歌舞伎の台本とTwitter

 歌舞伎の台本を作り、舞台にするまでの行程というのは、全体を統括し監督する「立場」の人間が当然のように存在するものだ!と考えがちな前提をぶちこわすものです。歌舞伎の役者たちは、まず自分の役どころを飲み込み理解はしますが、台本の全体を知ることはないのです。狂言作家は、歌舞伎の台本を作りますが、稽古が始まればその台本は、つど瞬時に変えられていく。劇の全体が存在するのではなく、まず自分があってから、全体がある。私たちは江戸時代のことを、まず「お上」の言うことに黙って従う庶民という見方でみるのですが、実は違うのです。

 ツイッターなんかも、個人のつぶやきがまず存在する。というところが新鮮で、歌舞伎が演じられるまで段取りとか構造ににているのでは?と思いました。だから、これは決してSNSの登場によって初めて生まれたあり方ではなく、かつて日本の歴史上に存在した、江戸時代の町人社会の実態が可視化され、再発見したものなのだと思います。 ただ、現在の「ビッグデータ」の理解のされ方は、私にはどこか違和感がありますね。どこか「一定の傾向を持つ」というふうに理解されがちで、単一ではないことが抜け落ちているのではないかとおもいます。一定の傾向を持つ=法則性を抽出するだけなら、それはデータマイニングとなんらかわらない。本質とは違うのではないか?と思います。