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「東西豪農の明治維新」を読む

「東西豪農の明治維新」という本を読みました。読み物として幕末を描いた本は、掃いて捨てるほどありますが、豪農という存在に着目した本を読むのは初めてですね。

 豪農というのは、農村内でも指導者的な存在で、意見をまとめて、藩との交渉を行っていました。江戸末期は、武士の権力基盤がぐらつく反対に、彼ら豪農たち自身が力を付けていった時代でもあったようです。激変していた時代に、いろいろな書物や考え方に触れていく彼らは、農村部の知識階級でもあります。

 この本では神奈川の豪農と山口の豪農が取り上げられています。どのようにして自分たちや村民の暮らしを良くして、守っていくのか?ということに豪農たちが悩んでいることや、維新後の新制度に悩みながら対応していく様は、どちらにも共通しています。たとえば、農業にとって大切な水に関する争いごとなどは、江戸時代でも明治でも農村部では重要な問題でした。江戸時代の訴訟ごとは、法とは別に情状酌量という考え方が大きく入り込んでいますが、明治になると、訴いごとは法通りに解釈することが多くなる。それを「薄情な世の中になったものだ」と、彼らが吐露する記述もあります。

 維新後の東西豪農のあり方は、大きく分かれます。神奈川の豪農は自由民権運動に関わっていき、藩閥政府でない政府をこしらえていく。その中で農村の暮らしの改良を考えていたようです。もう一方の山口の豪農は、明治政府の中枢にいる有力者とのこねをてこにして、自分たちの暮らしを改良していこうという動きにつながっていきます。関東地方では、新しくやってきた長州や薩摩の藩閥政府は、どこか「占領政府」のような存在でもあったでしょう。藩閥に反対する自由民権運動は、どこでも盛んだったようです。

 自由民権運動は、藩閥政府と反対する自由党や改進党の争い集約されてしまいますが、そうではない、豪農たちや庶民たちの政治運動、という民権運動の側面を無視してはいけないのではないか?ということです。

 現在、押しつけ憲法論を主張する人たちと、その反対に日本に民主主義はなかったという人たちがいます。彼らの主張は、一見相反する主張のようですが、実は鏡の裏表にしかすぎない。自分たちの暮らしの問題を、話し合って決めて解決していく、暮らしに密着した農村部の民主主義の伝統は、実は日本には存在するんだということ。このことは絶対に忘れてはいけないのです。

東西豪農の明治維新―神奈川の左七郎と山口の勇蔵 (塙選書)

東西豪農の明治維新―神奈川の左七郎と山口の勇蔵 (塙選書)