湖畔の小世界(甲州街道を歩く12)

f:id:tochgin1029:20170915221211j:image 「諏訪」と称する地域はどこからなのか?富士見町を歩いているあたりでは、高原の雰囲気が濃厚で、地域のシンボルは「八ヶ岳」でしたが、茅野市内に来たとたん、公共のポスターや役所の貼り紙には「諏訪」という文字が多くなります。この地域が「諏訪」と称されるのは、もちろん「諏訪湖」という湖がこの地域のど真ん中に鎮座していることが理由です。けれども、湖畔をとりまくこの地域がまとまりをもった地域になるには、諏訪大社の存在が想像以上に大きかったのではないか?と思えてきました。なにしろ、昨日から歩いても、このあたりに神社は多いけれどほんとうにお寺は数えるほどしか見つかりません。大小さまざまな神社の境内で、その由来が書かれた説明を読むと、この地域に諏訪大社を頂点とした神社の組織が張り巡らさせられていることが分かります。
 さもわかったふうに書いている私ですが、諏訪大社と称するのは下諏訪にある下社春宮と秋宮の2つだけを指しているものと勘違いしていました。茅野駅前に大きな鳥居があるのをみて、はじめて茅野に諏訪大社の上社が存在することを知ったのです。本日の茅野から下諏訪までの行程には余裕があるので、諏訪大社の上社に寄り道することにしました。まずは、前宮を先に回ります。駅裏の大鳥居を抜け、なんの変哲もない住宅地を2キロほど歩くとたどり着きます。前宮のあたりはそれほどの観光地ではなくて参道の仰々しさもそれほどでない。けれども、通り過ぎる大木のたもとには小さな祠があって、地元の人が頭を垂れながら通り過ぎるし、社の中では宮司らしき人がせっせと宮事をしていて、生活の中に大社と信仰が生きていることがよく分かるのです。f:id:tochgin1029:20170915221603j:image前宮からさらに1キロほど移動すると本宮へ到着します。境内には板張りの廊下のようになっているところがあり、一風かわった造りになっています。森の中というわけではないのですが、派手さのない大社の建物がまわりの緑と調和しています。さて、大社の周囲はごく普通の住宅地です。参拝のあと、茅野駅の大鳥居まで戻るのに地図とにらめっこしつつ、ああでもないこうでもないとうろうろと迷っているうちに、かつての諏訪大社の大祝亭跡にまよいこみました。大祝というのは諏訪大社でもっとも位の高い人らしく、かつては巨大な敷地を抱えていたそうです。
 その理由は、もちろん諏訪大社が巨大な権力を持っていたからであって、跡地の看板にかかれていた説明文をみて納得しました。江戸時代になるまで、諏訪大社が政治権力を持って、この地域を統治していたのだそうです。いまとはちがっていて、中世という時代に政治と宗教はいっしょくたです。幕府の存在など諏訪にとっては日常とは関係のない遠い世界の話でしょう。いろんなことに合点がいったのでした。この地域が「諏訪」とひとかたまり地域となったのは、実際に諏訪大社がこの地域の権力を持って支配していたこととおおいに関係があります。中世と現在とのつながりを実感しました。大鳥居から街道歩きに戻ります。国道沿いのわりには交通量はそれほどでもなく、沿道を眺めると、ちいさな祠石碑がすぐに現れるし数も多い。もちろんあまりお寺は存在しません。国道を離れれば、沿道は旧街道の雰囲気が濃厚に残っています。
f:id:tochgin1029:20170915222012j:image その旧道をあるくこと1時間、上諏訪の街に入ります。茅野と比べると、上諏訪の街は古い建物が残っています。昭和の雰囲気を残す商店街には看板建築の建物もあります。すこし進むと、街中には、有名な「真澄」の酒蔵をはじめとした五つの酒蔵が隣り合っています。残念ながら前を通り過ぎるだけにします。山梨では、台ケ原宿で「七賢」の酒蔵をのぞきました。「七賢」の酒蔵はカフェや工場見学など、酒蔵は一大観光地と化していましたが、ここ上諏訪では、販売店は併設されていても、本格的に飲食できるレストランやカフェのような施設はなく酒蔵はあくまで酒蔵で、ここでも隣県ながら山梨と長野の違いが如実に表れています。そういえば、泊まり先である茅野のビジネスホテルで、フロントのおばちゃんが淡泊でそっけなかったことを思い出しました。山梨だと損得にかかわる限り商売人は親切でしたが、くらべれば信州だと商売人でさえも淡泊。商売に関心がないのかくらいの印象です。悪名の高い「善光寺商法」という言葉が思いだされます。
f:id:tochgin1029:20170915222041j:image上諏訪の駅前には、かつて諏訪プラザという大規模な店舗ビルが建ってましたが、建物は解体され更地になっています。駅前に大きな空洞が空いているかのようです。この更地がどのように利用されるのでしょうか?箱ものや商業施設なら、むしろ郊外のほうが大規模で立派なものが作れます。それに比べれてこの諏訪プラザ後の更地は狭すぎる。もうこのような地方都市の駅前にハコモノを立てる時代は終わったように思うのです。市街地の空洞化に対する対策でしょうか?隣の茅野駅前には文化会館が建てられていましたが、結局はハコものの一種にしか過ぎないように思うのです。
f:id:tochgin1029:20170915221343j:image 上諏訪から下諏訪までは、湖畔から少し登った旧道沿いの道を通ります。祠やら石碑やらがほうぼうに表れるのは上諏訪までの道と同じで、静かで快適な道です。ここにきてやっと諏訪湖が見えてきました。湖そのものはそれほどきれいに見えないのですが、この地域が諏訪湖を中心としてこじんまりとまとまっているさまがよくわかります。この地域と諏訪湖の関係は、滋賀県と琵琶湖の関係に近いかもしれません。さて、53個目の一里塚が最後で、そこから1キロほど歩くとあっけなく諏訪大社秋宮が現われます。ですがゴールはここではありません。鳥居のわきをすこし進み、有名な塩羊羹のお店の隣がゴールで、中山道との合流地です。

f:id:tochgin1029:20170915221937j:image秋宮だけ行くのももの足りなく、このまま1キロ離れた春宮をめぐることにしました。途中には中山道の一里塚もありこちらは55個目となっています。ということは、甲州街道のほうが数キロ距離は短いはずなのですが、より多く利用されたのは甲州街道よりも中山道だったようです。参勤交代の行列でも甲州街道を利用した大名は少なかったらしく、5街道のひとつとはいっても、甲州街道中山道に比べれば格下であったのではないでしょうか?
 今回、甲州街道を歩きとおして印象に残ったのは、住む人たちの気質が、その土地土地によってそうとうに違うことでした。山梨の人たちは利にさとい商売人の気質で通俗的、反対に長野の人たちは、損得にもならない教養好きの一面があること。その気質は、県境を越えて一気に変わるのではなくて、甲府から諏訪までの盆地から台地、高原に抜けていく道を通じて、グラデーションのように徐々に変化していく。いわゆる「県民性」というものが、本当にあるのだなと実感したのです。