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自由と平等を賭けた明治維新(中公新書「谷干城」)

 今週になり「パナマ文書」と称する書類の内容が暴露され、国際的なニュースとなっています。そこには、ペーパーカンパニーを多数こしらえて「節税」に励む世界的な有名企業の姿が露わになっていて、その中に日本企業も含まれています。企業だけではなく、ロシアのプーチン大統領やイギリスのキャメロン首相といった政治家も、「節税」と称する租税回避を行っていることが暴露されました。日本でも、法人に対しては法人税率を下げる一方で消費税率はアップしています。法人があげた利益が、従業員にも国庫にも還元されずに租税回避地にプールされているのは、やはり道義的におかしなことです。
 そんな中で、谷干城という維新の政治家に興味を持ちました。維新後の台湾出兵に関与していたり、反乱軍を相手に籠城戦を繰り広げ、西南戦争の勝利の立役者として知られる彼は、通俗的には国粋主義者として理解されています。けれど、後半生の彼は貴族院の議員として生き、藩閥政府を否定し、日清日露の両戦争も非戦論を繰り広げるなど、変節したかのような政治活動を行います。館林の田中正造資料館で初めて、田中正造住民運動の理解者であり協力者である谷干城を知りました。単なる国粋主義者として理解していた彼の像が一変したのです。明治天皇の信任があつい彼は、望めばきっと首相も努めることができたでしょうが、彼は望みませんでした。そんな彼は、一般的な歴史読み物で取りあげられることがなく、もう少し評価されてもよさそうな維新の立役者の一人です。そして、数少ない彼を取り上げた書物から「谷干城」という中公新書をよみました。

谷干城―憂国の明治人 (中公新書)


 彼の家は儒者の家系のようですが、当時の若者が普通にのめり込んだような形で尊皇攘夷の思想と運動に染まっていく。彼自身が別に傑出した才能を持っているわけでない。それでも土佐藩の政治に関わるようになって、見識が広まり、彼の思想はどんどん深まっていくのですね。それまで攘夷主義者のはずが、江戸勤めの間に見聞が広がり、攘夷など不可能であることを理解します。それでも彼の一番の感心事は天下の危機のこと、徳川の幕府を倒さない限り国の独立はありえない。と理解します。
 彼にとっては、武士の階級が偉そうにしていた世の中から、武士と平民に身分の差がない平等な天下にするためと明治維新の意義を捉えています。徴兵制のことも、士族だけが刀や武器を独占する世でなく、百姓が義務を通して自由と平等を獲得するための仕組みとして、肯定的にその意義をとらえています。だから西南戦争は彼にとって、百姓を小馬鹿にする反乱軍にたいする、平民たちの自由と平等を賭けた政府軍の戦いなのです。ですから自由民権運動は、彼にとって不平士族の運動の延長なのですね。それで彼は自由民権運動には否定的でした。板垣退助とは同郷で、ともに維新を戦った仲間ですが、政治的には対立することが多かったようです。
 けれど、西南戦争後の彼は、軍人よりも政治家として生きることを指向し、やがて伊藤博文の内閣で商工大臣になり、一年以上をかけて欧州訪問の旅を行います。欧州旅行のなかで見識を深めたことで、彼の思想信条は変わったようです。日本からやってきた政治家たちの多くは、欧州のテクノロジーに感嘆したのでしょうが、彼が興味を持ったのは別のところでした。テクノロジーを支える政治制度や社会のありかたなどに感心しているのです。ドイツでは学者と討論を行いましたが、ほかの政治家がどちらかといえば、統治する技術の意見を求めたのに比べ、彼がが求めたのは、当時の3700万(当時の人口)がどうやって安全に暮らせる国を作れるのかということでした。彼にとっての公秩序とは、天皇陛下や支配階級が上から与えるものではなく、3700万の庶民ひとりひとりが義務を通じて獲得していくものです。
 ですから、帰国したあとの彼は、急激な近代化路線は社会を歪め国を疲弊させるものと確信します。藩閥政府や産業資本が押し進める、富国強兵と大国化の路線は否定します。日清日露戦争に非戦論を唱えるのも、急激な拡張主義は、やがて植民地の維持に国力が耐えられなくなるという現実主義から来るものです。日清日露戦争に日本は勝利しますが、その40年後の帝国の破滅は、まんま彼の危惧が当たったものと言えます。
 生涯、彼は「私腹を肥やす」ものとして、個人主義は否定しましたが、パナマ文書に載るような企業や政治家のふるまいは彼がもっとも嫌う「私腹を肥やす」行為です。藩閥政府の末裔が政治をやり、産業資本の末裔が「節税」と称して私服を肥やす現代は、彼にとってどのように見えるでしょうか?