実は凄かった田山花袋の「蒲団」(橋本治「失われた近代を求めて1」)

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)


 橋本治さんが書かれた「失われた近代を求めて1ー3」のシリーズをこの正月に読んでいました。読んでも読んでも読み切れないくらいの本を橋本さんは書かれていて、現在でもつぎつぎに新しい本が刊行されている。この「失われた近代」で橋本さんが対象としたのは、「日本近代文学」というジャンルの小説群です。言文一致体(口語文)の始まりと、口語体が小説にもたらしたものと失ったものについて考察した文章です。
 明治のころまでは、日本語にとって話し言葉と書き言葉は異なる世界のものでした。この異なる世界は、文明開化とともに話し言葉と書き言葉が一致する欧米の言語が入り込んで一変します。明治政府の有力者のなかには漢字などやめてローマ字にしてしまえという、森有礼のような人もいます。それは、あたりまえのように口語体を使いこなす現代人からは、突拍子もなことと思われるけれども、当時の書き言葉と話し言葉が違っている言葉を前提にすれば、それほど不思議なことではありません。
 言文一致体を形作ってきたのは、主に作家のひとたちのそれぞれの取り組みでした。もちろん彼らの中には日本語を変えようだなんて野望はない。新しい日本語を作る。というよりは、大量に輸入された外国語のテキストを翻訳するうちに、なかでも小説というジャンルのテキストの翻訳は、文語体にあてはめてみるとどうも「文明開化」とはあわない。違和感を感じたのでしょう。そこから翻訳文にマッチした新しい文体を工夫してあみだしていった。そのうちに、自らが操れるようになった新しい文体で小説を創作したくなる。いろいろな作家がそれぞれのやり方で同時発生的に、口語体での小説を書き始めたのです。そうして生まれた、口語体による一連の作品群のことを、いまでは自然主義と称するわけです。
 彼ら口語体の文章を書く作家たちにとって、滝川馬琴に代表されるような、江戸の町人社会での作者たちは、作りものの話をこしらえる旧い人たちで、彼らにとって否定されるべきものとして存在する。だから彼らが書く対象はぎ作とは異なるもの、人物の内面を掘り下げたり、日常の出来事から取り上げたりること。口語体によって最初にかかれた日本語の創作物が、こうしたプライベートな心情の吐露や行動を表した内容であったことが、その後の日本語による創作物の方向性に大きな影響を与えているのです。

蒲団・一兵卒 (岩波文庫)


 さて、初めて田山花袋の「蒲団」を読みました。出ていった女性の弟子が残した蒲団に、顔をうずめ泣く作家のみっともないあり様や、女性を支配しようとする作者のずるさや狡猾さは、どうしても失笑の対象に成るのでしょうが、実は、改めてこの作品のすごさに気がついたのです。 作家と女性の弟子の関係は、口語体による文のやりとりで不自然なほどに近づいていくが、関係が断ち切れたあとで書かれた最後の手紙では、女は文語体で手紙を書いている。文語体の文章と比べ話し言葉と書き言葉が一致して、文章が書き手と読み手の距離を不自然に近づける口語体の特徴が、「蒲団」という作品で表されるような悲劇を生んだのだということです。
 このように書き手と読み手による不自然な近さがもたらす感情のもつれは、SNSでの炎上騒ぎでもよくみられることです。SNS上のやりとりで読めるような互いの支配欲とか狡猾さのあらゆるやりとりのほとんどは、すでにこの作品の作家と女の弟子とのやりとりに、書かれていることです。このことに気がつき、驚いているのです。