エキセントリックの表出(山田詠美さんの恋愛小説)

無銭優雅 (幻冬舎文庫)


柄にもなく、ときどきは恋愛小説をむしょうに読みたくなるときがあって、その時に読むのは、山田詠美さんの諸作だったりします。短編も長編作品もたくさん書かれた山田さんの恋愛小説に、さて共通するモチーフってなにかあったっけ?などと考えてみると、恋愛もコミュニケーションのひとつだという、あたりまえの事実が提示されているのですね。
 数日前に、作家の平野啓一郎さんが、自身のアカウントでセックスもコミュニケーションのひとつだ。とツイートしていました。その意味は、恋愛がコミュニケートのひとつだということと同じ意味なんだと思います。でも、その言葉は女性作家たちの作品に体現されているように思います。例えば「無銭優雅」だと、どうにもうだつのあがらない登場人物たちの恋愛。どこかにエキセントリックな部分を抱えている女性。そして恋愛というコミュニケーションのなかで表出されたエキセントリックさは、受け止められて、反発されて、やがて許容されていく。長編作品では、そのエキセントリックさはやがて克服され、ハッピーエンドに終わっていきます。けれど、短編作品では、エキセントリックさは表出されたところでぶつっと終わる。読者であるわたしは、登場人物のその後を思い描いたりします。
 これだけ多作でキャリアの長いわりに、山田詠美さんの作品が、印象に残るような形でドラマ化されたり映画化されたことって少ない印象がするのです。山田さんの作品によく表れるエキセントリックな人間たちを演じるのはたぶん複雑で、映像作品として表現するのも難しいように思います。けっして浪花節のような、わかりやすい感動物語には収束されないし、人生訓や処世術みたいなものを小説の中に見つけようとする読み方への反発のようです。

 山田詠美さんの作品を読むたびに、人間誰しもそんなエキセントリックな部分のひとつやふたつは抱えているものだ。なんて気になります。