迷走する近代(橋本治「ひらがな日本美術史7」)

ひらがな日本美術史 7

 橋本治さん「ひらがな日本美術史」も最終巻まで到達しました。これまでの記事でもたびたび取り上げた、橋本さんの近代批判の論旨は、すでに江戸末期の時点で、日本の社会と、それを成り立たせる技術なんかは、そうとう成熟されていたということで、黒船と「御一新」のかけ声で突然覚醒したわけでもない。欧州以外でもっとも早く近代化を行ったことはべつに奇跡でもなんでもない。という意見です。前巻末尾の不気味な総括のあとで、淡々と近代の作品をかたる橋本さんも不気味な感じはありますが、どこか冷めた印象がするのは否めません。

 江戸時代に成人となってから明治維新を経験した人の多くが、体制の変化にふりまわされたことは忘れていけないでしょう。その苦労の中で、自分なりの表現を模索していったのが第一世代です。明治初期の高橋由一はなどは、洋画を指向することで、江戸の絵師たちのようには、誰かに弟子入りして腕を磨くことはできずに、ほぼ独学で腕を磨いた。芸術に関しては、明治政府の芸術に関しての政策は、古来の文化を尊重するようになったので、洋画に関しては、学校が創設されるのは日本画に比べ遅れます。誰かに弟子入りすることで腕を磨いていくのは、よくできた江戸の絵師の職業訓練の仕組みだと思うのですが、明治になって、絵は師匠について覚えていくものではなくなり、学校で教わっていくものに切り替わっていく。この影響が結構大きいのだと思います。

 けれど、絵画の制作に関する技術の総体は、日本画の伝統の蓄積から、すでに江戸の世で完成された領域に入っているのです。明治になってあらためて、絵画を製作する技術を学ぶということにどんな意味があるかということに、どの画家も悩んだのではないかとも思います。いくつかの洋画家がパリで洋画を学んでいますが、海外からの技術的な影響を想像できる画家というのは、知る限りそんなにいないような気がします。

 この巻の中では特に、青木繁高村光太郎川端龍子という、明治大正昭和と別々の時代に活躍した画家が、実は同世代であったということが述べられています。

 青木繁が活躍したのは明治、弟子入りすることで腕を磨くという、江戸の職業訓練の制度が崩壊したあと、絵画によって生計をたてざるを得なかった者が、浴びる生活苦というのは相当のものだったでしょう。体制の変化にともなう混乱に振り回されたのが明治という時代を表している。

高村光太郎は、まがりなりにも新体制が安定した大正という時代を表しているでしょう。日々の生活に困ることのない上流階級に生きる高村は、のほほんと過ごすことができた。詩人でもあるマルチな才能を持つ彼は、いろいろなジャンルでいろいろな作品を残しますが、それら表現の核心で彼は何を目指していたのかは、よくわかりません。

 昭和に活躍した川端龍子は、燃える金閣寺を描いた作品もあります。マスコミ報道が勃興して現実世界とは別の空間を構成するようになった昭和という時代を表しています。そんな時代をおそれたのが、有名な芥川竜之介の自殺だっだですが、川端はそんな時代をうまく生き残ったのだと言えます。

 ただ、日本の近代文学の多くが「私小説」として残っているんのと同じく、日本の近代絵画が総体として見れば、どこかごく私的な心象を作品としたものばかりが残っていることに橋本さんは疑問を呈します。作家にポエムみたいな絵しか書く技術がなかったわけでありません。橋本さんは、日本の画家が描く戦争画を見て、決して「ポエム」ではない絵がそこに存在する。書く気になれば書けるではないかと驚いたそうです。しかし、一方でお国に指図されなければ、そのような絵を書けないのかともいいます。自分の世界認識を、なんで国が思う見方にゆだねているんだろうと疑問を呈しています。

 日本の近代化は、「ご一新」のかけ声で始まった人為的なものです。そのかけ声によって、近代化を準備したそれまでの時代の社会や文化を成り立たせる技術はご破算になる。公には「なかったこと」にされてしまう。そのことを橋本さんは愚かといいいますが、これは悲劇なのかもしれません。日本の近代の迷走と混乱のおおきな原因のひとつが、江戸から明治にかけての混乱と切断ではないかと思いいたりました。いまの政権は「日本を取り戻す」という言葉をキャッチフレーズにしていますが、取り戻す先が「明治」であるだろうことを、賛否をこえて誰も疑問に思っていないのが、とても不思議なことです。