自分の心と身体2(再読「宗教なんか怖くない」橋本治)

 

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

 

 


 橋本治さんの「宗教なんか怖くない」は、オウム真理教サリン事件について書かれたものです。かつて初版が発売されたころはオウム真理教サリン事件が毎日のように報道されていた頃です。まだバブル経済の破たんは行動様式や社会認識に影響する前のことで、東西冷戦も終わって豊かさを実現したこの社会に「否」と叫ぶ人たちが存在する。このことが、1995年の当時に、サリン事件で一番衝撃をうけた事でした。もちろん、2018年のいま、サリン事件についての本を読むと、この事件がその後の平成史の展開のどこかを示唆しているのがわかります。
 本の随所に「サリン事件は子供の犯罪だ」とか「自分の頭で考えられない人たちが…」といった言い切りが差し込まれています。橋本さんは、ある時実行犯の林泰夫がヨガをやっている画像をながめ、彼のヨガのあまりのぶざまさを見ながら、そのぶざまさを「自分の身体を自分のものにしていない」と評しました。彼(林泰夫)は自分の身体も心も「自分のもの」として把握できていなくて、それが、ぎこちないヨガの動きに象徴的に表れているのです。

 オウム信者のなかには、彼のような優秀な学歴のひとたちが多く含まれていました。当時は、優秀なエリートがなぜ?と問われていました。法体系や経済活動といった現代社会のしくみは自立した「自分の頭で考え判断する」個人の存在を前提にしている反面で、そうした個人は必然的に孤独と向き合わざるをえない。そのあたりが腑に落ちないまま「自分探し」に溺れ、オウム信者でなくとも多くの人たちが新興宗教自己啓発セミナーに沈んでいきました。誰かが作り出した(自分自身のものでない)既製品に「自分の心と身体」をむりやり合わせて身を滅ぼす。彼(林泰夫)の「自分探し」は、ただのヨガ講師(麻原)の繰り言を「自分の心と身体」として身にまとおうとした行為でした。
 事件が露見した後に彼らオウム信者たちの行った行動は不可解なもので、秘め事なら秘め事らしく沈黙するはずが、わざわざマスコミ向けに会見を開き「自分たちはやっていない」と述べました。国家警察は敵とみなしながら、宗教法人の取消や破防法の適用は宗教弾圧と述べました。前者と後者は明らかに矛盾するはずですが、本人自身それを矛盾と感じないとすればその理由はただ一点、自分の正しさを無条件に疑っていない場合だと橋本さんは述べています。彼らオウム信者たちの行動は、いわゆる世間から注目してほしい愉快犯の行動原理で、大人たちにかまってほしい子供たちのふるまいに近しいと。
 オウム信者たちが、1995年の当時に世間をどう眺めていたか?ということは、2017年のいまのほうがよく見えるかもしれません。当時も身近な友人がぽつぽつと、新興宗教自己啓発セミナーにはまっていたのを覚えています。1995年ではオウムの信者たちの子供っぽいありようは異端児でしたが、当時のオウム信者のような子供っぽい矛盾した叫びは、いまではSNSによって可視化され、ごく普通に日常生活を送っている一般人のなかに内包されていることがわかります。その叫びのなかには、疎外感を感じながら日常生活に苦しんでいる人たちの孤独と不安、すなわち「淋しさ」が隠れています。

だから、フェイクニュース陰謀史観も排外主義もヘイトスピーチも韓国叩きも朝日新聞も彼らの疎外感を一時的に埋め合わせるものでしかなく実体が無い。産経新聞で展開されている「歴史戦」と称する運動がことごとく敗北しているのも当たり前なことで、彼らが敵とみなすものが観念にしか過ぎなくて実体が無いものだからでしょう。
 現在の日本で残っている宗教の多くは鎌倉時代に勃興した宗教で、国を守るためのそれまでの仏教でなく、「個人の救済」というものを社会が問題とするような社会になって生まれた宗教です。けれど室町時代の後の社会は、個人よりさまざまな利益集団の論理が優先される集団主義に変わります。織田信長一向宗の争いは宗教勢力と新興の世俗権力との争いで、負けた宗教勢力が世俗権力に管理される側に立ちます。そのあと「個人の救済」という歴史の問いは社会の歴史からすっぽりと抜け落ちました。庶民に信仰されている仏教の多くが、いまだ鎌倉仏教を源流としたものばかりなのは、そうした「個人の救済」という側面の歴史上の宿題に、鎌倉時代のあと社会の側がまったく解答を示していない事を明かしているかもしれません。

 「個人の救済」という問いは、ムラ社会や企業社会といった集団に帰属することで覆いかくされても、近代社会では空虚はむき出しになります。さまざまな新興宗教が勃興したのも、なにによって空虚を埋め合わせるのかという心理の表れで、オウム真理教もそんな新興宗教のひとつでしかないということです。1995年のサリン事件を過ぎて、橋本治さんが「宗教なんか怖くない」と書いたのはそういう意味なんだと思います。