信濃路を巡る(二日目)

信濃路を歩いて巡る旅、二日目は望月宿からです。

八月とはいえ、長野の小中学校はすでに二学期が始まっているから、現地はまったくの日常モードです。観光客などいませんし、同泊は工事で滞在しているらしい作業仲間のグループでした。地方の旅館は本当にこのような人たちによって支えられているなと実感します。

 寂れているわけではないですが、望月の街はほんとうに静かで好ましいですね。町中にバイパス道もなくて、車の量が少ないことが原因なのでしょう。

 街はずれの神社を巡ってから、坂を登ります。ところどころで車道と旧道がついたり離れたりを繰り返します。昨日ほどは迷いません。登りきると、間の宿とよばれた茂田井へ到着です。ここは江戸から続く造り酒屋が二件も残っています。また古い建物も相当残されていることに感心しました。見学したいところですが、時間がはやすぎてあいていませんでした。

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 実は茂田井から次の芦田宿まではほんのわずかです。途中に眺めのいいところがあって、遠くを山が連なっていて、手前は起伏のある丘の上に家が点々と見える。ここが関東ではないことを実感させられる景色ですね。

ついた芦田宿のには、朝顔が盛んに植えられているのが印象的です。望月宿はどちらかといえば、盆地にある宿場街ですが、芦田宿は高原にたつ宿場町で、隣あいながらも受ける印象はだいぶ違います。

 芦田宿からはいよいよ笠取峠越えに入ります。ガイドでは松並木が広がるとありますが、峠の頂上まで松が延びているわけでなく、松並木はあくまで途中までです。かなり規模の大きな並木で、かつては、途中には茶屋があったようです。残念ながら峠の上は車に囲まれながらの頂上で、ほとんど風情にはかけますね。

 笠取峠から降りる旧道は、バイパスと合流したり分かれたりを繰り返しています。標識はあるのですがやっぱり迷いますね。と行っていたらなんと!山中を歩く、おじいさんと孫の二人連れに遭遇、麓までまだまだ距離のある場所ですから、これはほんとうにびっくりしました。

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それくらい周りは、人家のない場所です。

 峠を降りて、近くの神社を通ると絵を描いているおじさんが居ました。聞くとやはり中山道巡りをしているそうです。ふた言みこと会話をして別れると、長久保の宿に入ります。長久保の宿では中山道は、途中で鍵のように曲がっています。ここも静かな街で、お昼なのにとても静かな街です。

 ここから和田宿までは、峠越えのない平坦な道です。しかし、両脇には山がそびえる。まさに広重の浮世絵をほうふつとさせる山の形です。広重の絵では、圧倒的な存在感を山が見せていますが、これは歩いてみると本当によくわかります。和田宿までの中山道では、本当に両脇を占める山々の存在感がものすごいのです。

 バイパスと別れると、和田宿までは旧道をずっと通ります。それにしても、周囲は、若い人はいないわけではないのだけれど、老人ばかりですね。そして、老人たちがおしなべて元気がいいのに、とても感心しました。自宅近くの住宅街で、老人たちは要塞のような家に閉じこもるけれど、ここの老人たちは、朝も昼もせっせと外にでており、道ばたで話し込んでいたりする。それは、田舎は過疎で淋しいものという、私の先入観を覆すものです。けれどここでは、人は少ないものの、不思議と淋しさを感じない。これは軽いカルチャーショックでした。人がいくら多くても、朝の通勤電車では恐ろしいほどに静かで、孤独や淋しさを感じることがあります。

 和田宿では、復元された本陣や、旅籠などが資料館として解放されています。地元の老人の方が案内をしています。ここでは、車で訪れたのか夫婦連れが見学していました。このような夫婦で気になるのは、奥さんは案内の人といろいろ話し込んだり質問したり積極的なのですが、旦那のほうはむすっとしていて・・けれど奥さんにたいしては妙に指図がましかったりとずいぶん偉そうです。いやな印象を持ちました。とはいえ展示はとてもおもしろいですね。案内の人も、いろいろ聞いてみるといろんなことを教えてくれる。ここでは幕末の公武合体の話をしてくれました。

 和宮が京都から江戸に行ったのは、この中山道を通ってきたのです。そして和田宿の本陣にも泊まっています。身分にやかましい当時ですから、和宮を上から見下ろしてはいけない、二階だてではない。とか当時の大名は風呂は自前で運んでいくとか、トイレは一回ごとに片づける。夜昼寝ずの当番がつくとか・・どれもこれも殿様

姫様の安全を考えてのことでしょうが、まあ物々しいことです。

 それはそれは、和宮の道中はそうとうの規模だったそうです。2万人の行列ですから、道中2宿分くらいの道中がすし詰め状態なわけです。今なら産油国の王家の行列がものすごいと話題になりますが、ちょうどそのようなもの立ったのでしょう。

 宿場の維持については、江戸幕府では助郷という制度がありました。大名や大きな集団が街道を通る場合は、近隣の百姓たちはかり出されるのです。和の宮の場合は、そうとう遠方の百姓も駆り出されました。鬼無里村という信濃の遠方からも駆り出されたそうですから。どのようにして

成り立っていたのかとても興味ぶかいです。

 和田宿のバス待ちでは、同じように中山道歩きの人に会いました。本当は下諏訪に抜ける予定が、運悪く天候が悪くて、和田で道中がおわりだとのこと。宿を諏訪のほうにとっているので、大回りして諏訪に行くのだそうです。足しかに和田と諏訪の間は、まったく交通機関がない。歩けば一日ですが、交通機関を使うとまったくの大まわり、現代は便利なのか不便なのかわかりませんね。

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 本日の行程は和田宿で終わりです。民宿では先ほど長久保の神社で行きあった人とばったり一緒になりました。神戸の方で二人連れで歩いているそうです。街道歩きも手慣れたもので、神戸から江戸へ東海道はすでに踏はしている。今度は江戸から中山道を歩いているそうです。関西からは、佐久から諏訪に抜けるこのエリアが体感的に一番遠いらしいです。明日は和田から諏訪に抜けるだけでなく、さらに塩尻まで行くとのこと。これはすごいですね。天気も怪しいので、民宿の主人のかたに聞くと、和田峠越えそれほど道はあれていないとのことで安心しました。宿には和田峠越えに関する本がちらほら。おもしろく見させてもらいました。ここでも、宿は工事関係で滞在している人たちが泊まっています。