地域のヒエラルキー(井上章一「京都きらい」)

京都ぎらい (朝日新書)


 47都道府県の序列は、最近ではよく、テレビのバラエティー番組のネタになります。関東なら、北関東3県がとりわけ揶揄される対象だし、少し前なら、そのポジションには埼玉県が位置づけられていたと思います。関東の一都六県は、一番は東京都、二番は神奈川県、三番目が埼玉とか千葉とか、埼玉と千葉を比較して、どちらが上か下かなどとネタを展開させれば、テレビの番組一本分がすぐに出来上がる。私自身が育った栃木県南部でも、そのような序列は強固に存在します。私もこういったヒエラルキーの価値観に染まっていたものです。なにか、東京に近いほうが遠いほうより偉いみたいな価値観。そんな価値観は、今でこそくだらないと言い切れますが、同じようなヒエラルキーは、関東だけでなく関西にも名古屋にも九州にも在るのでしょう。地域間のヒエラルキーの起源は、どこにあるか?といえば、おそらく京都にあるのだろうなと。そんな感想を、井上章一さん「京都ぎらい」を読んで思いました。私自身が、修学旅行で見た京都の美しい寺社仏閣の数々にあこがれて、関西の大学を受験したことがあります。でも、寺社仏閣が美しいからといって、そこに暮らす人がいい人ばかりでない。京都人の底意地の悪さは、少しづつ知れ渡ってきていると思います。 
 「京都きらい」の著者、井上さんは嵯峨の生まれ育ちだそうです。嵐山にほど近い嵯峨のあたりを、関東の私から見れば「京都」なのですが、京都近辺の在住者からみればそうではない。「嵯峨は京都ではない」のだそうです。洛中に生まれ育つ人間からしたら嵯峨というのは田舎であり見下す対象なのだと。若いときに井上さんが、その言葉の洗礼を著名な文化人の口から聞きショックを受けています。たとえば、旧い町屋の持ち主のエッセイストを訪ねたとき、自身の嵯峨の生まれ育ちを打ち明けたとき「嵯峨か・・昔は、嵯峨の人間がよく肥えを買いに来た」という返答、または、梅棹忠夫さんの「嵯峨の人間は、発音がおかしかった云々…」という差別的な発言。分別も教養もあると思われている文化人の口から、そんなヘイトまがいの言葉が発せられるのがショックだったのだと。一般人でも、都心の山を東にひとつ越えた山科の男性から、求婚された旧家の女性が求婚をいやがる理由は、「東山を西に見るなんて・・・」京都人の底意地の闇を恐ろしいものだと思いました。
 かといって、井上さん自身もそのヒエラルキーは貼り付いているのです。西の山を越えた亀岡出身の人から、親近感を持って話された時の複雑な感情を吐露しています。その正体は「嵯峨と亀岡が同列であるわけはない」というヒエラルキーの感情ですね。
 この構造は、関東に置き換えれば、東京都民から揶揄される埼玉県民が、一方で栃木県や群馬県民を揶揄する作法にほかなりません。マスコミは、県別の魅力度ランキングというものを、せっせと毎年発表します。例年最下位である茨城県は、最下位を脱出しようと悲しい運動を繰り広げます。でも、茨城が最下位を脱出したとして、そのヒエラルキー構造を乗り越えられるわけではないのです。
 また、井上さんは、京都人を不自然に増長させる存在として東京のマスコミを否定的に取り上げています。ほめそやすことで、洛中の人間はつけあがってきたと。現在も残る京都の大きな寺院の多くは、江戸幕府の援助で立派に再建されたものだそうで、大きなものは現在の10倍にも上る敷地を抱えていたそうです。江戸時代に徳川の幕府は、寺社の保護政策をうち出していて、京都の寺社は、そんな江戸幕府の援助で栄えていた。東京のマスコミのほめそやしは、そんな江戸幕府の振る舞いの再生産かも知れません。
 けれど、幕末の京都はテロリズムが横行する危険な町になりました。明治には寺の敷地は強制的に明治政府にはぎ取られていきます。廃仏棄釈の影響もあるでしょう。西郷隆盛勝海舟の会談で江戸の町が焼けることはなかったけれど、周辺では残虐な争いが繰り広げられています。ほんの50年前くらいまでは、京都の有名寺社も荒んでいたそうです。
 いま、都に天皇を戻すべきという意見も世間には存在します。でも井上さんの意見は、それには組みしないとのこと。国に依存した地域振興が新たなヒエラルキー構造を生産することへの嫌悪なのです。生まれる場所は、どんな人間も選ぶことはできないのであって、都内に生まれたから、洛中に生まれたから偉いなんてことはなくて、決して優劣はない。という、ごくあたりまえのことで、井上さんは巻末を締めくくっていますが、地域のヒエラルキー構造を、意識から取り除くのは自分自身を思い出しても結構大変なことなのです。
 地域間のヒエラルキー構造が、けっして笑い事では済まないのは、東京や京都を中心として同心円状に地図を広げたときに周辺に位置する、東北地方も北海道も沖縄も朝鮮半島も中国大陸のすべてが、いままで例外なく地域差別の対象となっていることを問題視しなければならない。ヘイトスピーチには至らない、けっしてあからさまな差別とはいえなくとも、地域間のヒエラルキー構造をあたりまえだとする視点は、差別意識を生み出す元になっているのです。