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東と西が戦う場所(中山道を巡る(その1))

f:id:tochgin1029:20160517074946j:image中山道を歩く旅は、美濃赤坂宿まで到達。まもなく岐阜県を通過します。歩いてわかるのは、本当にこの県は東国と西国が入り混じる場所なんだなと感じます。東西の戦いで最も有名なのは関ヶ原の戦いですが、今日はその関ヶ原を通ります。 
 赤坂宿から垂井宿に向かって歩き始めてまもなく数々の史跡の看板があっと言う間に飛び込んできます。これはすごい。まず飛び込んだのは、四世紀に作られたといわれる昼飯の大古墳。木が生え放題だったのを往事の姿そっくりに復元しています。前方後円墳ですから、四角いところが前で円形になっている部分は後ろ、古墳の前方は西を向いている。このことから、この古墳の主は、四世紀大和の王権と、親和的だったこの地域の有力者だったのでは、と推理するのです。
f:id:tochgin1029:20160517074921j:image ほどなく現れたのは、美濃国分寺の跡です。ここでは建物の復元はなく、だだっ広い広場が広がります。国分寺が整備された奈良時代は、天武天皇の血筋の王権が続いていて、その王権の絶対的な権力は、壬申の乱に勝利したことから始まっています。その天武天皇の勝利を支えたのは、それぞれの在地の有力者で、国分寺はその権力の象徴だったのだと思います。さぞ立派であっただろう国分寺跡からは、そんな想像ができます。
 通りの脇には史跡の案内が数限りなくあって、その密度に圧倒されます「青墓」というこのあたりの地名が象徴的だし、道の脇には、古墳と思われる丘の上にびっしりとお墓が密集している場所がありました。
 そんな史跡ラッシュを過ぎれば、垂井の宿に入ります。印象に残るのは、相川を渡る橋。小学生たちの下校の列に遭遇します。ここでは、乱暴だった岐阜のドライバーも意外とおとなしい運転です。宿場を通り過ぎようとするころ、立派な一里塚が現れます。そのあたりが歌川広重描くところの垂井宿の風景だというのです。写真に撮ってみても往事の風景はあまりとどめていないようです。f:id:tochgin1029:20160516214743j:image
 垂井から関ヶ原まで進むにつれ谷がせばまりますが、バイパス道を仕方なく歩くような場所は少なく、意外に静かに歩けます。関ヶ原が近付くにつれ、途中には、山内一豊の陣地、そして徳川家康の陣地との案内が現れます。
 f:id:tochgin1029:20160517074857j:image関ヶ原町では、中山道よりも古戦場めぐりを観光アピールしています。歴史民俗資料館にはいれば、展示のほとんどは関ヶ原の戦いに関する展示です。わかったのは、関ヶ原の戦いというのは、この場所で半日をかけた、東西総軍の決戦だけでなく、大垣からここまで、散発的に戦闘が行われている。西濃地域の全体が戦場になっていたと言ってもよい。現地の人々はだいたい西軍に加勢していたと隣の見学者のおじさんが話しています。
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 ただし、この地で東西が戦ったのは、関ヶ原の合戦だけではありません。古代の壬申の乱でも不破の関あたり、天武天皇側が東、弘文天皇側が西に分かれ戦闘が行われています。その不破の関は、関ヶ原の町が終わろうとするところにあります。ちかくには藤吉川という川が流れていて、川の両岸でまつる神は違うそうです。さらにその先には、常盤御前の墓、大谷吉継の墓なんていうのがあって、歴史上の人物の墓が本当に多い。f:id:tochgin1029:20160517074816j:imageこの地域の佇まいは、とても東と西の交錯なんて生やさしいものでなく、東と西が戦った場所なのです。無名の庶民を加えれば、ここで倒れた人は数限りないでしょう。このあたり中山道を歩く人は、そんな倒れていった死者たちの眼差しを受けながら通ったのだと思います。
次の今須宿までの間は短く、すぐに到着します。東に比べれば、明らかに人家まばらな場所を歩くことが少なくなり、宿場町の切れ目も、あまりはっきりとしなくなっています。この宿で岐阜県は終わり滋賀県に入ります。きつい山道の県境を想像していたら、意外なほどに平らな道で拍子抜けします。
f:id:tochgin1029:20160517074707j:image 並木道をを抜けて少し歩けば、柏原宿に到着します。死者に見つめられたような心地で歩く関ヶ原の道中から、柏原宿に着いた時には、往時の旅人はさぞかしほっとした開放感を感じたのではないでしょうか?