なんでも「お国」を前提とするわたしたちの思考の歪み(講談社新書「アイヌ学入門」)
関東に住む私にとって、アイヌの人々というのはけっして身近ではありません。北海道土産の民芸品のなかに、アイヌ文化の香りを感じるくらいです。最近では「アイヌ民族は存在しない」などと発言する議員があらわれる始末だし、80年代には、当時の中曽根首相が「日本は単一民族国家」という発言をして問題になりました。バブル景気のなか、みな海外旅行に行くようになっても、それで庶民が広い視野を獲得したわけではないのですね。「アイヌ学入門」という講談社の新書を読み気づかされたのは、私たちが自明とする国家というワク組みに規定された世界観の貧しさなんです。
アイヌ、琉球、オランダ、清、そして朝鮮。かつて江戸幕府は、定期的に彼らの代表が徳川将軍に会いに行く儀式を利用して、華夷秩序という世界観を、自らの権威付けに利用しました。その後の明治政府、現在の日本政府においても、この世界観はなんら変わっていません。いまでこそ、彼らに対しあからさまな差別意識をまるだしにする人は少数ですが、日本に暮らす庶民が、華夷秩序の世界観を潜在的に抱えているのも現実です。
でも、華夷秩序から夷狄とされた人たちのかたまりと、現実の彼らのありようとは全く違うものです。たとえば、日本史上には、朝廷に従わなかった蝦夷という存在がいます。従わなかったということだけで、蝦夷とアイヌ人を混同して考えがちですが、実はそうではなく、北の大地には、ほかにも文化の異なる集団がさまざまに暮らしていました。アイヌは北海道だけにすんでいたのではなく、千島列島全体にさまざまな集団が住んでいて、少しずつ文化習慣も違う。アイヌたちを、そんな諸集団のなかのひとつとして見る。「国家」「国境」というわく組みをはずし、北の島々の暮らしを眺めれば、その世界が活気のある豊かな世界として現れてきます。 時の権力者が、夷狄とみなしてひとくくりにした「アイヌ」という存在と、現実の彼らは異なる多様な存在なのであって、決して一様の存在ではないのですね。