関東平野の地形と権力のかかわりを考えた

 「中世から道を考える」という新書を読むと、印象的なことは、関東平野に流れる河川群が橋が整備された現在からは考えられないほどの交通の障害であったことや、川を渡る方法は舟であったり、「舟橋」と呼ばれる舟をつなげて橋を造る方法が主流のようでした。さらに、幕府がもうけられる前から、すでに江戸はある程度栄えていたこと。

の三つです。

 交通の障害であったことは、平安時代平将門が反乱を起こしたのが、河川だらけの下総の地であったことからも想像できます。攻められたときに川向こうに逃げてしまえば、あるていどの防御はできるだろう。ゲリラ戦のような戦い方を行うのにも有効だったのではないか?と踏んでいます。事実、足利幕府の目の届かなくなった、中世の北関東では、後北条、上杉、武田の勢力があいまみえる争いの地になっていくのですが、雪解け水による河の氾濫は、それぞれをかなり苦しめたようですし、北関東の地からは強力に統一支配をなしえた有力大名は輩出されなかった。これはどういうことか?広い関東平野は平坦だけれども、河川により分断されていて、支配が難しいところなのですね。

 だから関東では、幕府も後北条氏も、なんで鎌倉とか小田原とか関東の隅っこに、統治機構をもうけたのだという疑問があるのですが、当時の地形とか交通のことを考えるとおおかた想像がつきます。そして、江戸が関東の中心になっていくのは、治水技術が向上して、河川を渡ることが障害とならなくなっていくのと連動していますね。

 ですから、家康が幕府をたてるまで、江戸の地は草ぼうぼうだったということ、さらには、秀吉に左遷されたので江戸に来たというのも、実は豊臣家を滅ぼした徳川が正当であることの後付けの理由のように感じます。中世のころから日本列島を統治するのに、関東は肝となる地であったように思います。関東平野を統治できることが、時の権力者を安定させるけれど、この関東平野を治められなくなったときに、権力者は衰えてくるという方程式めいたものが日本の歴史にはあるのではと思います。