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本当に日本語の進化だったのだろうか?(橋本治「失われた近代を求めて3」)

失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)


 夏目漱石の「坊ちゃん」はいまでも、多くの人に読まれる作品ですが、視点を変えれば、前近代と近代の対立をベースとして描かれた小説です。勉強が嫌いなくせに先生をする主人公の坊ちゃんは前近代の方。反対に、赤シャツと呼ばれる教頭は、話のはしばしに洋風趣味をのぞかせる嫌みな人格が設定されています。こちらは近代の方。そもそも夏目漱石自身の作品には、そういった文明開化を過ごしていった、明治の人々のありようが描かれているわけです。 
 橋本治さんの「失われた近代を求めて3」で描かれるのは、自然主義として始まった口語体による小説群に対してアイトサイダー的な存在だった、夏目漱石とこうだろはんを取り上げています。「坊ちゃん」「我が輩は猫である」でも、漱石の作品のメインテーマは、前近代から近代への急激な変化を生きる明治の人々のありようです。けれど、漱石自身は自然主義には染まりませんでした。田山花袋からのフィクション批判に対しては、漱石は「創作物のディテールを工夫すればいいのであって、フィクションそのものを否定するのはおかしい」といった意味の反論をしています。かといって、決して反自然主義を唱えるわけでなく、漱石の主人公の内面の語り口は、どこか自然主義の影響を感じるし、自然主義文学という潮流が同時代に存在しなければ、漱石という作家の存在はなかったとおもうのです。それに比べると「失われた近代を求めて」のシリーズ最後を締めくくる、幸田露伴の文語体による作品は、「口語体を経由しない近代の小説」の可能性(それは失われている)を示唆するものとして取り上げています。
 彼の作品の中に「風流仏」という小説があります。若いお坊さんが、旅先でお辰という女性に出会い、後ろ髪をひかれつつその場では別れますが、やがてお辰への恋は彼の中で妄想に変化します。彼は、結局は自分で彫った彼女そっくりの仏と接吻をするような姿で、下敷きになり死にます。
 このような話を、もしも口語体で書かれたなら主人公の内面が延々と語られたことでしょう。小説を語る第三者は、口語体の場合では、まるで主人公の分身のようですが、文語体の場合は、語り手と主人公の間に適当な距離がうまれ、若者の内面が強調されることが回避されます。いっぽうで、老人の口を借りて「・・おまえの心からこしらえた影法師におまえが惚れているばかり・・・」と、妄想に狂う若者の有り様を的確に表現する言葉が述べられます。文語体の小説では語り手の第三者は中立的なのです。
 橋本治さんがいいたいのは、何百年もつかわれ、磨かれ練り上げられた文語体の良質な表現の多くが、文語体から口語体へ変化することで失われたということ。ほんとうにそれで良かったのか?という事です。 
 口語体が生まれてから百年がたち、誰でも自分のことをSNSでつぶやきます。そして、発見される自分の内面に誰もが振り回されています。それは、口語体を手にした、明治の自然主義文学の作家たちが振り回された悩みにも似ています。本当に文語体から口語体と言文一致体への移り変わりは、日本語の世界にとって進化だったのでしょうか?