おためごかし(「キメラー満州国の肖像」山室信一)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)


 韓国の民主化運動についての、二つの韓国映画「タクシー運転手が」「1987ある闘いの真実」を見たときに、そこで描かれている独裁政権ありさまが、とても日帝に似ているなと思ったのです。独裁政権といいながらも、たとえば全斗換はヒトラーのようなシンボルではないし、政権側の人間が、どれも権力者の威光を梃子にしつつ、実は自分の権力欲を満たしていくありさまが、恐ろしいなと思ったのです。それは、かつての大日本帝国の官僚たちが、権力者の威光を梃子にした「システム」によって国内の統制を進めていったことに似ているな?とも連想したのです。

いつも何気に眺めている Tweet のやり取りを見て、日韓ふたつの政権をつなぐ共通の橋があったことに気づかされました。それは満州国です。若い日の朴正煕は、満州の軍隊学校にて過ごし、帝国軍のもとで軍人としてのキャリアを始めています。また、岸信介だけでなく、戦後政治家のおおくは満州での赴任経験をもちます。

 ざっくりと、満州国の概要をつかみたいなと思いつかんだ本は山室信一さんの「キメラー満州国の肖像」という新書です。読後に思ったことは、大げさに言って、いまの日本社会で繰り広げられている欺瞞的なやり取りが、あらかた満州国での日本人たちのふるまいに源流があるとさえ思ってしまうほど、そっくりという印象をもったのです。

 満州国のあった場所は、もともと女真族清王朝を建国した場所です。彼らはこの地を神聖な地として他民族には触れさせないし、他民族の移住を認めていませんでした。けれど、そうしているうちこの地はすっかり荒廃してしまいました。そこから漢民族の移住が始まります。日本は、日露戦争に勝利し朝鮮を併合し、第一次世界大戦に参戦し、ドイツでの中国大陸の利権を奪うところからこの地にかかわるようになります。満鉄が設立され、次第に国策会社の色彩を帯びてくる。関東軍はその満鉄の運行を守るための組織でした。

 満州国ができるまでのこの地は、ロシア、清、そして朝鮮を併合した日本が、それぞれ権益を持つ地でした。清〜中華民国へと変わっても、実際にこの地を治めているのは、この地を拠点にする軍閥です。日本は満鉄を通じて軍閥とかかわり、利益を得ていました。

それが、傀儡国を創るという行動に変わったのは、第一次世界大戦が契機になっています。国家同士がヒトカネモノを注ぎ込んで戦争を行う「総力戦」という概念が軍隊の上層部に持ち込まれます。その代表は、石原莞爾の「最終戦争論」です、アジアの盟主である日本とアメリとの最終戦争は避けられない。だからこそアジアが結集すべきで、アジアの盟主である日本が満州の血を支配するのは当然と考えていました。

 3000万の国民のうち日本人はわずか3%しかいません。当初は直接の占領を考えていた石原も、独立国を通じた支配という考えに傾きます。やりたいことは支配であるのが明らかなくせに、この満州国では、五族協和という建国の理念が語られ、日本人と他の民族は平等であるとされていました。

けれど、現実は全く違うものでした。満州を取り仕切っていたのは、日本から派遣されてきた官僚たちでした。かれらは日本の省庁から出向のような形でやってくる。中国人官僚たちはいるけれど決定権はない。日本人はあからさまに中国人を蔑視します。賃金も日本人と比べ他民族の賃金は低いままでした。五族の扱いを平等にと考える石原莞爾のような人間は良心的であっても、そもそも日本人が多民族を支配するのは「日本人が優秀だから」という理由にて当然視されています。彼だけではなくて五族協和を語る同じ人間の口から、日本人が他民族よりも優遇されて当然との言葉が語られます。

満州国では、傀儡国の疑惑隠しのためか、清王朝最後の皇帝溥儀が迎え入れられました、彼には清の再興という夢がありましたが、なにも実権がないことに気がつきます。せめて自分を天皇と同じような立場に擬そうとしたけれど、それすらなれないことに気が付いて、処世のためでしょうか、天皇制の構造を受け入れていきます。日本人と中国人との間には差別的な構造が横たわっています。地方では父親が徴用され、あとに残された子供たちが極寒の満州で裸同然で暮らしていたそうです。その一方で特権階級の日本人たちは都会的な暮らしを満喫しています。

 戦後、往時を懐かしむ当時の官僚たちは「満州はフロンティア精神の場」であったと語っています。かつて満州国のあった地域は、現代の中国の重工業地帯ととなり、そのことで日本がさも善政をしいたのだと評価する向きもありますが、とんでもないことです。その当時の中国人官僚たちは、ただロボットのように仕事をしていたことが述べられています。

このように甘言を繰り出しつつ、現実にやっていることは甘言とは真逆の差別的な扱いで、こういった振る舞いがいかに住民を傷つけ罪深いかは、末尾に岩室さんが付記という形式で、質問に答えています。

 「あなたと私は対等であり、わたしこそあなたのために犠牲となって尽くしているのだと公言し、自ら信じて疑わない人が、実は相手の意思や希望を踏みにじっているにもかかわらず、それに気づこうとさえしないことほど、相手に苦痛を与える配信的行為はないのではないでしょうか。」
と。このことを「自意識過剰」という言葉とともに、山室さんは「他人に対する無意識過剰」と称してもいます。

 ここまで読んだ人の中には、現代の日本社会でよくあるこんな振る舞いを連想してしまう人も多いでしょう。

例えば、子供のためと塾に通わせ有名校を受験させるけれど、それは結局は親のメンツのためであったとか、愛のムチと称して生徒に体罰を振るう教師、指導と称して部下や新入社員を罵倒する上司。究極は「沖縄に寄り添う」と言いながら、現地が望まない基地の建設と海岸の埋め立てを強行する政府。

甘言を言いつつ「支配したい」欲望を隠すこと。こういった欺瞞の態度がこの社会には溢れています。往々にしてその欺瞞には当事者も気づいていないことが多い。

 日産自動車のゴーン会長の逮捕劇がニュースとなる現在です。創業者の鮎川義介は、かつて満州で事業を行なっていたし、官僚たちともごく近い場所で事業を進めています。いっときはゴーン会長という人間を持ち上げ讃えながら、用済みとなれば足でけるように排除しようとしています。

外国人労働者を受け入れるように入管法が改正され、外国人労働者の受け入れが拡大することになります。実質的には移民でありながら政府は移民とは言わない政府。すでに技能実習生の名目で、多くの外国人が働いているけれど、その賃金が差別的なまでに安価なこと。外国人だけでありません。障がい者の賃金も実習の名の下に不当に低いこと。男女の賃金格差というのもあります。このように甘言を隠れ蓑にした差別的な振る舞いが、いまではは社会のどこでも横行して、庶民にまで浸透してしまっています。

その源流は何か?と考えると、やっぱりかつての官僚たちが満州国で行った統治のやり方が基盤となっているのはないでしょうか?