江戸を目指さない道(北関東の諸街道2)

f:id:tochgin1029:20171104100727j:image 例幣使街道は、年に一回、京都からの使者が日光東照宮に向かうために通る道です。両毛地域とよばれるこの辺りは、かつては東山道が通っていた地域であれば、もしかすると、往時の使者もかつての王朝の栄華を懐かしみながらかつての東山道の道をたどったのだろうなと想像できます。この道は江戸を目指さない道だからこそ、この道は西から東へ、江戸を指向しないベクトルが流れていて、その地層はより深いように思いました。
f:id:tochgin1029:20171104100804j:image 今回の歩きは、前回にたどりついた境宿からのスタートです。前回に着いたころには日も暮れていて、町の様子も眺められませんでしたが、それまでの宿場に比べれば、かつての宿場町の名残を残しています。ここには古民家を利用したカフェもあれば、旧い看板建築の商店も残っています。両毛地域の諸都市は、どれも養蚕と織物とのかかわりから発展しています。このあたり東武線の線形がうねうねとしているのも、これら両毛地域の都市をフォローするためです。
f:id:tochgin1029:20171104100834j:image 街道から外れて、世良田にある東照宮に向かいます。この辺りはかつて新田荘と呼ばれた新田義貞にゆかりのある土地で、その跡は新田荘遺跡と呼ばれています。ここに何故東照宮があるのか?という答えは、徳川家康が新田氏の末裔を自称し源氏由来とされる征夷大将軍の称号をうけたことに関係があります。そのことでこの地は徳川幕府の手厚い庇護を受け、それだけ東照宮の建物は立派なものです。東照宮が建てられた隣に資料館もあっったのですが、この日は休館日でした。

 f:id:tochgin1029:20171104100902j:image東照宮のとなりは遺跡がそのまま歴史の森という名前の公園となっています。看板にしるされた遺跡の図と公園の景色を眺めると、この東照宮の建物は新田義貞が住居としていたであろう舘の上に建てられたようですが、一方でこの立派な建物のありようはどこかこの土地に対して外来的なものにも感じました。その地に代々暮らした庶民からすれば、「あたらしいお殿さま(徳川家)は新田の子孫を自称して手厚く支えてくれるけど、新しいお殿さまの流儀は、うちらの流儀となんだか違うなあ」という感じで、困惑したのではないだろうか?と。
 街道に戻って歩き進むと、このあたりの街道は区画整理されていて街道すじとそうでない道の区別がつきません。木崎宿までの道もきれいに整備された県道で、あんまり情緒は感じない道ですね。木崎宿では、かつてここが宿場であったことを示すのはあたらしく作られた石碑だけです。ここで食事。

 f:id:tochgin1029:20171104100935j:image食堂では女性2人が話し込んでいます。医療機関で事務仕事をしているとおもわれる彼女たちの話、職場や夫婦間の人間関係にまつわるもののようで、知り合いらしい店主も加わり世間話をしています。地方で平日の昼間に行きあうのって、ほとんど医療や介護職のひとたちが中心ですね。そういえば、先月に故郷のクラス会に集まったうち地元に在住している同級生、とくに女性の場合では、ほとんどが医療や保育士に従事していたのを思い出しました。
 木崎宿から太田までの道は、整えられた県道を進むエリアと古くからの家が入り混じるエリアを交互に進みます。群馬太田のイメージは、新興の工業都市という印象なのですが、それなりの歴史もある町で、市街地から横道を眺めると旧い神社が見えるし、きれいに整った太田駅と駅前の図書館の隣には古いままの商店街が隣り合っています。

f:id:tochgin1029:20171104100953j:image けれども、太田でもっとも目立つのは駅前の巨大なスバルの工場と、これまた巨大な本社ビルでしょう。市役所はどこにあるのかわからないけれど、巨大なスバルビルは市内の遠くからも見えます。整った街並みや駅前の巨大な本社ビルを見るたび、現代の太田は、町から歴史を消し去ろうとしているようにしか見えません。それなりに大きい規模の都市の中心街に歩く人が極端に少ないのも気になります。
 f:id:tochgin1029:20171104101019j:imageそうはいっても、歴史はそう簡単には消し去ることができないことも示しているのです。市街地を抜けてしばらくすると、大きな古墳の山を眺めることができます。天神山古墳という全長200m以上もある東日本最大の古墳です。公園としてそんなに綺麗に整備されているわけでないこの場所には、実は道路のすぐ横。あっけなく入ることができます。スバル(現代)→徳川(江戸)→新田(南北朝)とこの地の歴史をさかのぼると、その先には、古墳が鎮座していたのでした。
 古墳を過ぎたあたりで日が傾きだしました。傾く太陽と競争するように後の道を進みます。小学生の下校時間で通勤の帰宅とも重なり道には自動車が列を作っています。このあたりの日常生活での移動手段はほとんど自動車による移動なのでしょう。自転車の姿はここではほとんど見かけることがなく、せいぜい通学の航行生のみです。群馬県を過ぎ栃木県の足利市に入ります。群馬では左手に赤城を眺めながらの道のりでしたが、赤城は遠く左手の山々は低くなり右手には広い田園風景が広がっています。

f:id:tochgin1029:20171104101043j:image 八木宿に入ることにはすっかり日も暮れました。暗くて石碑のようなものは確認できません。ここがかつての八木宿にあたる場所なのだとわかるのは、せいぜいバス停だけです。近くの東武線の福居駅まで本日の行程は終わりです。
f:id:tochgin1029:20171104101100j:image 気がつけば、今日の行程は南北朝の時代を争った新田氏が支配する地域(新田荘)と足利氏が支配する地域(足利荘)園にまたがっています。驚くのは敵対していた両一族の本拠地が実は隣り合っていて、しかも至近距離なところです。次回はその足利からのスタートになります。