飼いならしは愛?その2(安冨歩「誰が星の王子さまを殺したのか?」)

誰が星の王子さまを殺したのか――モラル・ハラスメントの罠 前回は、サンテグジュペリの「星の王子さま」を読みました。その原典を読んだ後で、今回は、安冨歩さんの「誰が星の王子さまを殺したか?」という本を読んでいます。「星の王子さま」をハラスメントの小説として捉えなおしたこの本は、 他の解説本のようにバラと王子の関係を理想の愛だと称賛するような本ではありません。もちろん、サンテグジュベリ自身がハラスメントの小説として意図して書いたわけではなく、作者の意図を超えたところでハラスメントを表す小説として成立しているのだと、安冨さんは断りをいれています。
 この物語中でのハラスメントのひとつは、バラが王子に行うさまざまな要求のことで、バラが虐待者で王子は被害者の関係です。バラの種に丁寧に水をやっていた王子に、蕾を開いて現れたバラは、王子が「美しい」と感嘆をあげたとたん「でしょう?」と告げながら、この星の環境の悪さに文句をいい、様々な要求を言い始めます。心を許した相手に対して攻撃を開始する「ハラスメント」の定石のふるまいだと。バラの言動はところどころ矛盾が存在しているのですが、バラはきまって咳払いをしてごまかします。
 この時点では、実は王子さまはバラに対し「うんざりする」という、まっとうな感情を持っていました。しかし、バラは王子の心にしだいに罪悪感を植え付けていき、バラの要求をかなえないのは王子が悪いのだとまで思い込ませます。バラにも良心の呵責というものが存在すると信じている王子ですが、ハラスメントの虐待者には、残念ながら良心というものが存在しないのも定石です。バラとコミュニケートするほど王子の心に傷がつくのです。王子はハラスメントをハラスメントとして認識することができなくなっていきます。
 そんなふるまいを耐えきれなくなり、王子が星の外に旅立とうとするとき、バラは「私がばかだった」としおらしく反省するふりをします。王子はそのことに混乱します。ここで虐待者による被害者の精神的な支配が完成します。星を離れても王子の心に罪悪感という傷が残り、王子の旅は憂鬱なものになります。
 地球には、王子が育てていたバラと同じ花がたくさんありました。王子の星では、バラは自分は唯一のバラだと言いましたが、これが嘘であったと王子は知りますが、王子は怒りを起こすわけでもなくただ落ち込むばかり。植え付けられた罪悪感のせいです。そのあとでキツネと遭遇します。
 この物語でのもうひとつのハラスメントは、王子とキツネのやりとりです。バラと王子の関係を、キツネは飼いならし」と形容しますが、すぐ次の言葉では「飼いならし」を「絆を創る」という別の言葉で言いなおします。「飼いならし」では、支配する→支配されるといった一方通行の関係しか想起できませんが、キツネは「絆を作る」という双方向の関係に言い換えています。これは意味のすり替えです。
 その後に、キツネは王子に「わたしを飼いならして」と頼みます。「飼いならす」ほかに、世間のコミュニケーションが存在しないかのような言葉です。本当は、まったくそんなことはないですよね。ここにもすり替えがあります。

 また、王子がバラを世話した時間と手間こそが、このバラを特別なバラにし、地球に咲いているたくさんのバラとは違うのだと。「王子はバラに責任がある」と言い切ります。「飼いならす」という支配と被支配の関係を対等の関係であるかのようにすり替え、被害者の罪悪感につけこむ、ハラスメントの手口です。
 バラが王子の星にやってきたことも、本当はただの偶然で必然などそこに存在しません。虐待者にとって被害者は別に誰でもよいわけです。たまたま都合のいい場所に都合のいい相手として王子が居ただけのことで、それがなぜか崇高な愛にすり替わる。ここにもすり替えが有ります。

 気が付けば、巷の恋愛小説や流行歌の歌詞だって、この必然と偶然との誤解を受けた表現はありふれているし蔓延しています。「星の王子さま」の邦訳でさえ、訳者自身もこの「飼いならし」を肯定的に捉えていて、バラと王子の関係を素晴らしい愛の形と解釈することにも繋がっています。

星の王子さま」に関わる言説に、こんなにも意味のすり替えが存在している。そのすり替えを気づかせないものが、この社会全体のなかに潜んでいる。この社会での人間関係に関する悩みごとの多くは、コミュニケーションにあらざるもの(ゴマすり、おべっか、マウンティング、イジりetc)を、本来のコミュニケーションであるかのように取り違えていることと関係があるのでは?そのことに驚愕したのです。