街はずれの坂道(東海道を歩く(その3))

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東海道を歩いてみる景色は、あたりまえなのですが、やはり中山道とも違うし、甲州街道とも違います。いまでこそ海岸線は遠いけれども、往時の東海道がとても海の近くを通っていることがよくわかります。神奈川宿があった場所も、いまでは海岸線は遠いけれど、かっては海のすぐ近くに面していたことがよくわかります。
 横浜駅から急な階段を上り、前回に歩き終わった場所を目指します。横浜駅近くでは歩く人たちも多いけれど、階段を上ると別世界、静かな住宅地に変わります。
 横浜駅の近くとはいえ、まったくの住宅街には、コンビニらしき建物も少ない。埋め立てによって作られた平らな場所に市街地や繁華街が形成され、後背地の丘陵地や台地に住宅地が広がっているのが、基本的な横浜の街の構造です。東海道が通るのはその狭間。左手に市街地(昔は海岸)を眺め、右手には台地の上のたつ住宅街を眺め、という行程。途中の浅間下の交差点では道に迷いますが、道が細くなり台地を上り始めてしまったところで間違いに気が付きます。なにしろ開国と文明開化が横浜の発展の源ですから、横浜では、東海道と旧街道の存在感はあまりにも薄い。
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 しばらく歩くと、にぎやかな商店街が現れます。ちょうど時間を区切って歩行者天国にしているようで、路上にも平台を並べて店が連なっています。多くの客でにぎわっています。昼飯を食べていないので食事にします。一軒の食堂に入ります。店に入ると、近所の老人たちが話し込んでいます。店内にはご当地の演歌歌手の写真がびっしりと。ラーメンしかないはずの食堂のメニュー。ラーメンを注文し食べている私のわきで、店主が「オムライス」とか「とんかつ定食」とかメニューに存在しない料理をほいほい受けている、不思議な?お店でした。すこし歩けば、目の前に相鉄線の高架が現れます。天王町の駅です。高架下をくぐると、保土ヶ谷の宿場に近づいてきます。

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 保土ヶ谷の宿場は、一見では単なる駅前商店街という風情ですなのですが、かっての宿場町はそれよりも大きく長く伸びています。そこそこにぎわう駅前の通りを進むと、東海道線の踏切に当たります。この踏切のわきに焼き鳥屋があって、常に白い煙が漂っています。その突き当たり、今の国道1号とぶつかった場所に本陣やら問屋場跡といった案内板が現れます。
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このあたりの景色は、もこっとした丘陵がそこかしこにあって、その丘陵の上を住宅がびっしりと立っているののを仰ぎ見るような景色です。国道沿いを進むと、左手に川が流れ、その先に神社があって、山裾には地蔵がぽつんと鎮座しています。鎌倉にも程近いこのあたりは、どこか中世の雰囲気を残しているように想像してしまいます。国道と別れて
権太坂に差し掛かります。
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この権太坂は、日本橋を出てはじめてあらわれる坂だということです。箱根駅伝でとりわけ有名な坂の名前ですが、駅伝が通過する権太坂とは、この権太坂とは異なる場所で、この道を駅伝選手が走るわけではありません。もちろん、坂のきつさはあちらの権太坂とまったくかわりません。権太坂をのぼり切った先もいまでは変哲ない住宅街ですが、遠くに町並みが見えたり山が見えたりと、さすがに眺めはとても良い場所です。この道中の坂はここだけではなくて、焼餅坂、品濃坂と続きます
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ただ、このように名付けられた坂は、たとえば都内の○○坂といった地名のようには、親しまれているようではないみたいです。案内板こそあれど、旧道はひたすら街はずれをこっそりと通っています。右手には、東戸塚の駅前の高層マンションや、ショッピングビルがそびえていて、近隣住民の生活空間はむしろそっちのほう。旧東海道はそういった住民の日常からは弾き飛ばされています。
 坂をおりるとその先は、わりかし平らな通り沿いを歩きます。住宅と工場や商店、奥には雑木林も少し残るっています。そんな殺風景な通りを延々と。そして、やっと吉田大橋とぶつかり、川を渡り戸塚の街に入っていきます。
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 戸塚の街は、再開発ビルが並び巨大な建築物が並んでいます。やがて道は東海道線とぶつかり、道路は途切れています。歩行者は、その上を歩道橋をわたって反対側に渡れるようになっています。歩道橋のたもとには、記念の案内板があります。かつてここには「戸塚の大踏切」とよばれた開かずの踏切がありました。大磯に自宅を持つ吉田茂が都内に向かう際に、この踏切が開かないので、待たされた吉田がイライラしたという曰くのある踏切です。
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 戸塚駅につながるこの歩道橋群は、かなり規模の大きなもので、あちらこちらに連なっています。どうやら駅前に本陣跡があるはずなのですが、けっきょくわからずじまい。今日の歩きはここまでにします。
 神奈川県の県民性は、どちらというと個人主義的でドライな印象があって、知人の神奈川県民にも同じような印象を持っています。過去を振り返るよりは現在なのか?あまり旧跡に出会うことの少ない道中でした。