おしゃべりな道(北関東の諸街道13)

f:id:tochgin1029:20180721202311j:image進路を南にとって、宇都宮から小山宿まで進んだものの、前回はあまり変化の少ない行程でした。というのも、国分寺下野国府が立地していた、旧い歴史を持つ土地を通りながらも、その歴史性を否定するかのように河岸台地上を街道筋が単調に通っていたことも原因かもしれません。今回の歩きだしは小山宿から、日本橋に向かう街道歩きは、歩き始めが自宅から近くなるのはよいのですが、またも単調な行程だったらどうしようか?などと不安になります。
 幸い、前回には気が付かなかった、かつての宿場町の趣を残した場所が小山宿にもありました。その代表は、街の一角におおきな敷地を占める須賀神社です。神社を訪れれば今日はお祭りで、氏子の人たちがせっせと準備に追われています。そのわきを参拝します。となりには「小山評定」に関する石碑が立っています。関ケ原を前にして徳川を中心とした大名たちの領地の采配など、徳川と関係が深い神社のようです。
この車社会では、小山のような比較的大きな街でも、個人商店が成り立つのもせいぜい駅前くらいのようで、それなりに賑やかだったろう街道沿いも、すこし駅を離れればいまではただの住宅地。あたりにはスーパーらしき廃墟も見られます。
f:id:tochgin1029:20180721202658j:imageしばらく歩くと、目の前にこんもりとした緑の山が見えてきます。地図では浅間神社とありましたが、その山の正体は千駄塚とよばれている古墳でした。これまで、街道沿いに徳川時代よりも旧い旧跡はすくなく、思わずうれしくなります。間々田宿には、わずかに問屋場を示す看板が立っていて、その場所だけが明瞭に宿場町だということを示しています。f:id:tochgin1029:20180721201704j:imageまた、宿場の途中には「間々田ひも」という看板がありました。組み紐の一種らしく「栃木県指定無形文化財」ということですが店はまだ開店前。そのまま通り過ぎます。近くには市立博物館があり、見学することにします。案内の方によれば、この付近にはわりあいと多くの古墳が残っているようです。縄文の頃からの遺跡も残っているらしく、そのとなりには国分寺造営のための瓦を焼いたとよばれる窯が再現されています。かつての下野国の中心がこの付近であったという、徳川時代よりも前のこの土地の歴史性にやっと触れられたような気がします。この博物館のあるあたりは河岸段丘となった地形のへりにあたっていて、遠くを眺めれば真っ平らな地形が遠くに広がっています。真っ平な地形の先は、たぶん渡良瀬遊水地です。
f:id:tochgin1029:20180721201739j:image かつての関東平野の交通網は陸路だけではなくて水運も盛んでした。ある程度の規模の河川であれば、河岸とよばれる船着き場が方々にありました。このちかくも乙女河岸があって、東照宮を造営する物資はここで降ろされたそうです。すこし趣の違う景色が見たくなったので、その跡地に向かいます。たどりついた河岸は、いまではなんてことはないただの河原なのですが、休憩所には群馬からの行程の途中というサイクリストと地元のおばあちゃんが談笑していました。誘われてわたしもその輪に加わります。そのおばあちゃんの年齢は85歳とのこと。この河原に来るまでには、むこうの台地からおりては堤防を上らないと来れないのです。高低差のある堤防の上まで自転車をこいでくるとのこと。わたしの母親より年長なのにぴんぴんしてうるのにびっくりしました。しばらく談笑をして2人と別れて、ふたたび街道に戻れば単調な道に戻ります。このあたり不思議なくらい同じような街道歩きの同好の士とであいました。なかにはそろって歩いている夫婦も見られますが、どの人も黙々とあるいていて、声をかけるのもためらうような様子なのが残念ですね。途中には寺社やコンビニが集まっている一角がありました。しばし休憩。
f:id:tochgin1029:20180721201834j:image 渡良瀬遊水地のだだっぴろさを感じさせるように、空は広くてまったいらです。歩いていると、1歩1歩すすむごと、風が通るスポットもあれば、地面からの照り返しがきついスポットもあります。その微妙で些細な変化を身体で感じていました。野木の宿場は小さくて、ここもやっとひとつの看板でわかる程度です。地形図で見れば、野木宿はJRの野木駅とは離れており、むしろ古河の街にかなり近いようです。
しばらく行くと、自動車の整備工場でしょうか?なかから仕事の休憩中の方に出くわします。あまりに暑くて「おあがんなさい」との言葉にすなおに甘えます。休憩しながら世間話。自分の仕事方面とはまったくことなる、その業界の話は、ほとんど知らなかった話ばかり。とても面白くて、なによりとてもよい休憩になりました。ほどなく古河宿の入り口が見えてきて、宿場に入ります。
f:id:tochgin1029:20180721201801j:image古河の宿場町は駅の西口にひろがっています。とりわけ横山町のあたりにはまるで骨董品のような商店が並んで建っていてなつかしさを感じる街です。いつもはただJR線で通り過ぎるだけの古河の街がこんな古めかしい町であったことに、なにか秘密を見つけたような気分になってひとりでほくそえんでいました。ここで食事にします。入った食堂は年寄り家族で営んでいる店のよう。頼んだものがほんとうに出てくるのか?すこし不安になりましたが、もちろんそんなことはありません。ここでも涼むことができてありがたい。f:id:tochgin1029:20180721202104j:imageその街をすすむと、しだいに城に近づき、街はかつて商人町だったエリアから家臣の侍たちが住むエリアに変わったようです。城のあたりは今では公園になっていて、ここでも歴史博物館に入ります。徳川に近いお殿様が治める古河藩の性格から、展示物はちょっと格調が高くあまり興味をひかなかったのですが、展示された古地図などから、かつての古河城のあたりは、城を川や堀で取り囲むようになっていたことがわかります。この町はもともと渡し場として栄えた街らしく、地図をながめればこのあたり茨城栃木群馬埼玉の県境が近接しています。まるで関東のへそのような街で、この渡し場の伝統があるからこそ、鎌倉を追い出された足利の殿様が、この古河公方としてこの町に引っ越したわけです。
f:id:tochgin1029:20180721202003j:image 古河の街を過ぎれば、またもや単調な道が続きます。ときどき雑木林が隣に広がり、途中には松並木が伸びていますが、このあたりなにか面白い旧跡があるわけでもなく、歩いていてもっともつらい区間です。とちゅうの中田宿もそういえばそうかな?気が付くくらい、ただの住宅地と化しています。f:id:tochgin1029:20180721201953j:imageここで、やっと利根川をわたり栗橋宿に。あたりは堤防工事を行っていて、かつての本陣が建っていたらしい八坂神社のあたりは移転するとの張り紙が流れていました。となりでは本陣の発掘作業を行っているようです。ここ数年、梅雨あけの時期には、どこかで豪雨被害が起きています。高い堤防をつくってもそれを「乗り越える」ように災害が起きる。そしてまた、より高い堤防をつくろうとする。旧いものは取り壊されて、新しいものに塗りつぶされていく。どこかやりきれない気持ちになります。栗橋の通り沿いでは、もくもくと夏祭りの準備がされていました。商店会の有志の人たちのバンドがリハーサルをしています。
f:id:tochgin1029:20180721201933j:image 今日の歩きは栗橋宿まででおわりです。どちらかといえば下野が「台地の国」という印象なら、下総は「河の国」と印象がします。そのうつりかわる風景を歩きながら体感する行程でした。これまでの街道歩きでは、誰にも会わず黙々と歩く日も数多いのですが、今日はまったくそれとは異なる日で、道端での見知らぬ人とこれだけの長々と世間話をしたのは初めてでした。たまには楽しいものです。この先、幸手、杉戸、粕壁宿へと。だんだん日本橋が近くなります。