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宮城道雄 随筆集「春の海」

宮城道雄の「春の海」という随筆集と、たまたま古本市で出会いました。「春の海」は、正月になればあれでも聞く、あの琴のメロディーで有名で、宮城道雄はその作曲者でもあり、自身も琴の演奏家です。

彼は目が見えませんので、その文章に、色彩に対しての記述は全くありませんが、そのかわりに文章から流れてくる音に関する感覚の鋭敏さと、言葉の連なりがリズミカルで、さらさらと流れるように感じるのも、知る限りほかのどの作家にも類例がないように思います。彼が音楽家であることから来るものかもしれません。彼の文章からは、なるほど、視覚に寄りかからない知覚というものが、どのようなありかたなのかということが想像できてとてもおもしろいです。断じて、視覚を持たないそのことを「欠損」としてとらえるのは、間違いなんだろうと思います。

発達の仕方が異なるだけで、視覚のあるなしを障害者と健常者という分け方にしては、いけないのだろうと思います。「ビッグイシュー」には、東田直樹さんと医師の山登敬之さんの往復書簡が毎号連載されています。東田さんは自閉症ですが、作家として才能を開花させています。医師の山登さんは、世間で言われるように、健常者と障碍者という分け方でなく、本当は「発達マイノリティ」と呼ぶべきなのではないかと述べていたのを思い出しました。断じて「欠損」ではなく、知覚の発達の仕方がマジョリティと異なるだけだというのです。

実際、宮城道雄さんは、視覚を持たないことに、何の不自由も感じたことはないと、文章の中でも繰り返し述べ、そして、視覚を得ることで失なうものがあるなら、視覚などはなくていいとも述べて言います。聞こえる音だけで、自分がどの場所に居るのかということはわかるらしく、自動車の運転手に、道案内をする事だってできるそうで、物音の質から、近づいてくる人が誰であるかというのもわかるそうです。停電で室内が真っ暗なとき、視覚を持つ弟子たちはしきりとうろたえますが、彼はそんなことには関係もなく涼しい顔をしています。

視覚のことばかり書いてしまいましたが、琴の奏者としての、演奏に関する善し悪しの考え方もおもしろかったです。自分のテクニックやパッションを強調するのが、必ずしもよい演奏だとはとらえていなく、彼自身が過去を振り返って、そのような演奏もたくさんしたけれど、それはよくない演奏だったと反省しています。

どういう演奏が、よい演奏なのかといえば、相手や合奏する演奏家との調和を重んじるのですが、ただ音をあわせられればよいのでなく、調和をしながらもお互いに刺激を受け、演奏をよりよく作り上げていったときがよい演奏だったのだと言っています。

ジャズの演奏などでも同じですよね。昔のギター少年なんか典型的だったと思うのですが、演奏の善し悪しとギターを速く弾くことを同じにみる価値観がありましたけれど、今思えば、それは音楽の本質とはあまり関係のなかったことなのでしょう。当時に、超絶技巧とされた、過去のミュージシャンの演奏を、今聞いてもおもしろいものは、ほとんどで、ギターの速弾きそのものを目的として使っているのではなく、あくまで音楽の表現の一手段としてのみ使っている演奏ですよね。

書の内容とはあまり関係ないことばかり語ってしまいましたが、宮城道雄のこの随筆集「春の海」からは、本当にいろんなことを想起させられます。とても刺激的でした。新編 春の海―宮城道雄随筆集 (岩波文庫)