場所です。次の行程は白河まで、今回の歩きの終点です。

自由の当事者(4月14日 国会前へ)

2015年8月30日の国会前行動は、参加した人にとって、いまでも思い出されるくらいの出来事で、わたしもその時のことを記事にしました。

8月30日 国会前へ - tochgin1029のブログ
その時に繰り広げられた「安保法制反対」というスローガンは、打ち砕かれたけれど、それは、2011の後の街場での抗議行動のひとつの到達点だったと思います。
それから2年を過ぎ、現政権で繰り広げられる出鱈目さはさらに酷くなったと思い、街場にも波及しているように思えます。たとえば公的文書の改竄などという問題はお役所だけの問題でなく、一般企業のガバナンスの崩壊という意味で、波及しかねないよう思えてなりません。
そんな危機感を感じつつ、昨日の国会前抗議に出かけたのです。あの時とおなじように、東京駅で降りて、皇居のわきを通りながら桜田門をぬけて国会前に行く。そのルートも同じです。途中で緑に覆われた皇居の城壁を見るたびに思うのは、この国のたたづまいは、おのずと大陸とも半島とも異なっていて、自分の愛国心などひけらかすものでもないし、他人の愛国心を推し量り見比べるものではないと実感する場所です。
あの日は、東京駅から国会前まで自分と同じように歩いていく人たちがぽつぽつといたけれど、そのころと比べれば少ないなと思いながら向かいます。
 着いてみれば、すでに抗議行動は始まっていました。著名人がスピーチを続けています。そのひとつひとつはもっともなのですが違和感が残ります。そこで行なわれた、原発反対、安保法制反対、特定秘密保護法反対…といったコールも、それぞれは正しいのだけれど、「いまここで」自分が思っていることとどこか違うように思いました。2年前よりも状況は悪くなっていて個々の悪行は限りなく数え切れない。その根っこにある怒り、ここに参加している人たちがうすうす感じている思いとは違う。同じようなフラストレーションはこの場所にいるほかの人たちも抱えていたように思います。
f:id:tochgin1029:20180415122023j:image 3時半を過ぎて、若者たちによる主催にかわりました。「まえへ」というコールは、そんなフラストレーションを代弁したかのようなコールでした。ほどなくして警察が設置した柵を乗り越えて、皆は路上に出ていきます。「決壊」という現象です。そしてコールする言葉も「アベハヤメロ」とか「ソウジショク」とか「ウソヲツクナ」というシンプルなものに変わります。
「今、ここで」行うコールならば、こちらのほうがしっくりくるように思いました。理が通じるわけでない相手に対する言葉は、ごくごくシンプルでなければならないのです。
コールそのものは、一斉に「あべはやめろ」と合唱した2年前の方が凄かった。ただし、それでもいいなと思いました。この場所で重要なことは、一糸乱れずにコールをすることよりも、現在の政権を支持していないことを路上に立って示すこと。そのことを2年のあいだに会得したのです。
f:id:tochgin1029:20180415122152j:image 離脱しながらながめた路上の解放区の自由さは、お祭りなどの盛り上がりとも違うし、ほかのどの場所とも異なります。それは参加する人たちの良識で成り立っている空間なので、秩序もないカオスな空間でなく秩序はあります。でも、それは上のほうから押し付けるような、枠に押し込めようとする秩序ではありません。
 この国では、自由というのもなにか、管理者とか権力者からあたえられたもののように錯覚されています。「自由には責任を伴う」という言葉は、管理者や権力者から発せられる限りうさんくさいものですが、本当はその言葉はこちら側が発するべき言葉です。自分たち自身が自由の当事者であること。さらに言えば自分の人生の当事者であること。前方後方それぞれのエリアで集団が形作られ、それぞれのやり方でそれぞれがコールをしたりまとまったりするのを眺めながら、そんなことを考えていました。この路上の解放区のありようこそが、自分自身が自由の当事者である、そのことを理解できるいちばん近い空間なのだと思いました。

花がいっぱいの道(北関東の諸街道9)

f:id:tochgin1029:20180401113710j:image 2月に喜連川まで歩いてからというもの、花粉症もちの私にとって、3月はスギ花粉が怖い季節。歩くのを自重していたところなのですが、だんだんと暖かくなれば、虫が久しぶりに歩きたくなり、久しぶりの街道歩きです。なんだか地中にこもっていた虫たちが地上に這い出るようなものですね。
 宇都宮線に乗り氏家駅までむかいます。宇都宮駅で乗り換えると、車中にはこれからゴルフ場にむかうさまざななグループがいます。氏家駅では、こういったグループと一緒に混じって降りました。駅前には周辺のゴルフコースに向かう人たちの列が、さまざまなゴルフコースにむかう送迎バスに吸い込まれていきます。それぞれのグループを眺めていると、一緒に回る人と、その時に初めて会う人だったりして、ゴルフというのはどうやら社交の場なのですね。ゴルフをたしなまない私にとってよくわからない光景だなと思いました。
 氏家駅から喜連川までは、温泉をまわる無料の送迎バスに同乗して向かいます。バスといいながら実際には大型のワゴン車で、地元の年寄りばかりが乗っています。少々肩身がせまいなあと思いながら片隅にちょこんと乗りました。しばらく行くと、バスの目の前はなんと山火事。地元の消防車が駆けつけています。たしかにからっからに乾いた山は、とても燃えやすいだろうなと思います。
 喜連川は、町の中心とはいえ非常に静かなもので、佇むところもありません。かつて銀行だった建物を改装した観光休憩所でコーヒーを飲みます。この非常に重厚な建物は、311の時もびくともしなかったそうで、ひびのひとつも入っていません。かならずしも新しい建物ほど地震に強いのがあたりまえというわけではないのですね。
f:id:tochgin1029:20180401113739j:image ガイドの方から教えてもらい、近くのこじんまりとした御用堀を眺めます。この喜連川は小さいながらも城下町で、喜連川藩は、江戸時代にわずか1万石という全国最小の藩だったそうです。かつての町役場には大手門と呼ばれる門があって、門には足利家のマークが掲げられています。近くの寺には足利家の歴代の墓所があり、となりは足利銀行まで建っています。どうやら喜連川藩の成り立ちは足利家とかかわりがあるらしいのですが、それ以上のことはわかりません。あとで調べてみましょう。
f:id:tochgin1029:20180401113808j:image 喜連川からの道は、バイパスではないのですが、自動車が行きかう県道になっています。ここでは沿道に咲いている花をせっせと眺めるのが今日の楽しみです。とかくこの季節は、花といえば桜ばかりになってしまいますが、まわりをきょろきょろと眺めると、赤・紫・黄・橙と、いろいろな色の花を眺めることができます。f:id:tochgin1029:20180401113953j:imagef:id:tochgin1029:20180401114009j:image

f:id:tochgin1029:20180401113845j:imagef:id:tochgin1029:20180401113936j:imageこの時期は、まだ
屋外で農作業をする季節ではないけれど、農家のひとが、せっせと道具を手入れしているとか、これからの農作業の準備を行っています。
f:id:tochgin1029:20180401114029j:image さくら市から大田原市に入り、佐久山交差点から細道を降りると佐久山宿に到着します。それまでは蔵の建物といえば大谷石の建物ばかりでしたが、久しぶりにここでは土壁が目に入るようになりました。どうやら喜連川とは違う生活圏にはいったことがわかります。平成の大合併まで、喜連川塩谷郡に属していました。そして大田原市のまわりは那須郡に属していました。白沢から氏家に行くまで、巨大な鬼怒川を渡るのですから、塩谷郡=鬼怒川水系を中心とする地域と把握することができそうです。一方で、佐久山宿をこえて直ぐにわたる箒川は、下流那珂川に注ぎます。那須郡那珂川水系を中心とした地域とみなすこともできます。このあたり鉄道や高速道路といった、近代の基幹交通だけを前提にしていると決してわからないことだと思います。f:id:tochgin1029:20180401114100j:image箒川をわたれば、かつての那須野ケ原を想像させるような景色が広がります。こどもの頃、学校では栃木の郷土史として那須野が原の開拓を学んだことがあります。そこで辛苦に耐えて開拓をする農民の姿を想像してしまうのですが、実際に目にした現代の那須野が原は、敷地の広い農家が点々と並ぶ、貧しいというよりもむしろ豊かな土地のように見えます。f:id:tochgin1029:20180401114206j:imagef:id:tochgin1029:20180401114139j:image 開拓地らしく、あまり名所や旧跡のたぐいは、このあたりではすくないのですが、途中の神社には、立派な石碑がありとても感心したのですが、行き会った旧跡めぐりの夫婦は、これを見てもあまりピンとしていない様子でした。
f:id:tochgin1029:20180401114121j:image 大田原の市街地に入ります。染物屋だったり左官屋だったり、金物屋だったり、旧い店がいろいろと残っていることから、ここが旧い町であることが分かります。街の入り口に建つお寺には、お堂に立派な彫刻がかかげられています。鹿沼を訪れたときに、かつて日光東照宮の造営にたずさわった彫師たちが、その後に近隣の各地に散らばったことを聞いたのですが、その彫師のネットワークが大田原にも伝わって根付いたことが、わかります。この町の中心となる交差点には、金燈籠とよばれるモニュメントがあります。かつて宿場が栄えたころ、日々かかさずにこの燈籠が町を照らしていたそうです。しかし、そんな燈籠が戦争に金属として供出され失われてしまいます。戦後になり、この町の有志の努力で復活したものだそうです。旧道歩きをしていて気が付くのは、こういった道端でみかける庶民の生活と知恵の集積、けっしてテレビや雑誌、インターネットに現れないような情報が、とても巨大で世代を超えて延々と伝えられていることです。例えば松尾芭蕉の「奥の細道」を見ても、各地に散らばった弟子や仲間のネットワークこそが、芭蕉たちが旅を続けられる基盤になっていることが分かります。それは、メディアで示されるような表面的な情報とは異なるもので、おそれ慄くほどに巨大なものだと思っています。
f:id:tochgin1029:20180401114226j:image これから栃木の観光キャンペーンが始まるらしく、ながらく芭蕉が滞在した黒羽という町がCMでナレーションされています。黒羽は大田原からとても近く訪れてみたいところなのですが、今日はここまでの行程にします。次回の歩きはきっと新緑を眺めながらの旅になるでしょう。

鬼怒川を渡る(北関東の諸街道8)

f:id:tochgin1029:20180212205208j:image前回の歩きでは日光から宇都宮まで到達しました。かつての例幣使はここから江戸に向かったのですが、ここから日本橋までの道のりは単調な道のように想像ができます。まっすぐ日本橋には向かわずに、一旦は白河を目指す奥州街道の道を選びました。
 前回の宇都宮の街は暗やみでわからなかったけれども、今回は、ようやく伝馬町の本陣跡の看板の向かいに、日光街道奥州街道の追分を見つけることができました。けれど宇都宮の街中では旧道の案内は素っ気ないものです。あらかじめ調べておかなければ旧道筋を忠実に歩くのは困難なようですね。
伝馬町からはオリオン通り馬場町とか、旧くからの宇都宮の繁華街をたどります。ただし、朝の時間では飲食店はまだ準備中ばかり。眺めるように店の脇を通り過ぎます。
f:id:tochgin1029:20180212204707j:image駅前の大通りを離れるとまもなく田川を渡り、幹線道路にぶつかります。広い幹線道路を自動車が通り抜けていくその片隅に古い文化財の建物が残っています。
旧篠原家住宅とよばれるその建物は、重厚な作りで中に入ります。案内のおじさんによれば、この建物は敗戦の1か月前に起きた宇都宮空襲を奇跡的に逃れた建物のひとつだそうです。危うく解体されそうなところを市が購入し開放したそうです。建物の中心には太い柱が天井まで伸びています。この建物は3.11の大震災でもびくともしなかったほど堅牢だったとのこと。そんな空襲を受けた宇都宮ですから街中にはあまり旧い建物は残っていません。市街地を過ぎると自動車が切れ目なしに通る殺風景なバイパス道を進みます。
f:id:tochgin1029:20180212204746j:imageようやく市街地を30分ほど歩いていくと住宅がすくなくなり、すき間から原っぱや林が見えるようになってきます。途中にはまたしても杉の並木!日光のうんざりするような杉並木を歩いてきた身には「やめてくれ!」とでも叫びたくなるほど拒否反応が起きてしまいます。
さらに進めばようやく車も少なくなりバイパス道とも離れていきます。そして、落ち着いた道中になるとまもなく坂を降りていきます。それまで台地の上を歩いていたことが分かります。坂道を降りたあたりが白沢宿です。
f:id:tochgin1029:20180212204822j:image旧い建物こそ残っていないのですが、この白沢宿のあたりの集落は、街道わきに水が流れ水車が回っています。それぞれの家にもかつての屋号が掲げられています。このような旧宿場町のたたずまいそのものは、それまで例幣使街道にも日光街道にもなくて、中山道の宿場町にみられた光景です。懐かしくなりました。そして宿場の奥には白髭神社という神社が鎮座しています。長い階段を上ると、神社の境内からは、鬼怒川の流れは見えなくても河原が広く伸びているさまを眺めることができます。それまで歩いてきた台地から、白沢宿に降りたときに、あたりの空気が一変したように感じられたのは、鬼怒川の河原から吹いてくる風のせいだったようです。そして鬼怒川の河原に向かって進んでいくと、左手には巨大な那須岳が見えます。台地から河原へと下りて行き、景色が一変する様は、そうとう劇的だと思います。
f:id:tochgin1029:20180212204847j:image 鬼怒川の河原から阿久津大橋を抜けて氏家の街を目指します。ここでも、あたりはまったくの車社会。旧道はバイパス道にさえぎられる始末。バイパス道を危険と知りつつ横断する年寄りの姿をいくつも見かけました。あまりにも道路が自動車の通行に合わせたつくりになってしまっています。それでもバイパス道を離れれば、沿道には古い社や地蔵などが残ります。
f:id:tochgin1029:20180212204913j:image氏家は、今となっては骨董品のような商店の建物ががたくさん街道沿いに残る旧い街です。いかにも「ザ・昭和」といった趣です。この日は雛まつりにちなんだイベントが行われていて公開されている旧家をのぞいてみました。ここには大谷石の建物はなくて、望楼の造形にはどこか欧風の趣があります。さほど保存状態は良くないようですが。
ここから喜連川までの道も、交差するバイパス道には、やはり自動車の長大な列が伸びています。次第に目の前に広がる丘陵の帯が近づいていきます。持参した2万5千分の一地形図では、このあたりの地形は、一定の間隔をおいて平行に流れている川の間を、これまた丘陵が平行に伸びています。向かうのはそういった丘陵の一つです。
f:id:tochgin1029:20180212204937j:image 丘陵をのぼり切ったところに、思わず奥州古道という看板を見つけました。これまでの例幣使街道にも日光街道にもなかった光景です。北関東の街道を歩いて、やっと「らしい」風景に出会ったようです。
f:id:tochgin1029:20180212205000j:image丘陵を降りてほどなく喜連川の街にたどり着きます。喜連川は温泉の街として少しは名が知れているはずですが、この日は市街地に人影がまったくありませんでした。バスの時刻を眺めても休日はどうやら非常に本数が少なくなるようです。楽しみにしていたのですが温泉につかるのは無理なようで、そのまま氏家まで戻ります。
 今日の行程はここまでです。日光街道や例幣使街道には、杉並木に象徴されるような徳川の権威を強調する側面が強くて、どこか堅苦しく面白みのない道であったのも事実です。けれど奥州街道の道はそれとは違っていました。
鉄道であれば関東平野を離れつつあるのを実感するのは、JR在来線で宇都宮駅を抜け鬼怒川を鉄橋で渡るあたりです。不思議なことに歩きの旅でも同じようです。宇都宮の台地を抜け鬼怒川の近く白沢宿に下りていくあたり、あたりの空気が一変して劇的に風景が変わるところはとても心に残っています。

戸惑いの赤(大田記念美術館「明治維新150年幕末・明治―激動する浮世絵」展)

原宿にある大田記念美術館では現在、幕末から明治にかけての浮世絵を展示していて見に行きました。北斎や広重や国芳といった大家の作品はないけれど、幕末と明治初期に描かれた作品群を眺めていると「ご一新」のかけ声と共にやってきた明治の時代を、絵師たちや町人たちがどのように捉え、どのように受容していったのかがわかります。
 明治初期の時代の作品を眺めると、いたるところに赤の色が多用されています。火事でも夕日の空を描いているわけでもないのに、絵の背景が赤く塗り籠めていたりとか。解説によれば、そういった作品の評価は現在では低いものということですが、反面でこの赤色こそ「ご一新」をうけとめた庶民の気分をもっとも象徴しているのではないかな?と思いました。

 はて、それ以前の江戸末期にそのような象徴する色はあったかな?と思い返します。そういえば、広重ブルーと言われる「ベロ青」がありました。それ以外でも、そういえば背景は青系の色が多かったかな?と思い出しました。

 ほんとうのところ、幕府の統制がどのくらい厳しいものだったか?それぞれの地方で異なったでしょうが、江戸の町に限れば、幕府の統制はかなり行き届いていたはずで、その存在も巨大なもの。そんな巨大な幕府が突然倒れてやってきた支配者たちが、なにを始めるのかもわからない状態。町人たちにとって世間がどう変わるかなんてわからないし、不安だらけだったでしょう。「ご一新」の号令は、どうやら「いままでと異なる様式の絵を描かなくてはならない」という具合に絵師たちには受け止められたのでしょう。それが「赤」という色で絵を塗りつぶした理由のひとつなんだと思います。明治初期の浮世絵に特徴のある「赤」をそんな不安の色のように感じました。
 井上安治や小林清親の光線画が登場するのは、その新たな支配の姿がだんだんと見えてきて生まれたものです。徳川の時代に、江戸の絵師たちに自分の描きたいように絵を描く自由はなくて、自分たちの師匠や流派に沿った様式で絵を描くしかありませんでした。新しい時代にはそうではなくて、流派とか形式ばったものではない「自分が描きたいように絵を描く自由」があることを、町人たちが会得していったから生まれた表現なのだと思います。おっかなびっくりでも風刺画といった表現が生まれてくるのも、その明治の世間が少し落ち着いてからのことです。

長州のように明治維新の勝利を叫びたい側と、会津のように明治維新を辛苦の時代の始まりととらえる側がいます。こと、江戸の町人たちにとっては、それまで偉そうにしてたサムライたちが退場し、自分たちを縛るものたちが居なくなったことの開放感が、明治のある時期の絵画から感じることができるのです。
 ところで、光線画に特徴のある絵の全体を覆う暗い闇を眺めていると、現在の明るい夜とはだいぶ様相が異なります。その昔に夜というものは、こんなに暗いものだったかと感慨深く思いました。

 

自分の心と身体2(再読「宗教なんか怖くない」橋本治)

 

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

 

 


 橋本治さんの「宗教なんか怖くない」は、オウム真理教サリン事件について書かれたものです。かつて初版が発売されたころはオウム真理教サリン事件が毎日のように報道されていた頃です。まだバブル経済の破たんは行動様式や社会認識に影響する前のことで、東西冷戦も終わって豊かさを実現したこの社会に「否」と叫ぶ人たちが存在する。このことが、1995年の当時に、サリン事件で一番衝撃をうけた事でした。もちろん、2018年のいま、サリン事件についての本を読むと、この事件がその後の平成史の展開のどこかを示唆しているのがわかります。
 本の随所に「サリン事件は子供の犯罪だ」とか「自分の頭で考えられない人たちが…」といった言い切りが差し込まれています。橋本さんは、ある時実行犯の林泰夫がヨガをやっている画像をながめ、彼のヨガのあまりのぶざまさを見ながら、そのぶざまさを「自分の身体を自分のものにしていない」と評しました。彼(林泰夫)は自分の身体も心も「自分のもの」として把握できていなくて、それが、ぎこちないヨガの動きに象徴的に表れているのです。

 オウム信者のなかには、彼のような優秀な学歴のひとたちが多く含まれていました。当時は、優秀なエリートがなぜ?と問われていました。法体系や経済活動といった現代社会のしくみは自立した「自分の頭で考え判断する」個人の存在を前提にしている反面で、そうした個人は必然的に孤独と向き合わざるをえない。そのあたりが腑に落ちないまま「自分探し」に溺れ、オウム信者でなくとも多くの人たちが新興宗教自己啓発セミナーに沈んでいきました。誰かが作り出した(自分自身のものでない)既製品に「自分の心と身体」をむりやり合わせて身を滅ぼす。彼(林泰夫)の「自分探し」は、ただのヨガ講師(麻原)の繰り言を「自分の心と身体」として身にまとおうとした行為でした。
 事件が露見した後に彼らオウム信者たちの行った行動は不可解なもので、秘め事なら秘め事らしく沈黙するはずが、わざわざマスコミ向けに会見を開き「自分たちはやっていない」と述べました。国家警察は敵とみなしながら、宗教法人の取消や破防法の適用は宗教弾圧と述べました。前者と後者は明らかに矛盾するはずですが、本人自身それを矛盾と感じないとすればその理由はただ一点、自分の正しさを無条件に疑っていない場合だと橋本さんは述べています。彼らオウム信者たちの行動は、いわゆる世間から注目してほしい愉快犯の行動原理で、大人たちにかまってほしい子供たちのふるまいに近しいと。
 オウム信者たちが、1995年の当時に世間をどう眺めていたか?ということは、2017年のいまのほうがよく見えるかもしれません。当時も身近な友人がぽつぽつと、新興宗教自己啓発セミナーにはまっていたのを覚えています。1995年ではオウムの信者たちの子供っぽいありようは異端児でしたが、当時のオウム信者のような子供っぽい矛盾した叫びは、いまではSNSによって可視化され、ごく普通に日常生活を送っている一般人のなかに内包されていることがわかります。その叫びのなかには、疎外感を感じながら日常生活に苦しんでいる人たちの孤独と不安、すなわち「淋しさ」が隠れています。

だから、フェイクニュース陰謀史観も排外主義もヘイトスピーチも韓国叩きも朝日新聞も彼らの疎外感を一時的に埋め合わせるものでしかなく実体が無い。産経新聞で展開されている「歴史戦」と称する運動がことごとく敗北しているのも当たり前なことで、彼らが敵とみなすものが観念にしか過ぎなくて実体が無いものだからでしょう。
 現在の日本で残っている宗教の多くは鎌倉時代に勃興した宗教で、国を守るためのそれまでの仏教でなく、「個人の救済」というものを社会が問題とするような社会になって生まれた宗教です。けれど室町時代の後の社会は、個人よりさまざまな利益集団の論理が優先される集団主義に変わります。織田信長一向宗の争いは宗教勢力と新興の世俗権力との争いで、負けた宗教勢力が世俗権力に管理される側に立ちます。そのあと「個人の救済」という歴史の問いは社会の歴史からすっぽりと抜け落ちました。庶民に信仰されている仏教の多くが、いまだ鎌倉仏教を源流としたものばかりなのは、そうした「個人の救済」という側面の歴史上の宿題に、鎌倉時代のあと社会の側がまったく解答を示していない事を明かしているかもしれません。

 「個人の救済」という問いは、ムラ社会や企業社会といった集団に帰属することで覆いかくされても、近代社会では空虚はむき出しになります。さまざまな新興宗教が勃興したのも、なにによって空虚を埋め合わせるのかという心理の表れで、オウム真理教もそんな新興宗教のひとつでしかないということです。1995年のサリン事件を過ぎて、橋本治さんが「宗教なんか怖くない」と書いたのはそういう意味なんだと思います。