人間が真ん中でない2(水墨画のこと)

 出光美術館の開館50周年の特集展示はとても力の入ったものです。3回に分けられたテーマのうち、前回1回目の展示では、涅槃図とか来迎図とか、あの世とこの世が混然一体となった、中世の世界観が印象に残ったのです。今回のテーマの中心は水墨図で、内外の水墨画が多く展示されます。

 まず、最初に現れるのは長谷川等伯の作品です。等伯の画といえば、ぼんやりとした輪郭の背景がよく知られていますが、ぼんやりとした背景の中は、さまざまな霊魂とかが彷徨って見える濃密な空間であって、決して「無」ではない。あの世とこの世が混然となったのを中世的な世界観とするなら、長谷川等伯の絵は明らかに中世的世界観を引きづった作品なのだと見ています。
 次に展示されているのは、北野天神縁起絵巻です。展示されているのは絵巻の終わりのほうですね。身に覚えのないぬれぎぬを着せられた女官や僧が、それぞれ天神様にお祈りをして復讐がされる。といってもその復讐劇は、「狂い踊りする」というもの。絵柄そのもののユーモラスさとも相まって、まるで、のほほんとした平和な都での出来事のひとこまにすぎないかのような印象を受けてしまいました。けれど、そんな北野天神縁起絵巻の一場面が引き延ばされた屏風(題は忘れた)に描きこまれた背景を見て、はっとするのです。絵巻では、いかにものほほんとした都の背景は、目を転じれば嵐が吹きすさび怨霊が飛び回る恐ろしい空間でもあるのです。

 そして伴大納言絵巻、今回展示されているのは中巻です。主が逮捕され連れていかれた館では、女官たちが泣き悲しんでいる表情が印象的でした。上巻でも同じでしたが、ほんとうに描かれた登場人物の表情の豊かさは、なんて人間臭いのだろうと思います。そして、それは現代からは失われた臭いのように思うのです。
 今回のメインテーマである水墨画の展示はその後に現れます。理想化された水墨画の山河の世界には、やまと絵とは対照的に人間は登場しても豆粒のよう。まるで存在しないも同然のようなものです。そして描かれた山河の空間は、怨霊や地霊がばっこするような、やまと絵に描かれた風景とは異質な、つるんとした印象をうけます。言い換えれば、それまでの絵巻物に描かれた人間の営みとは別の世界のようです。

 都の貴族たちの間では、平安時代の400年は、ほとんど死刑は起きませんでした。だから、都のできごとを描いても、それはどこかのほほんとしているのです。けれども暴力は存在しなかったわけでなく、都の外では私闘が繰り広げられた危険な場所でした。
 そんな危険な場所を制していった、武士という新たな権力者階級は、その精神の根本に「いつでも命を捨てられる」覚悟を持っているのだと思います。なので、そんな諦観を持ちながら生きる世界観のなかに、生きた人間が存在しないのは無理もないですし、生きた人間のすがたがいっこうに現れない水墨画の登場は、そんな武士たちの世界観と連動しているのかもしれません。
 豊臣秀吉によって天下は統一され、絵画の世界では、やまと絵の世界と唐絵の世界を統一したと狩野派が豪語する状況になりますが、結局のところ、その後の日本絵画の世界に、生きた人間の表情が現れることは二度となかったと思っています。生きた人間が現れない水墨画の世界と、女官たちが表情豊かに泣く絵巻物の世界のあまりの落差。そして、両者の間に、中間的な表現が存在しないのは、自分にとってもいまだに理解できない不思議なことなのです。