ゾンビにならない(安冨歩「マイケルジャクソンの思想」)

マイケル・ジャクソンの思想


 つい、一週間ほど前にプリンスが亡くなりました。追悼のコメントをいろいろな方が出していて、総体としては、いわゆる「音楽通」の方々ほど、彼の死にインパクトを受けています。彼の音楽が一般的にもてはやされたのは80年代、マイケルジャクソンと比較された時期もありましたが、両人とも故人となり80年代も遠くなったなあという感慨が個人的に残ります。ご冥福を祈ります。
 そういえば、マイケルジャクソンが亡くなったときはどうだったかな?と思い出します。ムーンウオークに代表されるダンスの見事さと、広い敷地にサルと一緒に住むといったプライベートの変人奇行ぶり。長期で滞在したりどうやら日本好きみたいとか。芸能ニュースとしては、マイケルのほうが扱いやすかったでしょう。でも、彼のエンターテナーの部分に比べれば、音楽について語られたことは少なくて、ましてや、彼が生涯を通して伝えたかったことって、なんなのか?など取り上げられることは、なかったと思います。安富歩さん「マイケルジャクソンの思想」という本を読みました。初めて、マイケルが伝えたかったことがなんなのか?ということに向き合った本のように思います。
 安富さんも書かれたように、マイケルの曲の歌詞って不思議な歌詞だなあと思います。一度、カラオケで、マイケルの曲を選び歌おうとしたことがありますが、最後まで歌えなかった。歌詞の中にLOVEとかいう常套句がなくて、節がとりづらかったのです。また、日本語訳をみても、どういう意味かわからない吞み込みづらい歌詞だったのを覚えているのです。では、彼が作品を通して伝えたかったことはなんだったのか?
 それは、自分の頭で考えて自分の良心にそって行動すること。「自分自身になれ」とか「自分自身を取り戻せ」ということです。たとえば、ゾンビたちがダンスするMVで有名な「スリラー」は、マイケルいわく「これはオカルトではない」のだそうです。MVをよく見れば実はゾンビたちの服装はごくふつうであって、これはある人々のありようや振る舞いを、ゾンビにたとえて表現している。「自分自身になれ」というのは、ごくごくあたりまえのことを言っているように見えますが、現実にはそうではない。身体だけではなく心まで社会の歯車になり心まで失う。誰かの意見に動かされ、それが自分の意見であるかのように錯覚する。あるいは、経済の歯車にしかすぎないのを、選択の自由と錯覚し、物を買い集めたり。「スリラー」のMVでゾンビたちが踊るのが、ショッピングセンターだというのは象徴的です。
 マイケル自身の一生は、とても孤独だったと思います。ダンスの出来が悪ければ父親に叱責される。「エホバの証人」に入信している母親には、忙しい仕事のたまの休みにも教会につれていかれた。テイタムオニールと恋愛と破局は、その原因が黒人差別にあったこと。そんなことの積み重ねが、マイケルを孤独にはしたけれど、まわりの人間のありようを観察する目をマイケルに与えたように思います。
 実はこの「マイケルジャクソンの思想」ちょうど「スリラー」の章を、私は混んでいる朝の通勤電車の中で読んで、怖くなったのを覚えています。日本であったら、このゾンビたちに相当するのは、首都圏の通勤電車の風景なのでしょう。職場に急ぐ人たちが無表情に通り過ぎる駅の光景。この記事から、もしも「マイケルジャクソンの思想」に興味をもたれる方がいましたら、通勤電車の中で読むことをお勧めします。なにもカルト宗教に入信するとか、革命を起こすとか?ドロップアウトの勧めなどではありません。自分自身が関わっている世間の異常さに気がつくこと。マイケルの伝えたかった「自分自身になる」というのはその気づきから始まるのだと思っています。