メディアとの付き合い方

 大手マスコミ批判が、ツイッター上では華やかです。私自身も、たまに読んでいて首をかしげてしまう記事、批判そのものが目的化した、ご都合主義みたいな社説に出会うと、なんかおかしいなあと思います。そう思いながら「日本の近代」というシリーズの一分冊「メディアと権力」という本を手にしました。この本で取り上げられているのは、藩閥政府から、戦前や戦中にかけての政治家たちと、新聞やマスコミのつながりが書かれています。
 日本でのマスコミの勃興は、明治政府すなわち藩閥政府がおおいに関与しています。どうやらあまり実状もよくわからずに、欧米に見習い、政府が音頭をとって、新聞制度をこしらえたようです。こしらえてから、これは自分たちに刃向かうこともありうることに気がついてから、マスコミ対策というものが始まったようです。当初は、政府を批判する新聞は、かたっぱしから発行禁止の処分を行う荒っぽいものですが、そのようなやり方が、けっして自分たちを利するわけではないことに、気がついたのでしょうか。政界工作や権力闘争のひとつとして新聞社や記者を利用する方向に向かったようです。
 たとえば、経営の悪い新聞社を買収して、党の機関紙化したり、血脈の通じた記者や、知人を経営者に送り込み、政敵をやっつける使い走りのようなやり方が、日常茶飯事となったようです。不偏不党などということはなく、新聞にも、はっきりと政友会系、民政党系という色分けがあります。そこから、戦時中のさまざまな統制条例によって、今のような一県一紙のような状況に至るようです。なお、悪名の高い記者クラブ制度などもこのころに確立されたようです。
 新聞といえど民間企業。権力批判も、それが部数拡大につながらなければ、腰砕けになる。朝日新聞などは、戦争にたいして当初批判的だったのが、政府の方針と迎合的な上層部の判断から転向して、現状追認的になっていく。今では、表
だって新聞記者が政界工作に暗躍するというのは、ナベツネさんが代表的でしょうか?彼も政治家の番記者からのし上がった記者出身ですよね。記者クラブのような制度、組織としての新聞社は不偏不党でも、取材対象と記者本人があまりにも密接した関係では、記者本人が不偏不党とは限らないでしょう。番記者たちがいいように政治家に使われていたとしても不思議はなく、ナベツネさんのように、番記者が政治家の権威をかさにして獲得した政治力をつかって、社内でのし上がろうとするのも別に不思議ではないです。
 いまの日本は、独裁国家ではありませんし、権力を批判したといって、ただちに牢屋に入らされるような国ではありません。報道された記事そのものに、事実のねつ造はないと思います。ただ、記事の大小の割り付けや、記者キャスターが述べる論評には気をつけたいですね。おおいに作為が入っているはず。うのみにしてはならないと感じています。