治天の君の欲望が争いのもと(橋本治「双調平家物語ノート〜権力の日本人」を読む3)

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))


平安時代に権力のまんなかに居たのは、やっぱり王朝や摂関家です。さらにそのまんなかに居たのは治天の君、すなわち後白河法皇 であって、たかだか平氏の権力や源平の争いというのは、添え物なんです。
それまで、摂関家がとり仕切る官僚機構にコントロールされていた、天皇上皇の欲がむきだしになったのが、院政の時代でした。摂関家はそれまでと変わらずに后を帝に送り込むのですが、そのすべてを帝が気に入るわけではありません。橋本さんによれば、その帝の欲望の正体は、子供を帝位に就けることで、母親の后に対する寵愛を示したかったということだそう。でも、生まれた子供が無事に大人になれるか?大人になるまえに病気などにかかり死んでしまうか?は、現代とは違いとても不安定です。治天の君が願うとおり帝位は引き継がれないという現実が起きます。寵愛を得られない母のもとで成長した息子が帝位につく。わだかまりを抱えた父子関係は争いのもとになります。その欲の深さこそが、東国の武士たちを帝に引き寄せていったのです。
 くり返しますが、平氏の権勢はそもそも帝や摂関家の後押しなしに成立しなかったということが平家物語では隠されています。平治の乱で敗れ、源氏はほとんどが都から排除されました。もはや王朝内部の争いで頼るべき武力は、平家のほかに残っていなかったのです。そして争う両者から頼られて、平氏一門の株はどんどん上昇していく。清盛をはじめとした一門が異例の速さで官位を駆け上ったのにはそんな理由があります。前回の記事では、清盛が摂関家の走狗ではなかったか?と述べましたが、そもそも院政のもとでは、武士たちのありようそのものが、王朝や摂関家の走狗でしかなかったのです。
 血なまぐい争いを王朝に呼び込んだのが帝や上皇の欲の深さならば、帝や上皇たちのパーソナリティがそのまま、その後に起きた争いのありようを定めています。たとえば、自分のお気に入りの后が生んだ子供を帝位につけたいという白河上皇の欲望は、息子の鳥羽上皇を経由して、崇道上皇後白河天皇が争う保元の乱のありようを規定していて、それはストレートに帝位を目指す争いです。

 けれども、後白河法皇の欲望の正体は、自分の子供を帝位に就けることになく、誰にもわかりません。治承の乱が、王朝そっちのけで源氏と平家が争う印象となるのは、子を帝位に就けることに関心がない後白河法皇の欲のなさに関係するのかもしれません。

 しまいには、平清盛源義仲に幽閉されてしまう後白河法皇は、暗愚とも呼ばれる存在ですが、後白河法皇が存命のうちは、頼朝も将軍にはなれなかったし鎌倉幕府も生まれませんでした。幕府の成立後でさえ、頼朝は娘を鎌倉から王朝に送り込むべく摂関家と交渉を重ねています。摂関家や王朝=雇う側、武士=雇われる側というわけで、それぞれの意識のなかでは院政の時代とあまり変わっていないのですね。その関係が決定的に変わるには承久の乱まで待たなければならなかった。ここで、天下を治めるという意識が、はじめて武士たちに芽生えたのではないでしょうか。