読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わたしたちはもう答えを見つけている(橋本治「バカになったか日本人」)

バカになったか、日本人


 シルバーウィークの連休中は、叔母の法事のために新潟に行きました。寺に行きお経を読んでもらいつつ、式が終われば和尚さんの話など聞くのですが、安保法制の話は、そのような席でも話されています。親族との会話でも安保法制の話はでています。法事の席では、とかく普段より年配の親族と接することが多くなりますが、決してテレビ報道の受け売りというのではなくて、一般の人にとっても、安保法制への不安感は、リアルな出来事として感じているようでした。そして、その不安感は東京より地方のほうが大きいように思います。 
 一方で、都心では、盛り上がった国会前抗議からの帰りでも、電車の中ではそれとは関係なく日常を過ごしている人が居れば、国会前抗議とは関係なく、皇居ランニングを行っている人たちもいる。無関心な人がいることも可視化されています。 
 東京と地方の違いは、ひとえに自然との距離感の違いです。都市では、山と川と海が作る自然の空間よりも、人間が作る道路や鉄道や建物が作り出す人工の空間を、世のすべてと錯覚します。けれど地方では違う。普段は山と川と海は人に危害を加えない。都市住民が憧れる「大自然」もおおかたはそのようなものです。けれど山と川と海は、そんなに都合よくできてはいないのです、ひとたび天災が起きれば、人々に対して牙をむくのです。地方の農村へいけばところどころに神社があり、おおくは山川海を神として祭っていますが、たいがいは恵みをもたらすけれど、時には牙をもむく自然への畏怖の心と不可分のものです。 
 一般人の意見など聞く耳は持たない、自分たち政治家が内輪で決めたことに、一般人は黙って従えばいいのだ。くらいに考えている政権にとって、それぞれの個人が自分の頭で考え意見を発することなどやっかいでうっとおしいことと思っているようです。安保法制へ地方の人が感じる危機感というのは、自然への畏怖の心を忘れ、自分たちが全知全能であるかのように振る舞うさまに、危機感を感じているものです。自然災害のおおい国で、自然災害への備えよりも他国が攻めてくることに恐怖する。そんなあべこべな様に危機感を感じるのです。 
 さて、前置きが長くなりましたが、橋本治さん「バカになったか日本人」を読みました。古典芸能に関してのエッセイこそが、橋本さんの真骨頂なのではないかと思うので、直接に社会について述べる橋本さんのエッセイは、力量の衰えを感じたのも事実です。 
 橋本さんは震災の当時、身の危険を感じるより逃げることが億劫になるくらい、体調の不調であったそうです。けれど、その後の3年間でじけい列であつめられたエッセイから見えてくるのは、だんだんと社会の危機があらわになっていくことです。橋本さん特有の、くねくねと曲がりくねったような思考が残る文体も、ここではあまり目立ちません。 
 震災の前、菅政権は、実は周りからの非難轟々で身動きがとれなかった状態でした。菅さんがこれだけ嫌われたのは、とどのつまり、永田町の中で彼に友達がいなかったことが、彼が嫌われた主な理由ではないか。震災後の混乱でさえ菅さんが嫌われた理由は、「すぐにかんしゃくを起こす」とか「ひとりで勝手に決めてしまう」といった、人格上の理由です。市民運動を母体とした小政党の出身だった彼は、確かに議員同士のなかでは異端だったのでしょう、民主党へ合流したのも弱小政党のままでは、望みをかなえることのできない限界を感じたからでしょう。けっきょく、戦後70年を経ても戦後社会の理念を体現するような政党がこの国で大衆化しなかったことと、市民運動出身の政治家である菅さんが、孤独であったことと、つながっているように思います
 それでも、過去に2度おきた政権交代がなぜできたということは、小沢一郎さんのアクロバティックな荒技です。大衆に根を張った市民運動の成果ではない。その時も、一般市民はテレビの政治劇の観客でしかなかった。壊し屋と称されるばかりの小沢さんは、そもそも繋げることができるからこそ、壊すこともできるのです。でも、一政治家の力量にいつまでも寄りかかるのは、民主主義の国の有り様として、いびつなんだと思います。
 その答えを、私たちは、戦後長い時間をかけてやっと見つけたのです。安保法制への反対運動で及び腰だった、野党の抵抗戦術を後押ししたのは、国会前や地方の広場で声をあげつづけた大衆の声だったのです。そして、いままでの談合政治では、揃ってあがることなどない野党政治家たちが、声に押されて壇上にあがる。これこそ、国会前で4年間続けた、路上での、意見表明の成果だったのだと思います。 
 橋本さんの「ばかになったか日本人」にはもちろん路上での運動については言及されていません。けれど、ここで書かれた橋本さんの「わからない」という問いの答えは、私たちは手にしたのだと思います。