おしゃべりな道(北関東の諸街道13)

f:id:tochgin1029:20180721202311j:image進路を南にとって、宇都宮から小山宿まで進んだものの、前回はあまり変化の少ない行程でした。というのも、国分寺下野国府が立地していた、旧い歴史を持つ土地を通りながらも、その歴史性を否定するかのように河岸台地上を街道筋が単調に通っていたことも原因かもしれません。今回の歩きだしは小山宿から、日本橋に向かう街道歩きは、歩き始めが自宅から近くなるのはよいのですが、またも単調な行程だったらどうしようか?などと不安になります。
 幸い、前回には気が付かなかった、かつての宿場町の趣を残した場所が小山宿にもありました。その代表は、街の一角におおきな敷地を占める須賀神社です。神社を訪れれば今日はお祭りで、氏子の人たちがせっせと準備に追われています。そのわきを参拝します。となりには「小山評定」に関する石碑が立っています。関ケ原を前にして徳川を中心とした大名たちの領地の采配など、徳川と関係が深い神社のようです。
この車社会では、小山のような比較的大きな街でも、個人商店が成り立つのもせいぜい駅前くらいのようで、それなりに賑やかだったろう街道沿いも、すこし駅を離れればいまではただの住宅地。あたりにはスーパーらしき廃墟も見られます。
f:id:tochgin1029:20180721202658j:imageしばらく歩くと、目の前にこんもりとした緑の山が見えてきます。地図では浅間神社とありましたが、その山の正体は千駄塚とよばれている古墳でした。これまで、街道沿いに徳川時代よりも旧い旧跡はすくなく、思わずうれしくなります。間々田宿には、わずかに問屋場を示す看板が立っていて、その場所だけが明瞭に宿場町だということを示しています。f:id:tochgin1029:20180721201704j:imageまた、宿場の途中には「間々田ひも」という看板がありました。組み紐の一種らしく「栃木県指定無形文化財」ということですが店はまだ開店前。そのまま通り過ぎます。近くには市立博物館があり、見学することにします。案内の方によれば、この付近にはわりあいと多くの古墳が残っているようです。縄文の頃からの遺跡も残っているらしく、そのとなりには国分寺造営のための瓦を焼いたとよばれる窯が再現されています。かつての下野国の中心がこの付近であったという、徳川時代よりも前のこの土地の歴史性にやっと触れられたような気がします。この博物館のあるあたりは河岸段丘となった地形のへりにあたっていて、遠くを眺めれば真っ平らな地形が遠くに広がっています。真っ平な地形の先は、たぶん渡良瀬遊水地です。
f:id:tochgin1029:20180721201739j:image かつての関東平野の交通網は陸路だけではなくて水運も盛んでした。ある程度の規模の河川であれば、河岸とよばれる船着き場が方々にありました。このちかくも乙女河岸があって、東照宮を造営する物資はここで降ろされたそうです。すこし趣の違う景色が見たくなったので、その跡地に向かいます。たどりついた河岸は、いまではなんてことはないただの河原なのですが、休憩所には群馬からの行程の途中というサイクリストと地元のおばあちゃんが談笑していました。誘われてわたしもその輪に加わります。そのおばあちゃんの年齢は85歳とのこと。この河原に来るまでには、むこうの台地からおりては堤防を上らないと来れないのです。高低差のある堤防の上まで自転車をこいでくるとのこと。わたしの母親より年長なのにぴんぴんしてうるのにびっくりしました。しばらく談笑をして2人と別れて、ふたたび街道に戻れば単調な道に戻ります。このあたり不思議なくらい同じような街道歩きの同好の士とであいました。なかにはそろって歩いている夫婦も見られますが、どの人も黙々とあるいていて、声をかけるのもためらうような様子なのが残念ですね。途中には寺社やコンビニが集まっている一角がありました。しばし休憩。
f:id:tochgin1029:20180721201834j:image 渡良瀬遊水地のだだっぴろさを感じさせるように、空は広くてまったいらです。歩いていると、1歩1歩すすむごと、風が通るスポットもあれば、地面からの照り返しがきついスポットもあります。その微妙で些細な変化を身体で感じていました。野木の宿場は小さくて、ここもやっとひとつの看板でわかる程度です。地形図で見れば、野木宿はJRの野木駅とは離れており、むしろ古河の街にかなり近いようです。
しばらく行くと、自動車の整備工場でしょうか?なかから仕事の休憩中の方に出くわします。あまりに暑くて「おあがんなさい」との言葉にすなおに甘えます。休憩しながら世間話。自分の仕事方面とはまったくことなる、その業界の話は、ほとんど知らなかった話ばかり。とても面白くて、なによりとてもよい休憩になりました。ほどなく古河宿の入り口が見えてきて、宿場に入ります。
f:id:tochgin1029:20180721201801j:image古河の宿場町は駅の西口にひろがっています。とりわけ横山町のあたりにはまるで骨董品のような商店が並んで建っていてなつかしさを感じる街です。いつもはただJR線で通り過ぎるだけの古河の街がこんな古めかしい町であったことに、なにか秘密を見つけたような気分になってひとりでほくそえんでいました。ここで食事にします。入った食堂は年寄り家族で営んでいる店のよう。頼んだものがほんとうに出てくるのか?すこし不安になりましたが、もちろんそんなことはありません。ここでも涼むことができてありがたい。f:id:tochgin1029:20180721202104j:imageその街をすすむと、しだいに城に近づき、街はかつて商人町だったエリアから家臣の侍たちが住むエリアに変わったようです。城のあたりは今では公園になっていて、ここでも歴史博物館に入ります。徳川に近いお殿様が治める古河藩の性格から、展示物はちょっと格調が高くあまり興味をひかなかったのですが、展示された古地図などから、かつての古河城のあたりは、城を川や堀で取り囲むようになっていたことがわかります。この町はもともと渡し場として栄えた街らしく、地図をながめればこのあたり茨城栃木群馬埼玉の県境が近接しています。まるで関東のへそのような街で、この渡し場の伝統があるからこそ、鎌倉を追い出された足利の殿様が、この古河公方としてこの町に引っ越したわけです。
f:id:tochgin1029:20180721202003j:image 古河の街を過ぎれば、またもや単調な道が続きます。ときどき雑木林が隣に広がり、途中には松並木が伸びていますが、このあたりなにか面白い旧跡があるわけでもなく、歩いていてもっともつらい区間です。とちゅうの中田宿もそういえばそうかな?気が付くくらい、ただの住宅地と化しています。f:id:tochgin1029:20180721201953j:imageここで、やっと利根川をわたり栗橋宿に。あたりは堤防工事を行っていて、かつての本陣が建っていたらしい八坂神社のあたりは移転するとの張り紙が流れていました。となりでは本陣の発掘作業を行っているようです。ここ数年、梅雨あけの時期には、どこかで豪雨被害が起きています。高い堤防をつくってもそれを「乗り越える」ように災害が起きる。そしてまた、より高い堤防をつくろうとする。旧いものは取り壊されて、新しいものに塗りつぶされていく。どこかやりきれない気持ちになります。栗橋の通り沿いでは、もくもくと夏祭りの準備がされていました。商店会の有志の人たちのバンドがリハーサルをしています。
f:id:tochgin1029:20180721201933j:image 今日の歩きは栗橋宿まででおわりです。どちらかといえば下野が「台地の国」という印象なら、下総は「河の国」と印象がします。そのうつりかわる風景を歩きながら体感する行程でした。これまでの街道歩きでは、誰にも会わず黙々と歩く日も数多いのですが、今日はまったくそれとは異なる日で、道端での見知らぬ人とこれだけの長々と世間話をしたのは初めてでした。たまには楽しいものです。この先、幸手、杉戸、粕壁宿へと。だんだん日本橋が近くなります。

ディスリンピア2680(東松山「丸木美術館」)

f:id:tochgin1029:20180709224530j:image 丸木位里・俊夫妻の作品「原爆の図」が常時展示されている東松山の丸木美術館は、前々から訪れてみたかった場所のひとつです。けれど、東松山の外れ、電車やバスで行くに少し不便な場所にあるこの美術館は、訪れるのをおっくうに感じるような場所に建っています。そんな場所に行こうと思ったのは、たまたま東松山の市長選に安冨歩さんが立候補して、選挙活動の中で安冨さんが丸木美術館を訪れ「ここから始まる」といった趣旨のことを述べていた(勘違い?)ように思います。その言葉でなぜか腰が浮いて、やっと訪れることができました。つきのわ駅を降り、なんの変哲も無い道路を30分ほど歩けば到着します。意外にもこぶりな美術館です。2階が常設展示らしく1階が企画展示のスペースのようです。
2階で初めて目にした「原爆の図」は衝撃的でした。被爆して死に至ろうとする人たちが描かれた絵は、どれも巨大屏風絵のようになっていて、それが10作以上もの連作になっています。どの絵も中心になるのは、被曝して死の淵をふらふらと彷徨うたくさんの人たちです。これをみて連想したのは、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」をはじめとした戦争画と呼ばれる一連の作品群のことです。ポエムにならない絵画(藤田嗣治の戦争画) - tochgin1029のブログ

あの時に戦争という題材に魅せられていた藤田が描いたのは、命を失おうとする兵士、屍を乗り越えて前に進もうとする兵士たちでした。その兵士たちの絵からは「国民精神」という戦争のプロパガンダにもなりうる言葉です。戦う意義を見いだして戦争に協力していった文化人や知識人ほど、大まじめに東西文明の戦いとして捉えていました。
驚いたことに、その丸木夫妻の描いた「原爆の図」からも、実はその「国民精神」が浮かび上がって見えたのでした。けれども、それは藤田の描いたような戦う「国民精神」ではなく、被爆して苦しみのたうちまわる人々の姿からたちのぼった「なにか」です。戦前の国家主義と決別するような理念が、戦後の社会に存在すべきだったなら、この「原爆の図」に描かれたような、被爆に苦しみ命を失おうとする人々たちの姿、ここから始めなければならなかったのではないか?とさえ思いました。
 一階に下り、企画展「ディスリンピック2680」を眺めました。東京オリンピックの名のもとに、甲乙丙と人々を選別する日本式の全体主義への批判です。全体主義のもと、一人の人間は集団の部品でしかなくて、たとえ甲でえらばれたとしても、乙に選ばれたとしても良い部品にしか扱われません。ましてや丙に選ばれた人々は部品にもなれず排除される。そのほかに、組体操や富士山。鎧姿の怨霊が矢を放つ姿の絵が展示されていました。どれも全体主義の恐ろしさを表した絵ですが、ここにはヒトラーのようなわかりやすいシンボルはありません。人を甲乙丙と選別する主体はここに描かれていません。組体操を強要する主体もここには描かれていません。そう、日本式の全体主義には、目に見える明確な責任者はいません。いったい誰の指図で命令で人が人を選別や排除しているのか誰もわからないまま全体主義がはびこること。その恐ろしさに戦慄しながら丸木美術館を出ました。
 とうとう、戦前の国家主義と決別するような理念は戦後の日本には生まれませんでしたが、戦後を象徴する理念になり得ただろう事物をいくつか想像できます。この丸木位里・俊夫妻が描く「原爆の図」での人々の苦しみもその1つではないでしょうか?

本来なら、この原爆の図の連作は、国立近代美術館の玄関正面にでも展示されるのにふさわしい作品ではないだろうか?と思っています。

驚くことばかり(映画「ワンダーランド北朝鮮」)

映画『ワンダーランド北朝鮮』 | 北朝鮮の”普通”の暮らしとその人々。これはプロパガンダか?それとも現実か?

 平昌オリンピックの頃までは、いつか東アジアで戦争が始まるとかミサイルが飛んできてもおかしくないかといった国際情勢だったと思います。それが、今まで姿を見せることもなかった北朝鮮の権力者が姿を見せるやいなや、韓国、中国、ついに米国までも矢継ぎ早に首脳会談を重ねることに驚きました。この光景を去年の今ごろ誰が想像できたでしょうか?

 いつからか北朝鮮といえば、あの仰々しい国営放送のアナウンサーやミサイルの映像やマスゲームのことばかりが報道され、市井の人たちがどのような日常を暮らしているのか?ということは取り上げられません。緊張緩和の動きが日本では当惑を含んで受け取られ、置いてきぼりをくらっているのは、社会が、あまりにも片寄った情報ばかりに浸っていたことと関係があるでしょう。

 「ワンダーランド北朝鮮」という映画がただいま上映されています。この映画には、指導者や権力者の姿は現れないしミサイルもマスゲームも出てきません。映画に登場したのは、プールの運営会社に勤める男性とその家族、工場に勤める女性を描く美術家、元山の縫製工場に勤める若い女性、農村のトラクター運転手とその家族たち、といったごくごく一般の人たちです。映画を見終わって思ったのは、片寄った国内報道から、この国になにか収容所じみた印象を持っていたのとは異なる姿でした。
 もちろん、彼らの行動のはしばしには権力者をたたえる言葉が入ります。職場にはかれらの銅像があり、家庭の壁には金日成金正日の額がかざられています。ただし、これが日本に住む私にとって異世界か?というと、それほどでもないことに驚いたのです。たとえば、職場に掲げられた銅像は、そこここにある、政治家や地元の有志の胸像、二宮尊徳銅像のようなものだと見れなくもないし、職場にでかでか掲げられる目標やスローガンの類は、日本の工場といった職場でもそんな珍しくもない。家庭に掲げられる金日成金正日の額というのも、昭和の古い家庭であたりまえのように見かけた天皇陛下の額を想像すれば、そう違和感はない。そして映像に現れる人たち。

 登場する北朝鮮の一般人たちは、独裁国家という姿から想像されるように権力に近く目下とみれば横柄な態度をとるようなこともなく、むしろ紳士的です。息子に結婚してほしいと語る祖母や、もっと勉強して平壌に行きたいという夢を語る、元山の縫製工場に強める女性からは、夢も希望もなく刹那的に生きるような独裁国家の印象がなくて、非常に真面目に人々が生きていることに驚いたのでした。あらためて国内で流付される報道が、わかりやすく独裁国家の一面を誇張して伝えているか?思い知りました。
 もちろん、北朝鮮の社会に軍の存在が非常に大きいということも映像はあらわしています。16-17で、ほとんどの子供たちは軍に服役するらしいこと。軍は戦闘だけをするのではなくて、土木工事のようなインフラ整備まで行っているらしい。先軍政治と呼ばれるような社会のからくりにこんな一面があるみたいです。社会の中で軍人は尊敬されているようで、戦前の日本で軍人たちが尊敬されたのもこんな感じだったのかと思わせます。
 農村の映像には、高度経済成長前の日本の農村風景を連想させるような懐かしい景色が映っています。ぷらぷらした老人たちが農地のわきにたむろしています。映像では、軍を除隊したトラクター運転手とその家族が映されています。彼らの暮らしは、日本の農村風景からくらべればいかにも貧しい。娯楽といえば村の劇場みたいな場所でされる歌の発表会。もちろん歌の内容は、いかにも全体主義国家のそれなのですが…
 それにしても、映像にあらわれる北朝鮮の人たちは素朴でした。自分や家族の夢や希望を北朝鮮の人が語る。そもそも北朝鮮の人に「個人」という意識があったことにも驚いています。たぶん、国際関係の改善が進めば、この閉じられた国にはさまざまな外国資本がやってくることでしょう。この10年くらい「あと〇〇年で崩壊」といった言説ばかりが国内では伝えられていましたが、そうなったとしても、たぶんこの社会は生き延びると思います。もちろん、そのときに映像で見たような人々の素朴さは失われるのだろう、とも思います。
 
えいぞう

古の歴史を感じない道(北関東の諸街道12)

 今回の街道歩きは、例幣使街道から日光をまわって奥州街道を白河まで北上、北関東の街道をひとまとめに通ってきました。残ったのは宇都宮から日本橋までの道のりです。
f:id:tochgin1029:20180627232437j:image 今回の歩きでは、宇都宮の街が結節点となりました。まずは宇都宮駅へ、さらに宇都宮駅から伝馬町に向かうバスに乗ります。宇都宮市内交通の主役は路線バスで、郊外にそれぞれ向かうバスが途切れることがありません。ただしだいたいの車内はガラガラなのが寂しい光景です。空は梅雨空で、すっきりしません。
 宇都宮では、総じて旧街道跡を示す看板は淡々としたものです。日光街道奥州街道の追分もいたって簡素なものです。なので、道路も整備されてはいますが、それは市内の主要道として整備されているにすぎません。まわりものっぺりとした何の変哲もない住宅地です。のっぺりとした住宅地とのっぺりとした道路に街道歩きの楽しさはあまり感じません。途中に蒲生君平という儒学者?の石碑があって、それだけが、わずかに旧街道の痕跡を残しています。東武宇都宮線JR日光線をくぐったり跨いだりし、国道4号線と合流します。f:id:tochgin1029:20180627232528j:imageその交差点の一角に不動堂が建っていて、たぶんこれが宇都宮の街との境界のようです。国道4号線沿いに進めば、あたりは車の販売店が立ち並ぶ風情のない道路が続きます。どうやらこの道路「東京街道」と呼ぶらしく道端に標識があります。JR宇都宮線の線路が次第に近くに寄ってきますます。かつては特急列車が華々しく通っていただろう線路も、現在の主役は通勤電車と貨物列車。線路を眺めていても変哲のない電車ばかりが通り過ぎていきます。
f:id:tochgin1029:20180627232601j:image 変哲のない道のさなかに、雀宮宿があるはずなのですが、どこから宿場でどこが本陣なのか?さっぱりわかりません。沿道の雀宮神社だけがこの地の由来を示す唯一の建物です。その雀宮神社ですが、延喜によれば、上野下野の毛の氏、御諸別王にゆかりのある神社のようです。藤原の実方の妻の○姫がたどり着けずに生き別れた場所だそうです。旅の途中で倒れた旅人をともらう伝え話がここでも見られます。今とは違って遠くに生きる人と人との距離感はとても遠かったのだと思います。いったん別れた人とは、こんどはいつ会えるかもわからない。その心細さを現代の人はたぶん想像できないだろうと、思いめぐらせます。
 雀宮から石橋宿までの道も、あいかわらずのたいくつな国道歩きです。この国道歩きにもひとつだけ良いところがあって、昼飯をとる場所に困らないということでしょうか。沿道には有名無名の飲食店がたくさん立ち並んでいます。ここで昼飯。
f:id:tochgin1029:20180627232636j:image石橋の街は、くたびれた建物が残りますが、それだけ旧い宿場町の雰囲気が雀宮よりは残っているでしょうか。駅前の通りには「グリム通り」と名付けられています。近くには孝謙天皇神社という名前の神社があります。そういえば、奈良時代の末期に孝謙天皇をそそのかし天皇の位を簒奪したとされた、道鏡が流されたのは、下野の国分寺でした。ですから、このような孝謙天皇にちなんだ神社が建つのもなるほどなと思います(あとで調べたところ、流された道鏡を追いかけるように、孝謙天皇がこの地をおとづれたのだという伝説もあるようです)ただし、街道からは少し離れているようで行くのは断念します。町外れには、愛宕神社という神社がありました。
f:id:tochgin1029:20180627232745j:image 石橋から小金井まで、国道沿いは次第に殺風景な風景になってきます。雑木林と建物が交互に現れます。ここで、ようやく国道と離れ脇道へと入ります。道ばたには、かんぴょうを取り出したあとの夕顔の実が転がっています。かつては国分寺町とよばれた町で、その名の通りかつての下野国分寺の存在した地名です。しかし、地形図を眺めれば、この奥州街道が通るあたりは、国分寺があった場所とは、川ひとつ隔てた場所なのです、例幣使街道なら鹿沼から日光まで、日光街道なら日光から宇都宮まで、どこかこのあたりの街道には、この場所に存在しただろう土地の神を蹴散らして、徳川いろに塗りかためたような共通する印象を感じています。街道を整備した徳川の権力は、おそらく国分寺を整備した奈良の王朝にたいしては、自分たちが継承する武家権力が倒した旧権力として、古の王朝をながめているのでしょう。国分寺と街道とが離れていることの距離感をそのようにも読み取れます。かつての王朝が治めた天下と自分たちが治めている天下は違う世界なのです。したがって、小金井の宿場に入っても旧い町並みが残るわけでなし、少しだけ残っている旧い建物も、まもなくとり壊すのだろうか?網で囲まれた状態です。住宅街にある一里塚を通りながら、先に進みます。
f:id:tochgin1029:20180627232955j:image 小金井宿から新田宿まではあっというまにたどり着きます。かろうじで簡単な看板が掲げられていて、そのことだけが宿場だと示しています。奥には広葉樹の林が広がっていて、その手前には不動が建っています。新田宿をすぎれば、あっという間に小山市内に入ります。少し歩いたあと、国道から離れ新幹線の線路に近づきます。この小山には新幹線の車両基地があって、車両が停まっていないか?と探してみます。1編成だけ停まっていて、そばから覗いてみるのですが、金網が高くそびえていて、間近にながめることはできませんでした。残念。
f:id:tochgin1029:20180627233043j:image 新幹線沿いから国道に戻り、そのまま小山の市街地に入ります。何の変哲もない道は、結局のところ小山宿まで続いています。旧宿場がどこなのか?というのもよくわからずじまいです。あまりにも東京から至近距離であるがため、旧街道の風情を楽しむような道どりではありませんでした。かつて下野国分寺が建っていたこのあたりは、ほんとうは豊かな歴史をかかえた土地のはずだと思いますが、後世の権力者たちや産業資本たちは、歴史を切断していきます。このさきの行程は、古河や栗橋といった大河川が密集するあたりを進んでいきます。次回は面白い風景を楽しめるでしょうか?

飼いならしは愛?その2(安冨歩「誰が星の王子さまを殺したのか?」)

誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠 前回は、サンテグジュペリの「星の王子さま」を読みました。その原典を読んだ後で、今回は、安冨歩さんの「誰が星の王子さまを殺したか?」という本を読んでいます。「星の王子さま」をハラスメントの小説として捉えなおしたこの本は、 他の解説本のようにバラと王子の関係を理想の愛だと称賛するような本ではありません。もちろん、サンテグジュベリ自身がハラスメントの小説として意図して書いたわけではなく、作者の意図を超えたところでハラスメントを表す小説として成立しているのだと、安冨さんは断りをいれています。
 この物語中でのハラスメントのひとつは、バラが王子に行うさまざまな要求のことで、バラが虐待者で王子は被害者の関係です。バラの種に丁寧に水をやっていた王子に、蕾を開いて現れたバラは、王子が「美しい」と感嘆をあげたとたん「でしょう?」と告げながら、この星の環境の悪さに文句をいい、様々な要求を言い始めます。心を許した相手に対して攻撃を開始する「ハラスメント」の定石のふるまいだと。バラの言動はところどころ矛盾が存在しているのですが、バラはきまって咳払いをしてごまかします。
 この時点では、実は王子さまはバラに対し「うんざりする」という、まっとうな感情を持っていました。しかし、バラは王子の心にしだいに罪悪感を植え付けていき、バラの要求をかなえないのは王子が悪いのだとまで思い込ませます。バラにも良心の呵責というものが存在すると信じている王子ですが、ハラスメントの虐待者には、残念ながら良心というものが存在しないのも定石です。バラとコミュニケートするほど王子の心に傷がつくのです。王子はハラスメントをハラスメントとして認識することができなくなっていきます。
 そんなふるまいを耐えきれなくなり、王子が星の外に旅立とうとするとき、バラは「私がばかだった」としおらしく反省するふりをします。王子はそのことに混乱します。ここで虐待者による被害者の精神的な支配が完成します。星を離れても王子の心に罪悪感という傷が残り、王子の旅は憂鬱なものになります。
 地球には、王子が育てていたバラと同じ花がたくさんありました。王子の星では、バラは自分は唯一のバラだと言いましたが、これが嘘であったと王子は知りますが、王子は怒りを起こすわけでもなくただ落ち込むばかり。植え付けられた罪悪感のせいです。そのあとでキツネと遭遇します。
 この物語でのもうひとつのハラスメントは、王子とキツネのやりとりです。バラと王子の関係を、キツネは飼いならし」と形容しますが、すぐ次の言葉では「飼いならし」を「絆を創る」という別の言葉で言いなおします。「飼いならし」では、支配する→支配されるといった一方通行の関係しか想起できませんが、キツネは「絆を作る」という双方向の関係に言い換えています。これは意味のすり替えです。
 その後に、キツネは王子に「わたしを飼いならして」と頼みます。「飼いならす」ほかに、世間のコミュニケーションが存在しないかのような言葉です。本当は、まったくそんなことはないですよね。ここにもすり替えがあります。

 また、王子がバラを世話した時間と手間こそが、このバラを特別なバラにし、地球に咲いているたくさんのバラとは違うのだと。「王子はバラに責任がある」と言い切ります。「飼いならす」という支配と被支配の関係を対等の関係であるかのようにすり替え、被害者の罪悪感につけこむ、ハラスメントの手口です。
 バラが王子の星にやってきたことも、本当はただの偶然で必然などそこに存在しません。虐待者にとって被害者は別に誰でもよいわけです。たまたま都合のいい場所に都合のいい相手として王子が居ただけのことで、それがなぜか崇高な愛にすり替わる。ここにもすり替えが有ります。

 気が付けば、巷の恋愛小説や流行歌の歌詞だって、この必然と偶然との誤解を受けた表現はありふれているし蔓延しています。「星の王子さま」の邦訳でさえ、訳者自身もこの「飼いならし」を肯定的に捉えていて、バラと王子の関係を素晴らしい愛の形と解釈することにも繋がっています。

星の王子さま」に関わる言説に、こんなにも意味のすり替えが存在している。そのすり替えを気づかせないものが、この社会全体のなかに潜んでいる。この社会での人間関係に関する悩みごとの多くは、コミュニケーションにあらざるもの(ゴマすり、おべっか、マウンティング、イジりetc)を、本来のコミュニケーションであるかのように取り違えていることと関係があるのでは?そのことに驚愕したのです。

飼いならしは愛?その1(サンテグジュペリ「星の王子さま」)

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)ほんの数ヶ月まえでは、国内でもっとも報道されたのは有名人のセクハラ騒ぎでしょう。けっして、そんな騒ぎが自分に無関係とは思えないし、「社会人の教養」みたいなものとしても知っておいたほうがよいだろう。そんな軽い気持ちから、集英社新書「部長、その恋愛はセクハラです!」を読みました。そこには(特に職場での)誤解に基づいた男女の考え方の違いが描かれていたのでした。
 女性が示す表面的な親身さとはうらはらに、本音では真逆な気持ちを持っていることもある。だいたいの男性は、そのことに鈍感でかつ理解できないこと、さらには勘違いすること。もっとも腑に落ちたところで、諍いの源はそこにあるようです。女性たちが本音でかかえたストレスをそれとは見せないよう、表面上の親身さを演出できること。そのすごいギャップは、男性のわたしにはとても真似などできないし読み取れもできないだろう。上司や部下といった関係がある職場で「女性ははっきりとNoは言わないものだ」なんてところ、教養や知識として外形的にでも取り入れない限りは、男性にわからないだろうとも思いました。自分だって、読みながら胸に手を当て、昔のあれは、実はハラスメントではなかったか?苦い思い出が蘇ることもありました。気を付けなければと素直に思います。
 その一方では、呑み込めないところもあります。例えば、はっきりとNoを言わない振る舞いを意図的に行った結果、異性を振り回している女性たちを、かつて「悪女」とか「小悪魔」と呼んでいました。こういった振る舞いは、悪意をもって利用されば、それは立派なハラスメントになるだろうなとも思うのです。

星の王子さま (中公文庫)星の王子さま」という、サンテグジュペリの書いたよく知られた物語があります。この「星の王子さま」をハラスメントという切り口で解釈した本を、安冨歩さんが書いています。原典の「星の王子さま」を読んでも、非常に示唆に富んだ物語でした。以下のようなあらすじです。

……
 小さな星でひとりで暮らす王子は、放置すれば星を覆ってしまうパオパブの木を間引いたり火山のすすを払ったりして毎日を暮らしています。あるとき他所からやってきたバラの種を見つけ、いつもなら間引くはずの苗を抜かずに水をやり、花が開くのを待ちつづけます。ついに咲いたバラの花に、王子は「美しい」と感嘆しますが、バラは咲くやいなや「水をちょうだい」とか「衝立をつけろ」など、あらゆる要求を突き付け、せっせと要求にこたえるうち、王子の生活は憂鬱になります。いよいよ耐えられなくなり、王子は星から出ていくことにし、バラに別れを告げます。罵倒されると思った王子は、真逆な「わたしがばかだった」との言葉を聞いて混乱します。王子の心に罪悪感という傷を抱えながら旅立ちます。ずっと罪悪感を抱えながら、王子は憂鬱な旅を続けることになるのです。
 王様、実業家、酒のみなどなど。いろいろな人間や動物たちと出会いますが、彼らの多くを「本当はなにがしたいのか自分でわかっていない」と王子は評します。地球ではバラと寸分たがわぬ花が5000本も咲いていました。バラの花は、自分の星にひとつしか存在しないと思っていた彼は絶望します。 
 その時に王子はキツネと出会います。キツネは、バラと王子との関係はバラが王子を飼いならす関係で、飼いならすことでバラと王子は特別な関係になる。地球上にいくら5000本のバラがあっても、そのバラと王子に関係はない。時間と手間をかけて世話した1本のバラだけが王子にとって大切な花なのだと。人と人とが関係を持つことの素晴らしさを「ほんとうに大切なことは目には見えない」という有名な言葉とともに告げます。王子は自分の星に帰りたいと願い、足を蛇にかませて自殺をし、星に帰っていきます。

……
 数ある「星の王子さま」に関しての本には、バラと王子さまの関係を理想の愛の形として絶賛する解説書もあるようです。また、女性作家が描く恋愛小説には、ときどきナイーブで思い悩む男性たちが美しく描かれる場面があり、それは「星の王子さま」で思い悩む王子のようです。

 なぜ、キツネはバラと王子との関係を「飼いならし」と形容したのでしょう。支配と服従という意味を感じさせる言葉だから引っかかるのです。バラと王子の関係を理想の愛だとするように、自分の「王子さま」を所有して飼いならすことって愛なのでしょうか?ハラスメントと恋愛が違うのだから、飼いならしと恋愛だって違うのではないか?という疑問が頭をもたげてきます。
 この疑問「誰が星の王子様を殺したのか?」を読まなければ済まなさそうです。このことは次回の記事にします。

戦後社会の魔物(橋本治「草薙の剣」)

草薙の剣 戦後の日本に進駐した米軍に対して、支配層の願いはただひとつ「國體護持」が条件でした。だから戦後社会にも國體というものは存在するはずです。無実の市民が警察に捕まるようなわかりやすい抑圧ではなくて、お茶の間のテレビから親兄弟や友人の口から、個人が自分らしく生きることを否定するメッセージがさまざまに発せられて、そんな刷り込みが個人をしばりつけているよう。そんな恐ろしさを戦後の國體に感じるのです。橋本治さんの「草薙の剣」という小説は、10代から60代までのそれぞれの男性と親兄弟の人生がそんな刷り込みによって翻弄される物語です.
 もっとも年長の主人公は62歳の昭生です。彼の生家は水道工事店。従軍世代の彼の父は、復員して故郷で水道工事店を営みます。都会にあこがれ田舎を出ていった兄を追いかけるように、昭生も都会を目指します。都会に出て自由な生活を送れるとばかりに。しかし、彼の都会での暮らしが充実したものだったかはわからなくて、やがて親の介護で田舎に戻った昭生は、なんで都会に出ていったのだろう?意味がなかったのではないかと自問します。
 2番目は52歳の豊生。都会に養子に出され育った彼の父は、空襲で家を焼かれ養父を失います。養母と戦後の焼け野原に放り出され、生きるため必死にならざるを得ない彼の父は、よりよい生活やよりよい仕事を得るため簿記を覚え、生計をたてていきます。そんな辛苦や努力を父は豊生に伝えたいが伝わらない。豊生にとってそれは疎ましいものでした。時代はバブル経済のころで、就職せずに生活はできるとばかり、豊生は就職活動せずフリーターの道を選びます。フリーターに自由があればフリーターの雇用者にも自由は存在します。やがて年を取り、思うような仕事にありつけなくなった豊生は、次第に働くことをやめてしまいます。
 3番目は42 才の常生。戦後世代となる彼の母親はそれまでの年長世代のような戦争体験を持たないし、公務員の実家は豊かではないけれど貧しいわけではない。そんな彼女が、大学を卒業して就職しようとしたとき壁に直面します。均等法がない頃に女性の就職口は少なく、うんざりしながら、早々に父と結婚する道を選びます。流されるような母の生き方は常生にも伝染しています。なんとなく就職し結婚し離婚する彼は、経済的には破綻していないが、自分自身のものとして人生を生きていないようです。
 32歳の夢生と親の場合だと、もはや生業をもって生計をたてていくような生活の枠組みというものが破綻しています。美容師になるつもりだった母とガソリンスタンドで働く父。百恵さんの生き方に焦がれ美容師になるのもやめて、さっさと結婚します。しかし父は浮気性で、母が妊娠している時から浮気をしています。やがて父は家を出ていき母と離婚します。夢生がは学校ではいじめにあい、働きもできず引きこもりの生活を送るばかりです。
 22歳の凪生の母は、働いて数年もたったころに雇用機会均等法が施行されます。女性も仕事を通じて自己実現をするような人生を送れるようになります。勤め先でそれなりの肩書きも得た彼女は、凪生に良い学校よい教育を受けさせたいとお受験をさせようとしますが、凪生はその選択を拒否します。
 12歳の凡生の母では、雇用機会均等法は根付き、女性も就職し仕事を持つのが当たりまえとなります。結婚し子供が生まれ、仕事の忙しさから子供の育児は父親が中心になります。息子がより父親になつくようになったとき、母親には父親に対する嫉妬が生まれます。離婚の原因は「母性神話」とか「良妻賢母」といった刷り込みに左右された母の嫉妬に他なりません。
 この小説では、戦後社会を生きる登場人物たちそれぞれの人生は、以下のような刷り込みが束縛していて、どれも日本に生きる大人なら身に覚えのあることばかりです。
・ダサい田舎なんか捨て都会に出よう(昭生、昭生の兄)
・勉強してよい学校を出てよい会社に就職すれば、社会でよりよい地位を得られる(豊生の父、凪生の母、凡夫の母)
・就活はやめて、フリーターで自由に生きる(豊生)
・手に職などつけない。結婚で永久就職(常生の母、夢生の母)
・働くお母さんは良き母でもなければならない(凪生の母、凡夫の母)
 新聞雑誌といった媒体や親兄弟友達の口を通じていろんな刷り込みが連鎖していきます。このなかには「みんなと同じが一番」というメッセージが隠れていて、個人の選択を束縛しています。それは言い換えれば、個人の自由意思の簒奪です。豊生はフリーターという形で、夢生は引きこもりという形で年長世代の刷り込みに反発していますが、その反発の根拠さえ別の刷り込みへの乗り換えでしかないのです。
 この小説で、22歳の凪生や12歳の凡生の存在は、そんな全体主義的な戦後社会に対しての批評者としてです。東日本大震災のボランティアに行った凪生は、震災の廃墟を見て、親たちが過ごした繁栄の時代が終わったことを予感します。12歳の凡生もエゴを振り回す離婚した親たちに否と叫びます。
 経済大国をもたらした戦後の繁栄の時代が終わりつつある2018年の現在です。繁栄から衰退に向かわせたものはなんだろうか?とぼんやりと考えると、ひとつの原因として、このような個人の自由な生き方を縛り付け、個人の自由意思を簒奪する文化の問題でもあるのです。そう考えると、橋本治さんと親しい間柄の糸井重里さんが80年代の頃から広めてきたコピーライターの文化は、なんて悪質なものだろうと思うのです。