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幸田露伴の「五重塔」に近代的自我を見る(橋本治「失われた近代を求めて」番外)

 橋本治さんの「失われた近代をもとめて」のシリーズをもとに、口語体と文語体との関係を考えています。では書き言葉と話し言葉は太古の昔から異なっていたか?といえばそうでもなく、谷崎潤一郎は、平安時代に話されていた言葉が、源氏物語に代表される当時のかな文学のとおりではないか?という見方しています。であれば、当時の公的な文書はすべて漢文ですから、書き言葉と話し言葉は当時から異なっていることになります。
 平安時代のかな文学の世界、いわゆる当時の話し言葉の世界に、「敬語」という表現はなかったそうで、当時の日本列島の人口から、敬語が必要でなかったのも想像はつきます。wikipediaを調べると、平安時代の末期の人口が700万。人口密度なら、キロ平方で20人に満たない値です。中世のやまと絵に描かれる人の姿はまばらですが、今とは比較にならないほど人口が少ないのです。なので、中世までは、人々の日常にとって、人間関係よりは、その土地土地の地霊やら先祖代々の霊のほうが身近な存在なのです。
 それが、江戸末期になると3000万人代に跳ね上がります。人口密度ならキロ平方で80人くらい。人口が増えるのですから、人間関係の密度も濃くなる。利害調節も必要になります。そんな江戸時代に「敬語」という表現が発達したのです。橋本さんは「日本語は人間関係の諸相を口語の中にふくんでしまった」という言い回しをします。平安時代と江戸時代とで、人々にとって日常空間の見え方は全く違って見えるはずですが、書き言葉の世界はとりたててその間に変わりませんでした。話し言葉と書き言葉はいっそう乖離し、言文一致体の運動は、その状態から始まっています。
 明治になり日本に入ってきた欧米からの小説群を訳すことから口語体のモデルが生まれます。そもそも欧米に敬語に類する表現は存在しないので、口語体に「敬語」という機能は組みこまれませんでした。口語体にも相手との距離をコントロールする術をもちません。さも話し言葉と一致するものと誤解されがちな口語体だからこそ、このことはやっかいな問題を含みます。
 手紙にせよ電子メールにせよSNSにせよ、書き言葉によるコミュニケーションツールは、構成員に身分の上下がない近代の市民社会を前提としたシステムです。けれども、現実には人と人との関係に上下関係は存在するし、つきあいの濃淡で接し方も変わります。だからそういった集団でのメールSNSの利用は、迎合するか?敵対するか?の二極のコミュニケーションに働くように思います。過剰な迎合は、悪い意味の「ムラ社会」で逆は敵対することそのものが目的化してしまう。SNS上での争いごとが、SNS上の対話から和解へと繋がった例をいまだに見たことがありません。

五重塔 (岩波文庫)


 迎合と敵対を越える論理は、幸田露伴の小説「五重塔」にありました。前回取り上げた「風流仏」と同じ、文語体によって書かれた明治20年代の作品です。親分源太のもとで働く、丁寧な仕事だが、のろく愛想も悪い「のっそり」と揶揄される十兵衛が、五重塔を手がける話です。
 当初は親分源太が手がけようとしていたこの仕事、十兵衛は寺の上人に熱意を直訴して、十兵衛に仕事をさせることに決まる。親分としての源太がおもしろいはずもないのですが、葛藤はありながらも、彼は十兵衛に助力することを申し出ます。もし、源太と十兵衛が協力して五重塔をたてるのであれば、師弟が協力して大事業に望む、テレビのワイドショーにでてきそうな、ありきたりな師弟愛の話になるところですが、けっしてそうはならない。
 十兵衛は源太の助力を拒否します。誰の「寄生木」になりたくないし、誰の「寄生木」も受け付けたくない。と十兵衛は語ります。結局は十兵衛一人がこの五重塔を手がけることになり、塔はやがて完成するのですが、ほどなく嵐がやってくる。揺れる五重塔の様子が心配で、来てくれという上人の願いを、自分の仕事に自信をもつ十兵衛ははねつけ、決して見に行こうとはしない。けれど上人の命令ではじめて五重塔に上ります。
 五重塔に上る十兵衛は、嵐で五重の党が崩れようものなら、不完全な仕事をした情けないおのれの、命をすてる覚悟での行動です。いっぽうで源太は塔の下を鑿をもってうろうろします。彼は、塔が嵐で崩れるようなら、そんなやわな仕事をした十兵衛を、鑿で打ち殺すつもりだったのです。やがて二人は嵐にうち勝ち、揃って塔の上にたちます。 
 親分の源太に恩義は感じながらも、彼の助力ははねつける。誰の寄生木もしたくはないし、誰に寄生されたくもない。という十兵衛は、ここで近代的な自我に目覚めているように思います。鑿をもって塔をうろつく源太も同じです。二人の関係は「庇護をする/される」といった封建的な主従関係から脱しているのです。
 古典的な文語体の文章の中に近代的自我が発見される「五重塔」を読んで、悪い意味の「ムラ社会」を越える論理の胚芽を見るのです。