驚くことばかり(映画「ワンダーランド北朝鮮」)

映画『ワンダーランド北朝鮮』 | 北朝鮮の”普通”の暮らしとその人々。これはプロパガンダか?それとも現実か?

 平昌オリンピックの頃までは、いつか東アジアで戦争が始まるとかミサイルが飛んできてもおかしくないかといった国際情勢だったと思います。それが、今まで姿を見せることもなかった北朝鮮の権力者が姿を見せるやいなや、韓国、中国、ついに米国までも矢継ぎ早に首脳会談を重ねることに驚きました。この光景を去年の今ごろ誰が想像できたでしょうか?

 いつからか北朝鮮といえば、あの仰々しい国営放送のアナウンサーやミサイルの映像やマスゲームのことばかりが報道され、市井の人たちがどのような日常を暮らしているのか?ということは取り上げられません。緊張緩和の動きが日本では当惑を含んで受け取られ、置いてきぼりをくらっているのは、社会が、あまりにも片寄った情報ばかりに浸っていたことと関係があるでしょう。

 「ワンダーランド北朝鮮」という映画がただいま上映されています。この映画には、指導者や権力者の姿は現れないしミサイルもマスゲームも出てきません。映画に登場したのは、プールの運営会社に勤める男性とその家族、工場に勤める女性を描く美術家、元山の縫製工場に勤める若い女性、農村のトラクター運転手とその家族たち、といったごくごく一般の人たちです。映画を見終わって思ったのは、片寄った国内報道から、この国になにか収容所じみた印象を持っていたのとは異なる姿でした。
 もちろん、彼らの行動のはしばしには権力者をたたえる言葉が入ります。職場にはかれらの銅像があり、家庭の壁には金日成金正日の額がかざられています。ただし、これが日本に住む私にとって異世界か?というと、それほどでもないことに驚いたのです。たとえば、職場に掲げられた銅像は、そこここにある、政治家や地元の有志の胸像、二宮尊徳銅像のようなものだと見れなくもないし、職場にでかでか掲げられる目標やスローガンの類は、日本の工場といった職場でもそんな珍しくもない。家庭に掲げられる金日成金正日の額というのも、昭和の古い家庭であたりまえのように見かけた天皇陛下の額を想像すれば、そう違和感はない。そして映像に現れる人たち。

 登場する北朝鮮の一般人たちは、独裁国家という姿から想像されるように権力に近く目下とみれば横柄な態度をとるようなこともなく、むしろ紳士的です。息子に結婚してほしいと語る祖母や、もっと勉強して平壌に行きたいという夢を語る、元山の縫製工場に強める女性からは、夢も希望もなく刹那的に生きるような独裁国家の印象がなくて、非常に真面目に人々が生きていることに驚いたのでした。あらためて国内で流付される報道が、わかりやすく独裁国家の一面を誇張して伝えているか?思い知りました。
 もちろん、北朝鮮の社会に軍の存在が非常に大きいということも映像はあらわしています。16-17で、ほとんどの子供たちは軍に服役するらしいこと。軍は戦闘だけをするのではなくて、土木工事のようなインフラ整備まで行っているらしい。先軍政治と呼ばれるような社会のからくりにこんな一面があるみたいです。社会の中で軍人は尊敬されているようで、戦前の日本で軍人たちが尊敬されたのもこんな感じだったのかと思わせます。
 農村の映像には、高度経済成長前の日本の農村風景を連想させるような懐かしい景色が映っています。ぷらぷらした老人たちが農地のわきにたむろしています。映像では、軍を除隊したトラクター運転手とその家族が映されています。彼らの暮らしは、日本の農村風景からくらべればいかにも貧しい。娯楽といえば村の劇場みたいな場所でされる歌の発表会。もちろん歌の内容は、いかにも全体主義国家のそれなのですが…
 それにしても、映像にあらわれる北朝鮮の人たちは素朴でした。自分や家族の夢や希望を北朝鮮の人が語る。そもそも北朝鮮の人に「個人」という意識があったことにも驚いています。たぶん、国際関係の改善が進めば、この閉じられた国にはさまざまな外国資本がやってくることでしょう。この10年くらい「あと〇〇年で崩壊」といった言説ばかりが国内では伝えられていましたが、そうなったとしても、たぶんこの社会は生き延びると思います。もちろん、そのときに映像で見たような人々の素朴さは失われるのだろう、とも思います。
 
えいぞう

古の歴史を感じない道(北関東の諸街道12)

 今回の街道歩きは、例幣使街道から日光をまわって奥州街道を白河まで北上、北関東の街道をひとまとめに通ってきました。残ったのは宇都宮から日本橋までの道のりです。
f:id:tochgin1029:20180627232437j:image 今回の歩きでは、宇都宮の街が結節点となりました。まずは宇都宮駅へ、さらに宇都宮駅から伝馬町に向かうバスに乗ります。宇都宮市内交通の主役は路線バスで、郊外にそれぞれ向かうバスが途切れることがありません。ただしだいたいの車内はガラガラなのが寂しい光景です。空は梅雨空で、すっきりしません。
 宇都宮では、総じて旧街道跡を示す看板は淡々としたものです。日光街道奥州街道の追分もいたって簡素なものです。なので、道路も整備されてはいますが、それは市内の主要道として整備されているにすぎません。まわりものっぺりとした何の変哲もない住宅地です。のっぺりとした住宅地とのっぺりとした道路に街道歩きの楽しさはあまり感じません。途中に蒲生君平という儒学者?の石碑があって、それだけが、わずかに旧街道の痕跡を残しています。東武宇都宮線JR日光線をくぐったり跨いだりし、国道4号線と合流します。f:id:tochgin1029:20180627232528j:imageその交差点の一角に不動堂が建っていて、たぶんこれが宇都宮の街との境界のようです。国道4号線沿いに進めば、あたりは車の販売店が立ち並ぶ風情のない道路が続きます。どうやらこの道路「東京街道」と呼ぶらしく道端に標識があります。JR宇都宮線の線路が次第に近くに寄ってきますます。かつては特急列車が華々しく通っていただろう線路も、現在の主役は通勤電車と貨物列車。線路を眺めていても変哲のない電車ばかりが通り過ぎていきます。
f:id:tochgin1029:20180627232601j:image 変哲のない道のさなかに、雀宮宿があるはずなのですが、どこから宿場でどこが本陣なのか?さっぱりわかりません。沿道の雀宮神社だけがこの地の由来を示す唯一の建物です。その雀宮神社ですが、延喜によれば、上野下野の毛の氏、御諸別王にゆかりのある神社のようです。藤原の実方の妻の○姫がたどり着けずに生き別れた場所だそうです。旅の途中で倒れた旅人をともらう伝え話がここでも見られます。今とは違って遠くに生きる人と人との距離感はとても遠かったのだと思います。いったん別れた人とは、こんどはいつ会えるかもわからない。その心細さを現代の人はたぶん想像できないだろうと、思いめぐらせます。
 雀宮から石橋宿までの道も、あいかわらずのたいくつな国道歩きです。この国道歩きにもひとつだけ良いところがあって、昼飯をとる場所に困らないということでしょうか。沿道には有名無名の飲食店がたくさん立ち並んでいます。ここで昼飯。
f:id:tochgin1029:20180627232636j:image石橋の街は、くたびれた建物が残りますが、それだけ旧い宿場町の雰囲気が雀宮よりは残っているでしょうか。駅前の通りには「グリム通り」と名付けられています。近くには孝謙天皇神社という名前の神社があります。そういえば、奈良時代の末期に孝謙天皇をそそのかし天皇の位を簒奪したとされた、道鏡が流されたのは、下野の国分寺でした。ですから、このような孝謙天皇にちなんだ神社が建つのもなるほどなと思います(あとで調べたところ、流された道鏡を追いかけるように、孝謙天皇がこの地をおとづれたのだという伝説もあるようです)ただし、街道からは少し離れているようで行くのは断念します。町外れには、愛宕神社という神社がありました。
f:id:tochgin1029:20180627232745j:image 石橋から小金井まで、国道沿いは次第に殺風景な風景になってきます。雑木林と建物が交互に現れます。ここで、ようやく国道と離れ脇道へと入ります。道ばたには、かんぴょうを取り出したあとの夕顔の実が転がっています。かつては国分寺町とよばれた町で、その名の通りかつての下野国分寺の存在した地名です。しかし、地形図を眺めれば、この奥州街道が通るあたりは、国分寺があった場所とは、川ひとつ隔てた場所なのです、例幣使街道なら鹿沼から日光まで、日光街道なら日光から宇都宮まで、どこかこのあたりの街道には、この場所に存在しただろう土地の神を蹴散らして、徳川いろに塗りかためたような共通する印象を感じています。街道を整備した徳川の権力は、おそらく国分寺を整備した奈良の王朝にたいしては、自分たちが継承する武家権力が倒した旧権力として、古の王朝をながめているのでしょう。国分寺と街道とが離れていることの距離感をそのようにも読み取れます。かつての王朝が治めた天下と自分たちが治めている天下は違う世界なのです。したがって、小金井の宿場に入っても旧い町並みが残るわけでなし、少しだけ残っている旧い建物も、まもなくとり壊すのだろうか?網で囲まれた状態です。住宅街にある一里塚を通りながら、先に進みます。
f:id:tochgin1029:20180627232955j:image 小金井宿から新田宿まではあっというまにたどり着きます。かろうじで簡単な看板が掲げられていて、そのことだけが宿場だと示しています。奥には広葉樹の林が広がっていて、その手前には不動が建っています。新田宿をすぎれば、あっという間に小山市内に入ります。少し歩いたあと、国道から離れ新幹線の線路に近づきます。この小山には新幹線の車両基地があって、車両が停まっていないか?と探してみます。1編成だけ停まっていて、そばから覗いてみるのですが、金網が高くそびえていて、間近にながめることはできませんでした。残念。
f:id:tochgin1029:20180627233043j:image 新幹線沿いから国道に戻り、そのまま小山の市街地に入ります。何の変哲もない道は、結局のところ小山宿まで続いています。旧宿場がどこなのか?というのもよくわからずじまいです。あまりにも東京から至近距離であるがため、旧街道の風情を楽しむような道どりではありませんでした。かつて下野国分寺が建っていたこのあたりは、ほんとうは豊かな歴史をかかえた土地のはずだと思いますが、後世の権力者たちや産業資本たちは、歴史を切断していきます。このさきの行程は、古河や栗橋といった大河川が密集するあたりを進んでいきます。次回は面白い風景を楽しめるでしょうか?

飼いならしは愛?その2(安冨歩「誰が星の王子さまを殺したのか?」)

誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠 前回は、サンテグジュペリの「星の王子さま」を読みました。その原典を読んだ後で、今回は、安冨歩さんの「誰が星の王子さまを殺したか?」という本を読んでいます。「星の王子さま」をハラスメントの小説として捉えなおしたこの本は、 他の解説本のようにバラと王子の関係を理想の愛だと称賛するような本ではありません。もちろん、サンテグジュベリ自身がハラスメントの小説として意図して書いたわけではなく、作者の意図を超えたところでハラスメントを表す小説として成立しているのだと、安冨さんは断りをいれています。
 この物語中でのハラスメントのひとつは、バラが王子に行うさまざまな要求のことで、バラが虐待者で王子は被害者の関係です。バラの種に丁寧に水をやっていた王子に、蕾を開いて現れたバラは、王子が「美しい」と感嘆をあげたとたん「でしょう?」と告げながら、この星の環境の悪さに文句をいい、様々な要求を言い始めます。心を許した相手に対して攻撃を開始する「ハラスメント」の定石のふるまいだと。バラの言動はところどころ矛盾が存在しているのですが、バラはきまって咳払いをしてごまかします。
 この時点では、実は王子さまはバラに対し「うんざりする」という、まっとうな感情を持っていました。しかし、バラは王子の心にしだいに罪悪感を植え付けていき、バラの要求をかなえないのは王子が悪いのだとまで思い込ませます。バラにも良心の呵責というものが存在すると信じている王子ですが、ハラスメントの虐待者には、残念ながら良心というものが存在しないのも定石です。バラとコミュニケートするほど王子の心に傷がつくのです。王子はハラスメントをハラスメントとして認識することができなくなっていきます。
 そんなふるまいを耐えきれなくなり、王子が星の外に旅立とうとするとき、バラは「私がばかだった」としおらしく反省するふりをします。王子はそのことに混乱します。ここで虐待者による被害者の精神的な支配が完成します。星を離れても王子の心に罪悪感という傷が残り、王子の旅は憂鬱なものになります。
 地球には、王子が育てていたバラと同じ花がたくさんありました。王子の星では、バラは自分は唯一のバラだと言いましたが、これが嘘であったと王子は知りますが、王子は怒りを起こすわけでもなくただ落ち込むばかり。植え付けられた罪悪感のせいです。そのあとでキツネと遭遇します。
 この物語でのもうひとつのハラスメントは、王子とキツネのやりとりです。バラと王子の関係を、キツネは飼いならし」と形容しますが、すぐ次の言葉では「飼いならし」を「絆を創る」という別の言葉で言いなおします。「飼いならし」では、支配する→支配されるといった一方通行の関係しか想起できませんが、キツネは「絆を作る」という双方向の関係に言い換えています。これは意味のすり替えです。
 その後に、キツネは王子に「わたしを飼いならして」と頼みます。「飼いならす」ほかに、世間のコミュニケーションが存在しないかのような言葉です。本当は、まったくそんなことはないですよね。ここにもすり替えがあります。

 また、王子がバラを世話した時間と手間こそが、このバラを特別なバラにし、地球に咲いているたくさんのバラとは違うのだと。「王子はバラに責任がある」と言い切ります。「飼いならす」という支配と被支配の関係を対等の関係であるかのようにすり替え、被害者の罪悪感につけこむ、ハラスメントの手口です。
 バラが王子の星にやってきたことも、本当はただの偶然で必然などそこに存在しません。虐待者にとって被害者は別に誰でもよいわけです。たまたま都合のいい場所に都合のいい相手として王子が居ただけのことで、それがなぜか崇高な愛にすり替わる。ここにもすり替えが有ります。

 気が付けば、巷の恋愛小説や流行歌の歌詞だって、この必然と偶然との誤解を受けた表現はありふれているし蔓延しています。「星の王子さま」の邦訳でさえ、訳者自身もこの「飼いならし」を肯定的に捉えていて、バラと王子の関係を素晴らしい愛の形と解釈することにも繋がっています。

星の王子さま」に関わる言説に、こんなにも意味のすり替えが存在している。そのすり替えを気づかせないものが、この社会全体のなかに潜んでいる。この社会での人間関係に関する悩みごとの多くは、コミュニケーションにあらざるもの(ゴマすり、おべっか、マウンティング、イジりetc)を、本来のコミュニケーションであるかのように取り違えていることと関係があるのでは?そのことに驚愕したのです。

飼いならしは愛?その1(サンテグジュペリ「星の王子さま」)

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)ほんの数ヶ月まえでは、国内でもっとも報道されたのは有名人のセクハラ騒ぎでしょう。けっして、そんな騒ぎが自分に無関係とは思えないし、「社会人の教養」みたいなものとしても知っておいたほうがよいだろう。そんな軽い気持ちから、集英社新書「部長、その恋愛はセクハラです!」を読みました。そこには(特に職場での)誤解に基づいた男女の考え方の違いが描かれていたのでした。
 女性が示す表面的な親身さとはうらはらに、本音では真逆な気持ちを持っていることもある。だいたいの男性は、そのことに鈍感でかつ理解できないこと、さらには勘違いすること。もっとも腑に落ちたところで、諍いの源はそこにあるようです。女性たちが本音でかかえたストレスをそれとは見せないよう、表面上の親身さを演出できること。そのすごいギャップは、男性のわたしにはとても真似などできないし読み取れもできないだろう。上司や部下といった関係がある職場で「女性ははっきりとNoは言わないものだ」なんてところ、教養や知識として外形的にでも取り入れない限りは、男性にわからないだろうとも思いました。自分だって、読みながら胸に手を当て、昔のあれは、実はハラスメントではなかったか?苦い思い出が蘇ることもありました。気を付けなければと素直に思います。
 その一方では、呑み込めないところもあります。例えば、はっきりとNoを言わない振る舞いを意図的に行った結果、異性を振り回している女性たちを、かつて「悪女」とか「小悪魔」と呼んでいました。こういった振る舞いは、悪意をもって利用されば、それは立派なハラスメントになるだろうなとも思うのです。

星の王子さま (中公文庫)星の王子さま」という、サンテグジュペリの書いたよく知られた物語があります。この「星の王子さま」をハラスメントという切り口で解釈した本を、安冨歩さんが書いています。原典の「星の王子さま」を読んでも、非常に示唆に富んだ物語でした。以下のようなあらすじです。

……
 小さな星でひとりで暮らす王子は、放置すれば星を覆ってしまうパオパブの木を間引いたり火山のすすを払ったりして毎日を暮らしています。あるとき他所からやってきたバラの種を見つけ、いつもなら間引くはずの苗を抜かずに水をやり、花が開くのを待ちつづけます。ついに咲いたバラの花に、王子は「美しい」と感嘆しますが、バラは咲くやいなや「水をちょうだい」とか「衝立をつけろ」など、あらゆる要求を突き付け、せっせと要求にこたえるうち、王子の生活は憂鬱になります。いよいよ耐えられなくなり、王子は星から出ていくことにし、バラに別れを告げます。罵倒されると思った王子は、真逆な「わたしがばかだった」との言葉を聞いて混乱します。王子の心に罪悪感という傷を抱えながら旅立ちます。ずっと罪悪感を抱えながら、王子は憂鬱な旅を続けることになるのです。
 王様、実業家、酒のみなどなど。いろいろな人間や動物たちと出会いますが、彼らの多くを「本当はなにがしたいのか自分でわかっていない」と王子は評します。地球ではバラと寸分たがわぬ花が5000本も咲いていました。バラの花は、自分の星にひとつしか存在しないと思っていた彼は絶望します。 
 その時に王子はキツネと出会います。キツネは、バラと王子との関係はバラが王子を飼いならす関係で、飼いならすことでバラと王子は特別な関係になる。地球上にいくら5000本のバラがあっても、そのバラと王子に関係はない。時間と手間をかけて世話した1本のバラだけが王子にとって大切な花なのだと。人と人とが関係を持つことの素晴らしさを「ほんとうに大切なことは目には見えない」という有名な言葉とともに告げます。王子は自分の星に帰りたいと願い、足を蛇にかませて自殺をし、星に帰っていきます。

……
 数ある「星の王子さま」に関しての本には、バラと王子さまの関係を理想の愛の形として絶賛する解説書もあるようです。また、女性作家が描く恋愛小説には、ときどきナイーブで思い悩む男性たちが美しく描かれる場面があり、それは「星の王子さま」で思い悩む王子のようです。

 なぜ、キツネはバラと王子との関係を「飼いならし」と形容したのでしょう。支配と服従という意味を感じさせる言葉だから引っかかるのです。バラと王子の関係を理想の愛だとするように、自分の「王子さま」を所有して飼いならすことって愛なのでしょうか?ハラスメントと恋愛が違うのだから、飼いならしと恋愛だって違うのではないか?という疑問が頭をもたげてきます。
 この疑問「誰が星の王子様を殺したのか?」を読まなければ済まなさそうです。このことは次回の記事にします。

戦後社会の魔物(橋本治「草薙の剣」)

草薙の剣 戦後の日本に進駐した米軍に対して、支配層の願いはただひとつ「國體護持」が条件でした。だから戦後社会にも國體というものは存在するはずです。無実の市民が警察に捕まるようなわかりやすい抑圧ではなくて、お茶の間のテレビから親兄弟や友人の口から、個人が自分らしく生きることを否定するメッセージがさまざまに発せられて、そんな刷り込みが個人をしばりつけているよう。そんな恐ろしさを戦後の國體に感じるのです。橋本治さんの「草薙の剣」という小説は、10代から60代までのそれぞれの男性と親兄弟の人生がそんな刷り込みによって翻弄される物語です.
 もっとも年長の主人公は62歳の昭生です。彼の生家は水道工事店。従軍世代の彼の父は、復員して故郷で水道工事店を営みます。都会にあこがれ田舎を出ていった兄を追いかけるように、昭生も都会を目指します。都会に出て自由な生活を送れるとばかりに。しかし、彼の都会での暮らしが充実したものだったかはわからなくて、やがて親の介護で田舎に戻った昭生は、なんで都会に出ていったのだろう?意味がなかったのではないかと自問します。
 2番目は52歳の豊生。都会に養子に出され育った彼の父は、空襲で家を焼かれ養父を失います。養母と戦後の焼け野原に放り出され、生きるため必死にならざるを得ない彼の父は、よりよい生活やよりよい仕事を得るため簿記を覚え、生計をたてていきます。そんな辛苦や努力を父は豊生に伝えたいが伝わらない。豊生にとってそれは疎ましいものでした。時代はバブル経済のころで、就職せずに生活はできるとばかり、豊生は就職活動せずフリーターの道を選びます。フリーターに自由があればフリーターの雇用者にも自由は存在します。やがて年を取り、思うような仕事にありつけなくなった豊生は、次第に働くことをやめてしまいます。
 3番目は42 才の常生。戦後世代となる彼の母親はそれまでの年長世代のような戦争体験を持たないし、公務員の実家は豊かではないけれど貧しいわけではない。そんな彼女が、大学を卒業して就職しようとしたとき壁に直面します。均等法がない頃に女性の就職口は少なく、うんざりしながら、早々に父と結婚する道を選びます。流されるような母の生き方は常生にも伝染しています。なんとなく就職し結婚し離婚する彼は、経済的には破綻していないが、自分自身のものとして人生を生きていないようです。
 32歳の夢生と親の場合だと、もはや生業をもって生計をたてていくような生活の枠組みというものが破綻しています。美容師になるつもりだった母とガソリンスタンドで働く父。百恵さんの生き方に焦がれ美容師になるのもやめて、さっさと結婚します。しかし父は浮気性で、母が妊娠している時から浮気をしています。やがて父は家を出ていき母と離婚します。夢生がは学校ではいじめにあい、働きもできず引きこもりの生活を送るばかりです。
 22歳の凪生の母は、働いて数年もたったころに雇用機会均等法が施行されます。女性も仕事を通じて自己実現をするような人生を送れるようになります。勤め先でそれなりの肩書きも得た彼女は、凪生に良い学校よい教育を受けさせたいとお受験をさせようとしますが、凪生はその選択を拒否します。
 12歳の凡生の母では、雇用機会均等法は根付き、女性も就職し仕事を持つのが当たりまえとなります。結婚し子供が生まれ、仕事の忙しさから子供の育児は父親が中心になります。息子がより父親になつくようになったとき、母親には父親に対する嫉妬が生まれます。離婚の原因は「母性神話」とか「良妻賢母」といった刷り込みに左右された母の嫉妬に他なりません。
 この小説では、戦後社会を生きる登場人物たちそれぞれの人生は、以下のような刷り込みが束縛していて、どれも日本に生きる大人なら身に覚えのあることばかりです。
・ダサい田舎なんか捨て都会に出よう(昭生、昭生の兄)
・勉強してよい学校を出てよい会社に就職すれば、社会でよりよい地位を得られる(豊生の父、凪生の母、凡夫の母)
・就活はやめて、フリーターで自由に生きる(豊生)
・手に職などつけない。結婚で永久就職(常生の母、夢生の母)
・働くお母さんは良き母でもなければならない(凪生の母、凡夫の母)
 新聞雑誌といった媒体や親兄弟友達の口を通じていろんな刷り込みが連鎖していきます。このなかには「みんなと同じが一番」というメッセージが隠れていて、個人の選択を束縛しています。それは言い換えれば、個人の自由意思の簒奪です。豊生はフリーターという形で、夢生は引きこもりという形で年長世代の刷り込みに反発していますが、その反発の根拠さえ別の刷り込みへの乗り換えでしかないのです。
 この小説で、22歳の凪生や12歳の凡生の存在は、そんな全体主義的な戦後社会に対しての批評者としてです。東日本大震災のボランティアに行った凪生は、震災の廃墟を見て、親たちが過ごした繁栄の時代が終わったことを予感します。12歳の凡生もエゴを振り回す離婚した親たちに否と叫びます。
 経済大国をもたらした戦後の繁栄の時代が終わりつつある2018年の現在です。繁栄から衰退に向かわせたものはなんだろうか?とぼんやりと考えると、ひとつの原因として、このような個人の自由な生き方を縛り付け、個人の自由意思を簒奪する文化の問題でもあるのです。そう考えると、橋本治さんと親しい間柄の糸井重里さんが80年代の頃から広めてきたコピーライターの文化は、なんて悪質なものだろうと思うのです。

大切だが重いことを考える道(北関東の諸街道11)

f:id:tochgin1029:20180513132238j:image 前回は、芦野宿まで奥州街道を歩きました。奥州街道の北上は白河までにしようと決めているので、今回の歩きのひとまずのゴールでもあるのです。新幹線を使わないと決めれば那須への公共交通の足はとてもたよりない状態で、いったん宇都宮で前泊することにしました。翌朝は早朝の電車で宇都宮から芦野に向かいます。
 地元の高校生の通学と一緒になります。もちろん県庁所在地の宇都宮にむかう高校生のほうが圧倒的ですが、意外なほどに北上して通学する高校生が多いようです。宇都宮と那須ではとても遠いように思うのですが、地元の高校生は、そう苦も無く遠距離通学しているようです。通学ラッシュが少ない分だけ都心近郊の通勤通学よりも遠距離はストレスは少ないようにも見えるのです。黒田原駅を降りてバスに乗り換え、芦野宿にたどり着きます。
 あいかわらず、芦野宿のあたりには外を歩いている老人たちもいません。でも歩きだせば、農作業を行っている姿を眺めながらの歩きになります。f:id:tochgin1029:20180513132434j:image

ちょうど今頃は田植えのシーズンで、田植え機を操作しながらの田植えもあれば、なんと手で苗を植えている老人の姿も見られます。広い田んぼに、ぽつんと手で苗を植えている老人の姿はとても頼りなげです。農作業の膨大さを想像して、その途方もなさに驚嘆します!
自動車の交通量が少なければ、カエルの声があたりに鳴り響いています。人気のない山道は、無音だと一人では心細いところですが、カエルの声が鳴りひびくと不思議と淋しくはならないものです。f:id:tochgin1029:20180513132533j:image

途中には初花清水という水が湧き出る場所があります。そこには仇討をするためにこの地で暮らし、土地の人たちに世話してもらった夫婦の話が載っていました。旅人を親切に世話する村人の話というのが昔話にはよくあります。いっぽうでは、毎朝の通勤電車で困っている乗客に、舌打ちするビジネスマンの姿なんてのは日常の光景です。どちらが人間の感情に則した、自然な振る舞いと感じるかといえば、それは前者のほうだとおもうのですが…次第に人家が少なってくると、いよいよ栃木県と福島県の県境にたどり着きます。
 県境にはそれぞれ、境の明神という神社が建っていてこのあたりだけ道路幅も狭くなっています。付近には2~3軒の民家が建っていますが、そのほかには人けのない場所です。白坂宿はその先にあるらしいのです。どうやらそれらしい集落もあったのですが、残念ながらあまり違いが分かりませんでした。次第にあたりは開けてきて、地方都市郊外らしく、住宅がぽつぽつと立ち並ぶ風景に変わっていきます。さすがに腹がすいてきて途中のコンビニで買い込みましたが、すぐ近くにラーメン屋があって、昼食はこちらのラーメン屋で取ります。白河ラーメンという名前の、ご当地ラーメンがあるそうです。白河ラーメンの特徴がなんなのか?というのはわかりませんが、途切れることなく客がやってきます。出てきた醤油ラーメンは、なるほどあったりしていて美味しいラーメンでした。
 さらに市街地に近づけば、ますます郊外型スーパーなども立ち並ぶようなへんてつのない郊外の風景が広がっていて、少し退屈していました。敵を防御するための仕掛けとして、街に入るまえの街道筋は鍵のように折れ曲がっています、その折れ曲がる道の正面に大きな石碑が建っています。これを見てびっくりしたのです。f:id:tochgin1029:20180513132637j:image「戦死墓」と書かれた大きな石碑は、戊辰戦争戦没者を供養したものでした。戊辰戦争の敗者といえば会津藩が代表ですが、稲荷山というこの石碑の裏手でも大きな戦闘があったことを知りました。町の入り口に建つ戊辰戦争の供養塔。もちろん白河の人々が150年前の戦いの仕返しをしようとは思ってはいないでしょう。けれど、この石碑の存在は、この地の人たちが決してこの故事を忘れないという誓いのようにも思いました。かつてサントリーの社長が、東北について「熊襲」という発言をしたときに、たいへんな抗議行動が起きています。尊厳や誇りを傷つける言葉には、とてつもない怒りを表出することもあるのです。
f:id:tochgin1029:20180513132658j:image ネットで検索すれば、白河市の人口は6万人程度しかない、単なる地方都市のはずですが、街を歩いてみれば、他の同規模の都市に比べ思いのほか市街地が広がっていて、かつてはとても大きな町であったことがわかります。この白河は、江戸末期には1万5千人をかぞえる、近辺では会津に次ぐ大きな都市であったそうです。「白河の関」という境界イメージからくる、どこか寂し気な土地のように白河をイメージしていたのは、大きく裏切られました。中心商店街にまったく活気がないのは、よくある地方都市のことで珍しくも何ともないのですが、そんな活気のない商店でも、白河ではほとんどの店のウインドーがピカピカで、また中もこぎれいに整えられている!そのことにびっくりしたのでした。会津若松を訪れたときに、街全体にきりっとぴしっとした印象を持ったのですが、この白河の街にも同じような印象を持ちました。
 帰りには、隣りの白坂駅にあるアウシュビッツ平和資料館を見学しました。民間で建てた資料館のようです。20分ほどのビデオを眺めると、このアウシュビッツの土地でなされた行為は、いわば「システム化された殺人装置」とでも形容すべきで、その途方もない恐ろしさに戦慄を覚えました。その虐殺の源といえば、幼少の頃に父親から虐待を受け自尊感情を破壊されたヒトラーの「憎しみ」とその連鎖にしかほかならない。ビデオを見終わった後、となりの展示室では、ポーランドの子供が描いた戦争の絵画と、日本の子供が描いた戦争の画が並べて展示されていました。自分の肉親が兵士に連れていかれたり殺されたり、残酷で冷徹な兵士が描かれているポーランドの子供の絵に比べ、日本の子供の絵には、勇敢で勇ましい兵士が描かれています。そこには桃太郎の鬼退治のように思っている心理が見えます。
 戊辰戦争アウシュビッツでの虐殺に直接は関係なけれど、白河で思いがけず「戦争による人間の尊厳の破壊」なんていう、大切でも重いテーマについて考えることになりました。

黙々と歩く道(北関東の諸街道10)

f:id:tochgin1029:20180429185314j:image大田原宿までたどり着いたのはひと月まえのことでした。やっと春がやってきて、咲きだした花を楽しみながらの道中でした。すでにあたりは新緑の季節になっていて、まだ若い淡い緑色が日を浴びて透き通っています。
宇都宮からの電車はこの日もゴルフへ向かうグループで賑わっています。西那須野駅で降りてがらがらのバスにのり、大田原の市街地へ向かいます。

  トコトコ大田原というバス停で降りて、そこから街道あるきを再開します。大田原の市街地は、表通りこそきれいに整えられていますが、一歩裏通りに入ればそこはガタガタとした舗装道路が残る古い町です。市街地を見下ろす丘に大田原神社という神社があります。登れば大田原の市街地が見えます。

 f:id:tochgin1029:20180429185345j:image市街地を抜け蛇尾川を渡れば、あたりは次第に郊外の趣に変わっていきます。那須野が原はひと月前とは違っていて、田んぼに水がはられ、まもなく田植えが始まろうかという頃です。その田園の中を抜けていくと、右手には棚倉街道との追分が、左を眺めれば那須岳の姿をみつめながらの行程になります。
f:id:tochgin1029:20180429185410j:image 渡貫のあたりで那須野が原は終わり、丘陵があらわれ、人家もまばらになってきます。沿道にはいろいろな花が咲いています。例年だとさして気にも留めないツツジの花が、とりわけ今年は鮮やかで、花を眺めながらしばらく進めば鍋掛宿に着きます。宿場に入ろうかというところから、黙々と歩く同好の士?らしきおじさんたちを、ちらほらと見かけるようになりました。
f:id:tochgin1029:20180429185448j:image 鍋掛宿のあたりにそれほど旧家は残っていません。芭蕉の句が残る石碑だけが往時をしのばせています。隣接していた高札には、各宿場との距離が載っていて、芦野宿まではあと11キロくらい。今日の行程はそれほど大変ではない距離感だなと思います。
f:id:tochgin1029:20180429185516j:image 鍋掛宿と隣の腰堀宿との間は、実は1キロもありません。どういうことかといえば2つの宿場の間には那珂川が流れてて、深い谷となっています。これを渡るのが難所であるわけです。現代はもちろんかけられた橋を渡るのみですが、山深い場所をわたる両岸は、北関東の歩きで初めて見る渓谷の風景です。ちょうど山藤が咲いていてとても印象的でしたが、カメラで映してみると、あまりはっきりとはわからない写真で、見たときの鮮やかな印象がなくて少し残念ですね。越堀宿も鍋掛宿とほとんど同じような集落で、知らなければなんの変哲もない集落でしか見えないでしょう。
f:id:tochgin1029:20180429185536j:image 腰堀宿を抜け、富士見峠までの道は工事中となってました。わたしのように旧街道を歩く身には、きれいに整備された道はまったく味気ないものですが、生活をする人にとっては便利なほうがいいわけです。山を抜ける工事中の道の上は真っ青な空で、まるで岸田劉生の画「道路と土手と堀」を連想させる風景でした。
f:id:tochgin1029:20180429185604j:image このからの行程はひたすら、いくつかの川と丘陵をまたがります。ここで、同好のおじさんたちひとりひとりを追い抜いて歩いていきます。もちろん「こんにちわ」と挨拶くらいしかは交わしますが、それ以上の話をお互いにするわけではありません。こちらも黙々と歩けば相手も黙々と歩く。仲間と一緒にわいわいがやがやと歩くというよりは、生活のことや仕事のことやいろんな思いを、垂れ流すように考えながら歩いています。ほかの同好の士たちは何を考えながら歩いているのだろうか?などと想像します。
f:id:tochgin1029:20180429185627j:image 丘陵を抜けるころに、芦野宿が遠景で見えます。それなりに大きい集落なのに、外にはあまり人が歩いていないでがらんとしています。本日の行程はここまでです。

 後ろに同好の主があらわれ、ここで初めてまとまった話をします。聞くところ宇都宮から泊りがけの行程で、今日の当日のうちに白河まで向かうとのこと。日帰り軽装のわたしとは、出で立ちもだいぶ違います。同好の士とは言っても、それぞれ指向はだいぶ違うのですよね。
 さて、駅に戻ろうにもまったくバスが走っていません。しかたがなく、近くにある芦野温泉まで行き時間をつぶすことにしました。温泉から黒田原駅までは臨時のバスが通じているようです。またもやがらがらのバスを黒田原駅まで行けば、黒田原の集落にはあまり観光地然としたところがないのが好ましい場所です。それでも高原らしい湿気の少ないさっぱりとした雰囲気が、信州長野の冨士見のあたりに少しにているかなと思い出します。f:id:tochgin1029:20180429185730j:image

黒田原駅の駅舎は旧い洋風建築でした。ひと昔ならふつうにみられた様式の駅舎ですが、現役の駅舎も今では珍しくなりました。窓のステンドグラスが面白くてじっと眺めていました。
f:id:tochgin1029:20180429185655j:image ここまで来て、関東平野はかなり遠くなったことを実感する場所です。次の行程は白河まで、今回の歩きの終点です。