内面は譲り渡さない(映画「1987ある闘いの真実」)

『1987、ある闘いの真実』2018年9月8日(土)シネマート新宿他、全国順次ロードショー!

「1987ある闘いの真実」という韓国映画を見ました。この前に光州事件をとりあげた「タクシー運転手」は、ふだん映画を見ないわたしにとって、とても衝撃をうけた映画でした。

軍隊が自国民にたいして銃口を向け発射すること。しかもそれがたかだか30-40年ほど前まで隣国で行われていた出来事だということに衝撃をうけました。最近でも、朴政権を弾劾し、あらためて文大統領を選びなおした、韓国民衆のデモクラシーの根っこはなんだろうとも思ったのです。
 「タクシー運転手」では、義に目覚めていくタクシー運転手の心理が中心でしたが、こちらの映画では、むしろ映画での悪役である独裁政権側のありかたが、詳しく描かれていました。主人公は、「アカ」とみなした共産主義者を取り締まる組織の局長で、独裁政権の権力者にとりわけ近い場所に居ます。恩義があるためでしょう、脱北者の彼はふるまいも思想も独裁政権に忠誠心をもっているし、だから共産主義者とみなし取り締まる対象には際限がない。だからこそ、彼らは身に覚えのない容疑で拘束された被疑者を、拷問にかけ殺してしまいます。
 また、この映画では、独裁政権の側近たちと、公務員たちのせめぎあいの場面も多く描かれています。被疑者の若者の死が拷問であったことを隠したい局長側と、あくまで法にのっとり事実を明らかにしたい検事、あるいは、刑務所に収容された部下と面会し暴力により脅しをかける局長たちに、刑務所の規則にのっとった行動をとるよう暴力をうけつつ抗議する刑務所の長。それは、正義感というよりは公務員としての職務に、忠実であろうとするからの行動です。権力者の後ろ盾をかさに、刑務所であろうが教会であろうが寺社であろうが新聞社であろうが、暴力をもって入り込んでいく局長たちの姿がたくさん映画では描かれています。市民を監視し、疑わしいとみれば日常にずかずかと入りこみ暴力をふるっていきます。もうひとりの主人公でもある大学生の女性も、たまたま居合わせたデモの現場でで、デモ隊の仲間とみなされ執拗に追いかけまわされます。なにが恐ろしいかって、権力側が、日常に踏み込んでいくその恐ろしさでした。
 一方で、権力者が持っている強大な暴力とはうらはらに、かれらは猜疑心の塊であり、だからこそその組織は以下のような原理で繋がっています。
・構成者の信頼関係でなく、組織の上下関係を梃子にした支配と服従によって集団は結びついている。
・構成者の外形的な服従だけでは不安である。内面までの権力側への無限の忠誠が求められる。
・権力と「一体化」した自意識こそが行動原理。権力者との近さこそが、法や組織の規律よりも優先される。
・上位からの命令は、下位の構成者にとって公私の区別がない。上位からの理不尽な要求が下位の構成者に押し付けられやすい。
・上位からの命令が、ほんとうに権力者本人からのものか?いわゆる忖度によるものかわからないこと。
想起したのは、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」丸山がここで述べている、日本での陸軍の行動原理ににているのです。映画でも、権力者の全斗煥は現れず、局長たちは、指示(とされる)命令を上位から伝え聞くばかり。中心が空虚なのです。
 戦後の韓国史と日本の戦後史のかかわりは、せいぜい朝鮮戦争の勃発で日本が特需に沸いて、戦後の復興を支えたくらいしか教科書では教わりませんでしたが、日帝の植民地支配が巡り巡って、韓国の独裁政権の行動原理にまで影響を与えていることを知り、戦慄しています。
 しかし、ひたかくしにしてきた拷問死は、検事や、刑務所、それぞれの良心がリレーされて、権力の監視の網を潜り抜け公になります。それは、やがて独裁政権を倒し、民主化宣言を勝ち取る動きの種になるのです。外形では服従しても内面までは独裁政権に譲り渡さないという意思が映画でも描かれています。時の権力や社会、時流によってころころ善悪が変わるのではなく、もっと深い普遍的な善悪の価値観を韓国社会が持っているように見えます。その価値観は、残念ですが日本の社会には存在しないものです。

 それにしても、「タクシー運転手」にせよ「1987ある闘いの真実」にせよ、独裁政権の暴力を受けるのは大学生が多くて、息子とちょうど同世代なのです。自分にとっては、なかなか見るのがキツい場面の連続で、映画館でずっと泣いていました。