戦を知らない者たちの戦〜保元の乱(橋本治「双調平家物語ノート〜権力の日本人」を読む2)

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))


平安時代の初期に薬子の変が起きてから、保元の乱がおきるまで、都の王朝のなかに死刑はありませんでした。王朝に直属する常備軍というものも存在しなかった。武士の中には朝廷に仕え官職を持つ者はいるけれど、あくまで警察官という肩書きです。都を離れた関東では武力を伴った争いごとなど日常茶飯事ですが、それはあくまで私闘であって、都に住んでいれば、その肌感覚は伝わらないし、もちろん関心もないのですね。
そんななかで、事を起こした貴族たちも武士たちも、実は戦というものがどういうものかわからずにやってしまった戦というのが、保元の乱の本質です。もちろん謀をめぐらすための集まりはあって、上皇側では藤原忠実と頼長の摂関家源為義源為朝の父子が集まっています。武士とはいっても護衛しかやったことがなく、実戦経験もない父の為義に請われ、参じた子の為朝は、実践経験が豊富です。為朝はその場で、当時の常識の戦法である、敵の私邸の夜討ちを提案しますが却下されます。この時代に、貴族と武士が対等であるはずもなく、興福寺延暦寺の僧兵をあてにした、摂関家の朝まで待つという意見が通ります。上皇側では武士たちの意見は退けられましたが、後白河天皇側では、源義朝の意見が通り、夜討ちを実行した天皇側の圧勝となります。
 橋本さんはここで、保元の乱の主要人物を新しさと旧さとで2分します。武士では、長い都仕えによって、実戦経験がほとんどない為義と、地方での実戦経験が豊富な為朝や義朝の新しさが対比される。宮中の儀礼にあけくれる日常を過ごしつつ、それとはかけはなれた武力の行使を夢見る藤原忠実や頼長の摂関家父子に比べ、武力の行使による、新しい政治状態を冷徹に見据えている信西の新しさを対比します。なにしろ、死刑というものが300年なかった都では、保元の乱の敗者にも勝者も、死刑を行使する重さをわかっていなかった。為義は息子の義朝に投降すれば、命だけは助かるだろうと思っていただろうし、頼長も忠実も、藤原の氏寺である興福寺に逃げ込めば、命は助かると考えていた。300年ぶりの死刑そのものも、そのあとの歴史を動かした一因のように思います。
 源義朝は、弓矢を使った争いに勝利しても、宮中の弓矢を使わない争いには勝てなかった。後世の源義仲にもあてはまることです。そのなかでの平清盛の存在が薄いことに気が付きます。摂関家の走狗だったのではないか?というのが前記事の疑いですが、後白河天皇の存在もとても薄い。それは次回の記事にまわします。