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木曽谷の江戸時代(木曽の終わりの旅(その3))

f:id:tochgin1029:20150909214106j:image 朝起きて外を眺めると、限りなく怪しい雲行きでした。雨天中止のつもりはないけれど、できれば傘も差したくないし、雨合羽も着たくはないので、早々に宿を出発することにしました。
 中津川が、人口の規模に比べて大きな町のようにかんじられたのは、市街地の中には全く田畑が存在しないことも理由に上げられるように思います。商店街そのものは活気があるようにはとても思えないけれど、旧い建物がいまもそれなりに密集してたっている様は、大きな町のように感じさせます。中津川の町に入るときに、急な坂をおりたのとは反対に、町を離れるときは急な坂を上ります。町そのものが、坂で囲まれた窪地にはまりこんだような印象さえ持ちます。
 坂を上ると、田畑の入り交じった住宅街を歩きます。あいかわらず、段丘を上り下りしながら進みます。それでも、上り下りする段丘も次第になだらかになってきていることから、山を降りてきたことを実感します。雨も降り出しそうなので、眺めはよくありませんが、それでも付近の山々が、木曽谷を歩いていた頃とは違って、なだらかになってきているのが見えます。
f:id:tochgin1029:20150909213848j:image 残念ながら、途中の中津川インターチェンジによって、途中の旧い中山道の道は途切れているところがあります。
大井宿までの間は、旧い神社や一里塚などの旧跡が転々としています。このあたり東山道に由来する旧い歴史のある地域ですが、それらをつぶして道路を作り上げていくんですね。ただ、それらは決して今に始まったことではなくて、大化の改新に始まるくにづくりそのものが、当時の中国の国の制度を、当時の生活実態とは関係なしに輸入したものであって、当時の人々の長距離移動が、もっぱら海上を舟で移動するものであるにもかかわらず、東山道などの主要街道をせっせとこしらえる。旧道をつぶして通される高速道路のあり方には、歴史は繰り返すという言葉がそのまま当てはまります。
f:id:tochgin1029:20150909213935j:image 木曽から降りてから、途中の街道沿いには、ところどころ、白木番所と呼ばれる建物があったようです。通常であれば、江戸時代の年貢は米で納められましたが、木曽では木で納められたようです。ですから木曽を治めた尾張藩は、あちらこちらにこの白木番所という施設をこしらえて木の領外への出入りを監視していました。妻籠の資料館では、木の皮を剥いではいけないという掟を、やむなくやぶった男が、見せしめのために町中を引き回されたあげく死刑にあったという話が、資料として展示されていました。幕末になると、この地では平田国学が盛んに広がり、その思想は反幕府に転化したようです。木曽の神官たちの一部が、倒幕のために行動を起こした故事があるらしく、中津川では宿を上げて水戸天狗党を歓待しています。
 反対に木曽義仲はいまも、この地では英雄とされています。その義仲の末裔を自称する木曽氏が幕府の改易処分にあい、尾張藩の治世に変わる。ここでは徳川家は侵略者であって、幕藩体制は負の歴史として捉えられています。
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 大井宿に近づくにつれ、段丘の上り下りは段々に緩くなってきました。最後に残った急な坂を降りると大井宿です。ここには、広重美術館があり、69次の版画も展示されていて、ここに立ち寄るのも旅の楽しみでした。
 ここで、今回の旅はおしまいです。大井宿の先もまだ山は続くようです。