意外とおもしろい「さいたまトリエンナーレ」

f:id:tochgin1029:20160925223003j:image 昨日から「さいたまトリエンナーレ」という、現代美術のイベントが始まりました。議会では、これは単なる税金の無駄遣いではないか?なんて疑問のあるようですが、既存の施設を利用して行われるイベントに、それほど過剰さはなくて、一市民としてはとりあえずもイベントが成功することを祈ります。
 で、自宅近くでもそんな展示物をみることができるので、さっそく見学しました。別所沼公園では、大きな船のオブジェが沼のつり人と共存しています。海なし県の埼玉で船?と思うのですが、実はこのあたり、ほんの1000年くらいまえでは内海の端っこだったそうです。そんな土地の記憶をテーマにすれば、海というのはふしぎでもなんでもないテーマですね。
f:id:tochgin1029:20160925223018j:image つぎに、遊歩道をあるくと見えてくるのは、「さいたまサラリーマン」という巨大なオブジェです。これラトビアの美術家の作品だそうです。このあたり典型的な住宅街であって、平日の朝ともなれば、このサラリーマンのまえを無数のサラリーマンが駅に向かって急いで通り過ぎます。そんなサラリーマンにたいする批評のようでもあります。横に寝ころぶ姿は、のんきさや堕落のようにも受け取れます。けれどもその体中に、クモがはいつくばっているのが不気味ですね。これが、毒グモなのだとしたら、毒グモに囲まれているのにもかかわらず、身の危険を全く感じていないのんきなサラリーマンとでも形容するべきでしょうか?非常に毒気とか皮肉の効いた表現なのだろうと思います。
 近くの、部長公邸と呼ばれる家では、作成過程を見せる作品が展示されています。近くの係員に聞けば、白く塗られた壁に描かれた鉛筆画を、やがて会期の終盤に、みんなで消すそうです。美術の作成と崩壊までを題材とするのですね。そういえば、近代まで美術が相手とするのは、静止した世界のことですね。けれどもここでの作品は、生成されてから消去されるまでの時間軸をも作品として取り込もうとする試みのようです。
 そして、もうひとつの公舎では、家の備品をまるまるアートとして見せる試みを展示していました。この作品の主役は「家そのもの」なのです。中にはいると、ただの備品であるテレビやレコードが突然に鳴り響きだし、ベランダにイヤホンを差し込めば、いきなり住人家族の会話が流れてくる。そういえば、この家は職員のための住まいでした。職員は転勤すれば、この家の主たちは次々と変わっていきます。そうして通り過ぎていった家族たちの記憶を、この家は覚えているのです。
 こうやって、読み解きならが眺める現代美術はとても楽しいものです。となりでみていた家族は、こういった作品は、とかくちんぷんかんぷんな代物なのでしょう。係員に「そもそもこれはなんなのか?」と質問する家族がいましたが、それでいいのだと思います。そういえば、わたし自身が、今日眺めた作品の作者が誰なのかさえ全く記憶してません。このような現代美術の楽しみかたは、そんな日常の視点を、ほんの少しだけずらすことで現れた「非日常」や「ちんぷんかんぷんさ」を、そのまま楽しむことなのだと思います。