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近代人と前近代人の対話(橋本治と内田樹)

橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

橋本治内田樹」一年前に読んだときは、どこかピントこなくて、すべてを読むことができなかったんですよね。最近、二回目に読んでやっとすべて読むことができたんですよね。

この二人の対談は、喧嘩ごしになるわけでもなく、だからといってなあなあの雰囲気になるわけでもなく、いたるところで、近代人である内田さんと、自称前近代の人である橋本治さんの違いが、最初から最後まで際だっています。

まえがきの内田さんによれば、作家としての橋本治さんの全体が批評されたことってほとんどない。橋本治論というものが存在しない理由のひとつは、橋本さんの論に一貫性がないからではなくて、一貫性はあるんだけれども、まとめて論じようとするにはつかみづらい、一つの論にまとまらないんだと思います。

橋本さんは、自分で仕組みもわからないようなものを扱うのに抵抗があるんだそうです。だから、自動車は運転しないそうです。アクセルを踏んで車が進む。理屈はわからないんだけれど動くということに、感覚がなじまない。だから、執筆は未だに手書きだそうです。これには内田さんは絶句していたのが非常におもしろいですね。

確かに、橋本さんの論に共通するのは、他人の論の引用というものが、あんまり多くないんですよね。どちらかといえば無勝手流に題材に切り込んでいく印象がします。けれど、その無勝手流ぶりが私にとっては魅力ですね。誰かの考えた論の上に、さらに自分の論や見解を積み重ねていくことはできないのでしょう。あまり他人の本を読むことはないそうです。橋本さんが語ることのあれこれが、近代人の内田さんにとって理解のワクを飛び越えている。突拍子もなくて、いちいち絶句しながら対談が進む。そこがおもしろいですね。

前近代人がどのように物事を考えるのかと、橋本さんの言葉から想像すれば、たぶん近代人のようなプライベートの概念がないんです。橋本さんの家系は、商売人やら芸ごとの家系、典型的に町人の家系であって、生活のあれこれにプライベートが入り込む余地はないんだと思います。すべては、オフィシャルで物事を考えるということ。

それがどういうものなのかというのは、家屋の作りをベースに考えると分かりやすいのかもしれません。たとえば、江戸東京たてもの園という、古い家屋が保存された公園が小金井公園の中にあります。農民の家屋、建築家の自宅、そして政治家の自宅と。建築家の自宅が、リビングを中心として、寝室や書斎を構えた、プライベートがあることを前提とした作りなのに比べて、政治家の自宅はあくまで客を呼ぶための作り。書斎や寝室といった用途の定められた空間はない。すなわちプライベートの空間はありません。

プライベートが、あらゆる空間に氾濫しているのが現代といえるかもしれません。歴史上の人物に心酔しても、その心持ちを、現代人が再現することはたぶん不可能でしょう。