街はずれの坂道(東海道を歩く(その3))

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東海道を歩いてみる景色は、あたりまえなのですが、やはり中山道とも違うし、甲州街道とも違います。いまでこそ海岸線は遠いけれども、往時の東海道がとても海の近くを通っていることがよくわかります。神奈川宿があった場所も、いまでは海岸線は遠いけれど、かっては海のすぐ近くに面していたことがよくわかります。
 横浜駅から急な階段を上り、前回に歩き終わった場所を目指します。横浜駅近くでは歩く人たちも多いけれど、階段を上ると別世界、静かな住宅地に変わります。
 横浜駅の近くとはいえ、まったくの住宅街には、コンビニらしき建物も少ない。埋め立てによって作られた平らな場所に市街地や繁華街が形成され、後背地の丘陵地や台地に住宅地が広がっているのが、基本的な横浜の街の構造です。東海道が通るのはその狭間。左手に市街地(昔は海岸)を眺め、右手には台地の上のたつ住宅街を眺め、という行程。途中の浅間下の交差点では道に迷いますが、道が細くなり台地を上り始めてしまったところで間違いに気が付きます。なにしろ開国と文明開化が横浜の発展の源ですから、横浜では、東海道と旧街道の存在感はあまりにも薄い。
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 しばらく歩くと、にぎやかな商店街が現れます。ちょうど時間を区切って歩行者天国にしているようで、路上にも平台を並べて店が連なっています。多くの客でにぎわっています。昼飯を食べていないので食事にします。一軒の食堂に入ります。店に入ると、近所の老人たちが話し込んでいます。店内にはご当地の演歌歌手の写真がびっしりと。ラーメンしかないはずの食堂のメニュー。ラーメンを注文し食べている私のわきで、店主が「オムライス」とか「とんかつ定食」とかメニューに存在しない料理をほいほい受けている、不思議な?お店でした。すこし歩けば、目の前に相鉄線の高架が現れます。天王町の駅です。高架下をくぐると、保土ヶ谷の宿場に近づいてきます。

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 保土ヶ谷の宿場は、一見では単なる駅前商店街という風情ですなのですが、かっての宿場町はそれよりも大きく長く伸びています。そこそこにぎわう駅前の通りを進むと、東海道線の踏切に当たります。この踏切のわきに焼き鳥屋があって、常に白い煙が漂っています。その突き当たり、今の国道1号とぶつかった場所に本陣やら問屋場跡といった案内板が現れます。
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このあたりの景色は、もこっとした丘陵がそこかしこにあって、その丘陵の上を住宅がびっしりと立っているののを仰ぎ見るような景色です。国道沿いを進むと、左手に川が流れ、その先に神社があって、山裾には地蔵がぽつんと鎮座しています。鎌倉にも程近いこのあたりは、どこか中世の雰囲気を残しているように想像してしまいます。国道と別れて
権太坂に差し掛かります。
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この権太坂は、日本橋を出てはじめてあらわれる坂だということです。箱根駅伝でとりわけ有名な坂の名前ですが、駅伝が通過する権太坂とは、この権太坂とは異なる場所で、この道を駅伝選手が走るわけではありません。もちろん、坂のきつさはあちらの権太坂とまったくかわりません。権太坂をのぼり切った先もいまでは変哲ない住宅街ですが、遠くに町並みが見えたり山が見えたりと、さすがに眺めはとても良い場所です。この道中の坂はここだけではなくて、焼餅坂、品濃坂と続きます
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ただ、このように名付けられた坂は、たとえば都内の○○坂といった地名のようには、親しまれているようではないみたいです。案内板こそあれど、旧道はひたすら街はずれをこっそりと通っています。右手には、東戸塚の駅前の高層マンションや、ショッピングビルがそびえていて、近隣住民の生活空間はむしろそっちのほう。旧東海道はそういった住民の日常からは弾き飛ばされています。
 坂をおりるとその先は、わりかし平らな通り沿いを歩きます。住宅と工場や商店、奥には雑木林も少し残るっています。そんな殺風景な通りを延々と。そして、やっと吉田大橋とぶつかり、川を渡り戸塚の街に入っていきます。
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 戸塚の街は、再開発ビルが並び巨大な建築物が並んでいます。やがて道は東海道線とぶつかり、道路は途切れています。歩行者は、その上を歩道橋をわたって反対側に渡れるようになっています。歩道橋のたもとには、記念の案内板があります。かつてここには「戸塚の大踏切」とよばれた開かずの踏切がありました。大磯に自宅を持つ吉田茂が都内に向かう際に、この踏切が開かないので、待たされた吉田がイライラしたという曰くのある踏切です。
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 戸塚駅につながるこの歩道橋群は、かなり規模の大きなもので、あちらこちらに連なっています。どうやら駅前に本陣跡があるはずなのですが、けっきょくわからずじまい。今日の歩きはここまでにします。
 神奈川県の県民性は、どちらというと個人主義的でドライな印象があって、知人の神奈川県民にも同じような印象を持っています。過去を振り返るよりは現在なのか?あまり旧跡に出会うことの少ない道中でした。

周縁と境界の道(東海道を歩く(その2))

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 歩き始めた東海道は、品川宿のあたりも旧跡がたくさん残る場所でした。江戸という町はそれぞれが木戸で仕切られた管理社会です。その江戸から外れた地だからこそ、町内では憚れるとされたことも、おおっぴらに行えたことでしょう。

 鈴ヶ森の刑場跡から本日の歩きを始めます。最初は第一京浜沿いを歩き、途中でわき道にそれると、美原通りという通りに出ます。かつての海苔養殖のなごりでしょうか、商店街のなかにぽつぽつと海苔問屋が数件残っています。平和島大森町、梅屋敷と、京急の高架線を休みなく電車が通り過ぎていきます。そして駅前には、どこにもほどほどにぎわっている商店街があります。そのうちのひとつ梅屋敷駅の商店街にある食堂で食事をとります。
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 このあたりは自分にとって、かつて暮らしたことがあるなじみの場所です。インターネットといった、ひまつぶしの道具もない時代に、ひとり暮らしの気楽さと淋しさを存分に味わった場所です。こういった商店街の賑やかさと人の温度によって時々、寂しさから幾度か救われていたことを思い出します。

 その先、京急蒲田のあたりもなじみの場所だったはずですが、往時とはすっかり違う景色に変わってしまいました。かつての京急蒲田駅は、空港線を3両の電車がいったりきたりするだけで、その都度、第一京浜の踏切では、遮断機が手動で上げ下ろしされていました。どこかのどかだった光景は、いまでは巨大な高架橋とともに電車が空中を抜けていきます。駅と高架橋はまるで要塞のようで、人工的な空間が広がる場所に変わってしまいました。

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蒲田を過ぎたあたりから高い建物はなくなり低層の住宅が延々と立ち並ぶ景色に変わります。高層の建てもので視界が切り取られることもなく、広い空を眺めることができます。蒲田付近よりも、こちらの景色の方が昔からかわっていない。のんびりとしています。ちょうど六郷神社では、幼稚園の帰宅時間とぶつかって、たくさんの園児たちが境内をはしりまわっています。生活感のあふれる光景は、今回の歩きで初めて遭遇しました。


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 六郷橋を渡ると、多摩川の河原にはところどころテントの家屋が建っています。なかには、まるで豪邸のような小屋もあります。その多摩川を渡りきると川崎宿に到着です。川崎にはいろんな旧跡があって、地元でも親切な案内が掲げられていますが、いかんせんそこは街のなか、探しても探しても半分の旧跡は見つかりませんでした。川崎の街中は、さすがに人々がたくさん行きかっています。本陣跡がのこるあたりを過ぎれば、その先は商店街、さらにそれを過ぎると庶民的な食堂や歓楽街に変わります。そのほとんどは雑居ビルに変わっているので、旧い建物はまったく残っていないし、宿場町の風情を求めるのはそもそも無理なようです。


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 川崎の街外れでは、地上に降りた京急線とぶつかります。その場所に八丁畷駅があり、駅のわきには無縁仏を供養した石碑があります。この場所はちょうど川崎宿の外れの位置に当たります。この付近からは、江戸時代のものと思われる人骨がたくさん発掘されたそうです。低地であるこの地では水害も多発したでしょうし、犠牲も多かったことでしょう。行き倒れた人々もいたでしょう。泉岳寺、鈴ヶ森刑場、そしてこの八丁畷。徳川の260年の秩序の矛盾は、こういった境界地域で目立たぬように処理されていて、多くの人は気がつかない。

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住宅街を進むと、この先に鶴見市場駅があります。このあたりがかつて市場村とよばれていたからであって、鶴見市場という名前の市場があるわけではないようです。鶴見川を渡れば、鶴見の街へ入ります。

 鶴見の街は、旧跡に見るべきものは少なくて、それよりは、庶民的な街の雰囲気を楽しみながら進むほうが良いようです。鶴見の街を抜けたあたりに国道駅があります。この薄暗い高架下は、薄暗い闇が魅力的な不思議な空間です。形容するなら、谷崎潤一郎の「陰影礼讚」で述べられているような陰影の魅力でしょう。駅を過ぎれば、住所はすでに生麦となっています。


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 生麦は、幕末の薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件で有名な場所で、開国のあと、排外的な雰囲気も漂う時代の頃でした、当時、欧米と結んだ条約は、歴史の授業では不平等条約とされ、明治政府が克服すべき目標とされていましたが、欧米人の目線になれば、往時の日本国内で彼らの安全が保証されていたわけでもなく、彼らの身を守るには必要な条約だったかも知れません。もっともこのあたり、隣は首都高の高架と巨大なキリンビールの工場が鎮座してとても殺風景な場所ですが・・・。


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 第一京浜に合流した先は、広い道路のわきを歩くばかりとなります。新子安や神奈川新町のあたりに、街道風情はみじんもありません。神奈川宿の位置もわかりずらく、高札場跡を眺めても本陣跡を眺めても、ほんとにそこが宿の中心なのか?というくらい、宿場町の気配がありません。第一京浜を離れれば、やっと宿場風情がかすかに残る道中に変わります。洲崎大神を過ぎ、京急神奈川駅やJR線を超えた坂道のあたりがかっての神奈川宿の中心なのでしょう。途中には、数年前まで地上を走っていた東急東横線の線路跡が遊歩道として残っています。すぐ先はトンネルになっていて、この暗闇も、それは魅力的に見えるのですが、ともかく先に進みます。


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関門跡までで今日の歩きはおしまい。

横浜が開港して、東海道は東京と横浜を結ぶ重要な道ともなりました。だから、このあたりの旧跡は多くが幕末に由来するものです。このあたり、崖の下はかっては海だった場所で、さぞかし見晴らしが良かったと想像するのですが、いまはビルばかりなにもみえません。恐ろしく急な階段で崖を降りると、横浜駅はあっという間です。

楽しい街道歩き(東海道を歩く(その1))


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 久しく、歩いていませんでした。関東あたりの道歩きがつづいたせいか、道歩き当初の新鮮な楽しさが薄れたかもしれません。

 ただしその間、体重計の数値は上がっぱなしで、定期的に通院している医院では、運動をと言われる始末。そういえばおなか周りもなんとなく・・・なんていうわけで、街道歩きを再開です。

 関東近郊もいいけれど、ただ見知らぬ土地、ただ見知らぬ景色の中を歩きたいと思いました。5街道だとまだ歩いていないのは東海道ですから、今度あるくのは東海道で決定。もちろん行き先は日本橋


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 この日、東京駅で降りて日本橋に向かう道は、すでに観光客だらけでした。昔なら百貨店のいくつもの紙袋を抱えた買い物客がいきかうのが日本橋の光景だったでしょうが、いまの日本橋なら主役は訪日観光客と、仕事はリタイアしたような高齢者カップルで、買い物よりは美味しいものを食べたり、そぞろ歩きをしたりして過ごすのが目的です。いつも仕事で訪れる界隈も、つぎつぎと新しいビルが建ち風景が一変したことに、いまさらながら気が付きます。ビルに老舗がテナントとして入居して、かろうじて日本橋らしさを演出しています。


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 銀座の交差点も同じように様変わりしています。有名ブランドのビルが軒を連ねていて、そのせいか日本橋界わいにくらべ意匠を強く打ち出した建物が多いようです。クライアント好みの意匠が壁面すべてに展開された建築物は、眺めるとどこか気持ち悪さを感じるのが正直な印象です。技術の進化によって、建築家やデザイナーが頭に描くイメージを、忠実に建物に再現できるようになったのかもしれませんが、それゆえに、他人の脳内を無理やり見せられている感じ、気持ち悪さの正体はそんなところかもしれません。


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 さらに進むと、汐留あたりで途中の道端には再現された旧新橋停車場がありました。後ろには電通本社ほか汐留のビル群がそびえています。猛烈な勢いでオフィスビルが建ち都心の風景が一変したことの象徴の光景に思いました。

 新橋へ田町へと進みます。都心のようなビルの建築ラッシュはありませんが、どの駅前も、なにかしら新しいビルが建っています。


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 田町駅の近くでは、道脇に西郷隆盛勝海舟江戸開城の談義をしたという場所の石碑が残っていました。このあたりはかって、大木戸とよばれる江戸の町内と外を隔てる門があり石垣も残っています。江戸城を目指す薩長軍が、東海道をつたって江戸の町に入るなら、たしかに、江戸と周囲を隔てる境界のような場所にあたるようで、その先には四十七士が葬られた泉岳寺があります。47士の墓地としてあまりにも有名なお寺ですが、ふと気が付けば見たこともありませんでした。どんなものかと見に行くことにします。


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 こぎれいに整えられた境内の中は、多くもなく少なくもなくといったほどほどの参拝客ですが、ここでは、こぎれいな本堂より義士の墓のほうが目立っています。墓地に入り、線香を購入してから47義士の墓参りをします。主君浅野内匠頭の墓も加わって、ここでの墓碑の総数は50を越える数です。そのすべての墓前に線香を揃えていくのは、実はけっこうしんどくて、体力を使うものだと思いました。途中には「首洗いの井戸」という、吉良上野介の首をあらったとされている井戸があります。元禄時代では、仇討という行為は、そもそもありえない行為になっていました。身に降りかかった損害を、自力で取りかえすという行為は、まだ「徳川の平和」が実現された管理社会になっていない中世的な紛争解決の方法で、47士が行った自力救済という手段は、その意味で天下を揺るがす大事件だったというわけです。

 泉岳寺からは、すこし歩けば、品川駅付近に到達します。学生の頃は、このあたりでアルバイトをした場所でした。そのころは、品川駅はただの乗換駅に過ぎず、巨大なホテル群のほか、これという繁華街でもない町でした。その当時に比べれば、いまや駅前の交通量は、何倍にも膨らんでいます。反面で、アルバイトをしていたころのあか抜けない、のんびりとした雰囲気は、この界隈からはなくなってしまいました。そのころ働いていた店はもうすでに無くなってしまい、そのころ一緒に働いていた人たちもこの場所にはいません。彼らは今ごろどうしているのか?当時が懐かしくなる場所です。


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 さらに進むと、新八ツ山橋へと進みます。京浜急行の踏切があり、とぎれなく電車が通過していきます。朝ラッシュでもないのに、ここは開かずの踏切で、まったく渡ることができません。その踏切を通過したあたりから、かつての品川宿が始まります。かつての東海道は、ここではそのまま地域の生活道路に変わっていて、かつての宿場町もそのまま生活に密着した商店街に変わっています。このあたり、左手をながめると土地が一段低くなっています。広重の版画では、この品川宿は海岸沿いに延びて描かれているので、その一段低くなった先は、かつては海がひろがっていたのだと想像できます。反対に右手を眺めると、一段高い段丘になっています。いわゆる高級住宅街が広がっています。かつてはこの段丘の上は大名屋敷だったそうです。休憩所の方が教えてくれました。このあたりは、韓国料理店が点在しています。昼飯はそのうちの1件に入りました。韓国料理にしては、あっさりとした味なのは、たしかに家庭料理風です。となりの客は、参鶏湯を食べたところ、効能で一週間元気で過ごしたと話しています。思わず参鶏湯が食べたくなります。
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旧宿場をさらに進むと「品川寺」という寺がありました。ここには、巨大な地蔵菩薩が鎮座しています。お寺そのものも由緒のあるお寺のようで、建物の中では一般の人たちが写経?をしていました。立合川のあたりは、どうやら坂本竜馬にゆかりのある土地のようです。駅の近くには立派な竜馬の銅像がありました。
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西郷勝海舟の談話といい、江戸の大木戸や、47士の泉岳寺、この場所は江戸の町と外を隔てる境界の場所だからこそ、竜馬のような素性の定まらない浪人がうろうろ活動できた、うってつけの場所だったのかもしれません。反対に、江戸末期の当時に来日した欧米人にとっては、品川は危険な場所であまり通りたくない場所だったと、訪日の記録には書かれています。立会川を過ぎればにぎわっていた旧道沿いも、次第に殺風景になっていきます。そして、第一京浜と合流します。その旧東海道がぶつかるあたりに、かつての鈴ヶ森の刑場跡が残っています。このような刑場という施設は、境界に置かれる施設の代表で、このあたりが当時に江戸と外を隔てる境界のような場所として意識されていたことを示しています。


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 今日の歩きはここまでです。もう少し先まで歩くつもりでしたが、思いのほかこの品川宿かいわいは旧跡が多く、街道歩きの楽しみをたくさん感じられる場所で、この先の川崎宿、さらに神奈川宿保土ヶ谷宿も期待が膨らみます。

内面は譲り渡さない(映画「1987ある闘いの真実」)

『1987、ある闘いの真実』2018年9月8日(土)シネマート新宿他、全国順次ロードショー!

「1987ある闘いの真実」という韓国映画を見ました。この前に光州事件をとりあげた「タクシー運転手」は、ふだん映画を見ないわたしにとって、とても衝撃をうけた映画でした。

軍隊が自国民にたいして銃口を向け発射すること。しかもそれがたかだか30-40年ほど前まで隣国で行われていた出来事だということに衝撃をうけました。最近でも、朴政権を弾劾し、あらためて文大統領を選びなおした、韓国民衆のデモクラシーの根っこはなんだろうとも思ったのです。
 「タクシー運転手」では、義に目覚めていくタクシー運転手の心理が中心でしたが、こちらの映画では、むしろ映画での悪役である独裁政権側のありかたが、詳しく描かれていました。主人公は、「アカ」とみなした共産主義者を取り締まる組織の局長で、独裁政権の権力者にとりわけ近い場所に居ます。恩義があるためでしょう、脱北者の彼はふるまいも思想も独裁政権に忠誠心をもっているし、だから共産主義者とみなし取り締まる対象には際限がない。だからこそ、彼らは身に覚えのない容疑で拘束された被疑者を、拷問にかけ殺してしまいます。
 また、この映画では、独裁政権の側近たちと、公務員たちのせめぎあいの場面も多く描かれています。被疑者の若者の死が拷問であったことを隠したい局長側と、あくまで法にのっとり事実を明らかにしたい検事、あるいは、刑務所に収容された部下と面会し暴力により脅しをかける局長たちに、刑務所の規則にのっとった行動をとるよう暴力をうけつつ抗議する刑務所の長。それは、正義感というよりは公務員としての職務に、忠実であろうとするからの行動です。権力者の後ろ盾をかさに、刑務所であろうが教会であろうが寺社であろうが新聞社であろうが、暴力をもって入り込んでいく局長たちの姿がたくさん映画では描かれています。市民を監視し、疑わしいとみれば日常にずかずかと入りこみ暴力をふるっていきます。もうひとりの主人公でもある大学生の女性も、たまたま居合わせたデモの現場でで、デモ隊の仲間とみなされ執拗に追いかけまわされます。なにが恐ろしいかって、権力側が、日常に踏み込んでいくその恐ろしさでした。
 一方で、権力者が持っている強大な暴力とはうらはらに、かれらは猜疑心の塊であり、だからこそその組織は以下のような原理で繋がっています。
・構成者の信頼関係でなく、組織の上下関係を梃子にした支配と服従によって集団は結びついている。
・構成者の外形的な服従だけでは不安である。内面までの権力側への無限の忠誠が求められる。
・権力と「一体化」した自意識こそが行動原理。権力者との近さこそが、法や組織の規律よりも優先される。
・上位からの命令は、下位の構成者にとって公私の区別がない。上位からの理不尽な要求が下位の構成者に押し付けられやすい。
・上位からの命令が、ほんとうに権力者本人からのものか?いわゆる忖度によるものかわからないこと。
想起したのは、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」丸山がここで述べている、日本での陸軍の行動原理ににているのです。映画でも、権力者の全斗煥は現れず、局長たちは、指示(とされる)命令を上位から伝え聞くばかり。中心が空虚なのです。
 戦後の韓国史と日本の戦後史のかかわりは、せいぜい朝鮮戦争の勃発で日本が特需に沸いて、戦後の復興を支えたくらいしか教科書では教わりませんでしたが、日帝の植民地支配が巡り巡って、韓国の独裁政権の行動原理にまで影響を与えていることを知り、戦慄しています。
 しかし、ひたかくしにしてきた拷問死は、検事や、刑務所、それぞれの良心がリレーされて、権力の監視の網を潜り抜け公になります。それは、やがて独裁政権を倒し、民主化宣言を勝ち取る動きの種になるのです。外形では服従しても内面までは独裁政権に譲り渡さないという意思が映画でも描かれています。時の権力や社会、時流によってころころ善悪が変わるのではなく、もっと深い普遍的な善悪の価値観を韓国社会が持っているように見えます。その価値観は、残念ですが日本の社会には存在しないものです。

 それにしても、「タクシー運転手」にせよ「1987ある闘いの真実」にせよ、独裁政権の暴力を受けるのは大学生が多くて、息子とちょうど同世代なのです。自分にとっては、なかなか見るのがキツい場面の連続で、映画館でずっと泣いていました。

やっぱり河に寄り添っている(北関東の諸街道15)


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 いよいよ、日光街道からの歩きも今日でおしまいです。ただ、自宅にほど近い場所ゆえ、身近な景色を進む行程には、ゴールという高揚感はなかなか生まれないものです。
さて、越谷駅にほど近い宿場町の近くから再び歩き始めます。越谷駅の南側には、目立つような名所旧跡はなくて、自宅の周辺を歩いているのとそう変わりない住宅街を進みます。
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武蔵野線をくぐるあたりで少し脇の方向を眺めると、鉄道コンテナがたくさん積まれている一角があります。JRの貨物駅です。当初は貨物線として開業したことからもわかるように、この武蔵野線のあたりは、首都郊外の物流基地として賑わっていたし、大規模な操車場もありました。物流の主役が道路輸送に変わっても、この貨物駅は割と賑わっています。少し進むと、じきに綾瀬川に沿っての道となっていて、川岸には釣り糸を垂らす人が点々と居ます。この綾瀬川は、かつては全国1水質の悪い川とされたこともあって、ながめても確かにきれいな流れではないのですが、単調な住宅地を歩くのに比べれば、視界が開けて楽しく歩けます。

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川沿いをさらに歩けば、松原が始まります。この立派な松原はとても規模の大きなもので、ご近所の人たちの恰好の散歩コースになっていて、この日もたくさんの人たちが歩いています。奥州街道由来の松原を、最近になってきれいに整備したもののようです。途中には、車道をまたぐ太鼓橋風の立派な歩道橋があって、その歩道橋の上から街道とあるく人を眺めると、どこか往時の賑わいを想像できそうな気になってきます。途中には、松尾芭蕉の石碑や望楼のある一角があって、河岸公園とよばれています。その公園の由来を眺めていてはっとしました。このところ、夏になるとどこかで水害が起きます。今年は西日本で水害がありましたが、こと関東については、不思議なほど水害は起きていないし、縁遠いものと決めてかかっていました。
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ですが、この公園の由来を読めば、ほんの30-40年くらいまで、この地ではときどき水害が起きていたそうです。公園そのものが、治水対策も兼ねているそうです。

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 この公園の近くから、かつての草加宿が始まります。旧宿場の雰囲気が残る街道沿いのそこかしこに、せんべい屋が軒を連ねています。ここでそのうちの一軒にたちよりました。それほど大きな宿場ではなさそうですが、それでも旧い旧家などがぽつぽつと残っていて、旧宿場町の雰囲気は十分に感じられます。
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その草加の街を抜け、埼玉県から東京都内に入ります。ここでいきなりガラッと雰囲気が変わるわけではないのですが、それまで、草加では沿道の住宅が庭付きのものであったのが、都内に入ると団地が立ち並び、ほとんど庭のない長屋のような一軒家が立ち並ぶ風景に変わります。
どちらかというと、浅草などよりも、こういったごちゃごちゃとした小さな家が並ぶ住宅地の雰囲気こそ、わたしにとっては典型的な下町という雰囲気を感じるのです。そういえば「男はつらいよ」シリーズで、寅さんの妹さくらの家族が購入し住んでいた家も、このような典型的な長屋のような狭い一軒家でした、また、下町に住んでいた母の従妹の家に小さいころ遊びにいったその家もまた、隣の家とくっついているかのような、長屋のような一軒家だったのを思いだします。
 さらに歩いていくと、生活感のあふれる通りになります。平坦な地形もあって、年寄りたちがみんな自転車で通り過ぎて行きます。その多いこと多いこと!歩行者と自転車の割合は半々という感じでしょうか。活気を感じます。
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梅嶋駅の高架をくぐり、進んでいくと、前方をふさぐように大きな堤防が現れます。荒川の堤防です。土手に上がりながら堤防を進むと、左手には、常磐線とつくばTX線、千代田線、東武線と、線路が並んでいて、ひっきりなしに電車が通ります。この線路がすべて北千住駅を経由しているのです。これだけの線路が集積している場所は、山手線沿いの駅を除けば、北千住くらにしかないのではないでしょうか?川を渡り反対側の堤防からながめた千住の町は、ずいぶんとごちゃごちゃして見えます。

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 品川、内藤新宿、板橋、千住と5街道沿いの宿のなかでも、千住の宿は最大の規模を誇ったそうで、街道沿いの商店街は、そのまま現役の賑わいを保っています。この雰囲気は、東海道中山道の交わる草津宿の雰囲気とどこか似ているようにも思いました。
千住宿の街はずれには市場があります。このような市場の立地には、繁華街から遠からず近すぎずといった距離がちょうどよいのでしょう。この先、千住大橋隅田川を渡るのですが、首都高が視界を遮り眺めはよくありません。渡った先の南千住では、真っ先にJRの貨物線を横切ります。市場も貨物線も、けっして街のど真ん中に立地できないけれど、かといって繁華街とかけ離れた郊外に設置することもできない。都心と千住あたりの距離感というのは、車社会が到来する以前の絶妙の距離だったのだろうと思います。

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 さらに、浅草の裏手をまわるように進みます。このあたり、日曜の午後ということもあって、恐ろしいくらい人通りも車の交通量も少なく、車自体が音を出さなくなっていることもあって、静かな町です。観光客の姿を見かけるようになると、浅草の街に入っていきます。直近の地震で減ったとされているようですが、それでも現在の浅草の観光では、主役は訪日観光客です。その賑わいで歩くのもままなりませんが、それも浅草寺の周辺に限られるようで、その観光スポットを離れれば、一気に人通りが少なくなります。
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浅草橋を抜け、馬喰町の問屋街を抜け、どちらも日曜とあってまったく人の姿が見えません。小伝馬町や大伝馬町のオフィス街もまったくひとの姿が見えません。このあたりは、普段の通勤先にも近く、平日の有り様をよく知っているつもりですが、日曜の静かな光景は、普段とはかけ離れたとても静かな様子でした。その人気のないオフィス街を曲がれば、とつぜんのように人通りがわんさかと増える。三越本店が見えると、まもなくゴールの日本橋です。観光客と買い物客でいっぱいの日本橋から川を眺めると、水上タクシーと称する船が浮かんでて、観光客を載せています。

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 傍らには「日本橋魚河岸跡」という石碑が立っていました。現在の築地市場が設置される前の魚河岸は日本橋にありました。これまで歩いてきた関東各地の河岸から運ばれる船の行き先も、その多くは日本橋でした。江戸の町、とりわけ日本橋が、その後背地ともいえる、関東各地の河岸や河川交通と密接に繋がっていることが、日光街道を歩くとよくわかります。まもなく、魚河岸は築地から豊洲へと移転します。都心の局所では江戸文化が見直され、局所では観光客でにぎわっている一方で、一歩離れれば都心はとても静かなもので、人々が普段の暮らしを営む空間としての路上の賑わいは、全体として都心の街から失われつつあるように見えました。
 さて、日光街道をゴールし、いわゆる五街道のうち東海道が未走破のまま残りました。今回は、江戸に向かうルートをとりましたが、いかんせん職場や普段の普段の生活空間とも繋がっていることもあり、この場合だとゴールに向かうわくわく感には欠けるようです。この次に歩く東海道は、やっぱり江戸から京都への向きで歩くことにします。

河に寄り添って(北関東の諸街道14)



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 街道歩きも次第に日本橋に近づきました。那須や白河に向かうなら、早起きしてながながと電車に乗り・・なんてところですが。今回は、すべて埼玉県内を歩くルート。すぐに目的地の栗橋にたどり着きます。たどりついた栗橋の街は、宿場と駅とは少し離れています。利根川の堤防のたもとにある、かつての宿場町にはあまり人気もありません。宿場町の片隅にある神社は、スーパー堤防のために移転するらしく、やがてこの宿場そのものがスーパー堤防に埋まってしまうのかと心配になります。

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 宿場を離れ、隣に行幸湖という沼を眺めながらの行程になります。この細長い形状の沼は、かつて川筋が、河の流れと切り離された結果できたものです。強い日差しがさしこむ中、湖畔の堤防に植えられている木がちょっとした木陰を作っていて助かります。

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行幸湖からはなれると、典型的な田園風景が広がります。そういえば那須や白河を歩いたころは田植えの季節でしたが、いまではすっかり稲穂が伸びています。これまた典型的な田園集落の途中には「つくば道」と記された追分があります。日差しの強い中を歩くのは消耗します。幸手の街につく頃にはへとへとの体。昔ながらの商店がちらほらと残る商店街は、どこか懐かしさの残る街並みです。その一角にある小さな公園で休憩します。
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幸手の街を離れると、その郊外は、田園風景と住宅が入り混じる風景になります。このあたりで、日光脇往還の道と離れ国道4号線に合流します。名の知れた外食チェーンが軒を並べる 道沿いは広い歩道があるけれど、上から日光にさらされ、下からは照り返しにさらされる、歩いていてつらくなる道です。その国道を別れれば、すぐに杉戸のまちにたどりつきます。
 
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杉戸の街は、東武の駅から離れているせいもあって、比較的古い建物の残るまちでした。
この街も川沿いに広がっています。ただ、低地にできた街は水害に脆弱なようで、電信柱にはカスリーン台風の被害を受けたことをしめす標識が取り付けられていました。ここで昼食とします。
杉戸から粕壁へむかうころあたりは曇ってきました。強い日差しがやわらぐならむしろ大歓迎というところです。国道4号の沿道に、名所、旧跡の類はすくなく、ここも疲れがより増しそうな道です。
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一軒だけ立派な門を構えたお寺を見かけました。が、近くに寄ってみると門の仁王さまは腕が取れ塗装がほとんど剥げています。寺の庭もあまり手入れが整っているように見えませんでした。この寺だけでなく、総じてこの辺りの旧家旧跡は、維持や補修に手がかけられいていないように見えます。それが残念なところです。
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 粕壁の街も川を取り囲むように街が広がっています。人通りは少ないが旧い町の奥行きと広がりで、そこがより大きな宿場町であったことがわかります。少し前まで通り沿いにあった百貨店が閉店したことも影響しているのか?かつては賑やかだったろう中心商店街のさびれぐあいは、むしろ杉戸や幸手よりも深刻に見えました。かつての百貨店の建物は家具のショールームになったようですが、家具のショールームがそもそも賑わいをうむわけもありません。ただでさえ人通りのすくない街のなか、そのショールームの周りはさらに人がいない。無人地帯のようになっています。まるでニーズがなさそうに見えるこの場所に、なんで巨大な家具のショールームだったのだろう?と首をかしげたくなりますね。


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粕壁からは、ひたすら国道4号沿いの道を南下します。
ごく近くを走る東武線の影響からか古くから宅地化されたこの付近は、住宅がびっしりと立ち並んでいます。まるで自宅近くの住宅地を歩いているのと変わらない風情です。
その東武線は、立ち並ぶ住宅に隠れて見えません。それでも少しずつ風景の変化はあるもので、住宅が立ち並ぶ一ノ割駅のあたりを過ぎ、武里駅のあたりから河川(用水路みたい)が並行してせんげん台のあたりで、これまた別の河川と並んでいます。変化が少ない景色の中で目立つのは、河や用水路の類の非常に多いことです。
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 たどりついた越谷の街も、街の真ん中を元荒川が流れています。いや、このあたりの街はすべて、河川と結びついて成り立っているのがよくわかります。幸手や杉戸、粕壁と南下して、もはや越谷の街にそれほど古い町並みはのこっていないのでは?と思ったところでしたが、そうでもありませんでした。旧い街道情緒はみじんもないのですが、ぽつぽつと土蔵作りの建物が残っている。しかもいまだに現役の金物屋として営業していたり。これにはびっくりしたのです。

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 今日の歩きは越谷までで終わり。次第に都心と近くなることで、あまり風情は感じませんでしたが、河川から湖沼用水路まで含めれば、限りなく水にかかわる景色を眺めたのが、今日の道のりでした。ゴールの日本橋はかつての五街道の起点ですが、その一報で、日本橋の魚河岸に物資を運ぶには水運が欠かせませんでした。その水運をささえたのが、今日通り抜けた、河川に設置された数えきれないほどの河岸です。それは、中山道甲州街道を歩いてもわからなかったことで、日光街道だけが感じとれる部分のようです。

抵抗すること(映画「タクシー運転手」)

映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』公式サイト

80年代の頃、韓国の民主化運動がかなりニュース報道で取り上げられていたことを覚えています。大学生たちが路上で抗議をしては警官や軍隊に排除される。その繰り返しでその実情は報道ではよくわからない。光州事件という出来事も知ってはいても、いかなる様相だったのか?国内報道を見てもわからないままで、韓国現代史での意義もあまりピンと来たことがなかったのです。
現在「タクシー運転手」という映画が各地で上映されています。光州事件を潜入取材するドイツ人記者と彼を乗せるタクシー運転手の実話をモチーフにしています。カネに困っている運転手は、お金さえ貰えれば、あとは適当に付き合えばいいと考えていました。なにしろ光州が封鎖されていることさえ知りません。

ですが、潜入した光州のはケガ人が大量に病院に運ばれる尋常でない光景。そして、封鎖された光州の街で丸腰の大学が次々と軍隊の的になって倒れてく光景を目の当たりにします。人なつっこく、彼とドイツ人記者に接してくれた人たちも次々と銃弾や暴力に倒れていく。通訳も兼ねて同行してくれた若者も犠牲となる。適当に付き合ったらソウルに逃げようとした運転手は、抵抗運動にかかわっていくように変わっていく。

封鎖された街で、銃の前に出ては撃たれる人々。逃げ遅れて軍隊の暴力にさらされる人びと。けれど独裁政権下では、テレビでも新聞でも暴徒と書かれています。光州の実情を街の外の人々は知らないのです。封鎖される街と独裁政権、その恐ろしさが感覚として迫ってきます。

けれど、人々は一方的に逃げまわってばかりの存在では有りません。多数の市民の犠牲者がいると言うことは、それだけ、尊厳をかけて独裁政権に抵抗する市民がいることの裏返しです。記者と運転手を怪しみながら見逃す軍人もいるけれど、彼らはこの映画ではきわめて非人間的に描かれています。

もしも、日本映画ならこうは描かれないだろうなとも思いました。映画「大魔神」の中に革命の物語を見出したという記事を、かつて書いたことがありました。大魔神は農民の願いを具現化した存在だけれども、農民たちそのものが悪者に抵抗するわけではありません、農民たちはひたすら超越的な力(大魔神)にすがります。ですが「タクシー運転手」に描かれる市民の抵抗はそれとは違う。軍隊の恐怖をものともせず名も知れない市民が抵抗するのです。韓国の民主化運動では、2人の政治家金大中や金永山が有名かも知れませんが、韓国の民主化運動というのは、こういった無名の市民の抵抗が基盤だったのだと思い知りました。
とても良い映画でしたが、見終わって劇場を出る頃にはくたくたになっていました。魂を揺さぶられる。というのはこういうことを言うのだろうと思ったのです。