生きるための希望

 数日前ですが、帰国子女の方でしょうか、日本に帰ってきたときに、人々の目が死んでいるなと感じたというツイートを目にしました。毎日の通勤電車の中で、周りの人たちの顔を眺めて、私も同じようなことを感じるときがあります。車中では皆スマホをいじりながら、通勤時間をつぶしてるのですが、下を向いてせっせとスマホをいじる人たちの表情に、生気のなさを感じることもあります。「目が死んでいる」とツイートした方も同じように感じたのかもしれません。

 村上龍さんの「希望の国エクソダス」という小説では、物語の佳境でポンちゃんという主人公が「この国にはいろいろなモノであふれているけれど、希望だけがない」という言葉を日本の国会で語るシーンがあります。今の社会には、皆に共通するような希望はもうない。というのが正直なところで、近代化の終わったこれからの時代、それぞれ個人がそれぞれの希望を見つけて、生きていくしかないのだということ。これは村上龍さんも、エッセイなどでたびたび述べている言葉です。

 世間では、衆議院が解散して選挙運動が始まりました。議員さんたちは、自らの行ってきた政策を「この道しかない」といい、みんなに共通の希望があるかのように語りますが、道を決めるのはもう私たち個人の中にしかない。けっして議員さんたちが決めることではないはずです。かといって、それぞれ個人が、それぞれの希望を見つけるって、どんなことなのでしょう。

 最近、朝の通勤中に、街角でビッグイシューという雑誌をよく購入するようになりました。この雑誌はホームレスの方々が、決まった住居に暮らせるようにして、生業をもって暮らせるようにする自立支援のための雑誌で、ホームレスの方々が街角に立って販売しています。彼ら販売員の多くは、決まった家に住むこともできませんが、彼らには、ともかく雨露をしのげる住まいで寝泊まりしたい。という明確な目標があるのです。彼ら販売員に代金を渡すときに、ほんとうにきらきらとした希望に満ちた表情を受け取れるので、雑誌のほかに不思議とありがたいものを貰ったような気分になるのです。

 彼らの希望は、ささやかなものかもしれませんが、とりかえのきかない彼自身のものです。本当の希望とは、そんなそれぞれの個人の中にしか、生まれないものだと思います。