山道を下りる(木曽路の終わりの旅(その2))

f:id:tochgin1029:20150908222126j:image南木曾駅の裏が昨日の終わりで、本日のスタート地点です。天気が悪い日が続くなかでは、日差しが入るのは珍しいことで、朝のまだ静かなコース沿いは、歩くのがとても気持ちがよいです。妻籠までの上りは、人家の途切れることはありません。木曽谷の宿場はどれも、山道をしばらく歩いてから道をぐいと曲がると、突然のように町並みが現れるのですが、妻籠宿も同じです。
 有名観光地でもある妻籠宿は、いままで、たいしたことないとたかをくくっていたのです。日光江戸村のようなテーマパークみたいなものかな?とも思っていたのですが、その予想は裏切られました。妻籠の建物は、すべてではないけれど、本当に江戸時代の建物が残されているように見えます。建物の柱とかくすみ具合とかが、現役の江戸の宿場町って、このように見えたんだろうなと想像ができるのがすぎうですね。このことは奈良井宿では、あまり感じられなかったことで、これには感心しました。
 宿場の中、脇本陣、本陣と資料館が公開されています。見学した3階建の脇本陣の建物は、明治に立て直されたもののようですが、細部まで造作が工夫されているのに感心しました。見せびらかさないように豪華さを表すことは、まさにプロの職人の仕事だと感じます。この建物には明治天皇が30分だけ休憩をとったそうで、使用したテーブルや桶などが残されています。文明開化の時代に、明治天皇は洋風の生活を行っていました。そのリクエストを聞き、洋風の生活がどんなものかわからない職人は、困ったあげく、みよう見まねでテーブルをこしらえたそうです。3階は隠し部屋になっています。いわゆる密談の部屋です。政情も不安定な頃の産物なのでしょう。
 妻籠から馬籠までは、ハイキングをする観光客も多いですね、特に欧米人の方が多いようです。途中の沢では水浴びをするグループも居て、自由だなあと妙なところで感心したのです。
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f:id:tochgin1029:20150908222307j:image 途中にある男滝女滝は、そのままで、浮世絵の題材にでもなりそうな形の滝ですね。上りがきつくなった頃、峠の手前には茶屋がありました。中にはいると地元のボランティアのかたがお茶をついでくれます。たまたま行き会った隣の方と、ひとことふたこと話をするのも心がなごみます。
 峠を越えると、すぐに集落が見つかり、しばらくいくと馬籠の宿に着きます。風情は残るのですが、かつての宿の建物は過去の火事で焼けてしまっている。マイカーや観光バスで訪れたような気軽な観光客が多いこともあって、馬籠の宿はどこかテーマパークっぽい趣がありますね。
 馬籠を出るとのどかな田園の風景に変わります。贄川宿の手前にもあった、「ここから先、木曽路」という石碑はこちら側にもありますが、私の旅にとって、それは「木曽路の終点」を意味します。もう、木曽谷の急峻な山が、迫ってくるようなことはなくて、なだらかな丘陵が続きます。
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 落合宿までの間は、長大な石畳が続きます。半分以上は復元されたもののようですが、一キロ以上もつづく立派なものです。もっとも、苔に追われている石段も多くて滑りやすく、けっして歩きやすいものではありませんが・・・ 落合宿は観光地ではない普通の集落ですが、道路の両側から、堀を流れる水の音が聞こえてて、馬籠宿での観光地特有のざわざわとした雰囲気とは違い静かな場所です。
   ここから中津川までの間は短い距離で、山から降りたということで、もうきつい上り下りはないだろうとたかをくくっていましたが、そうではなく、河岸段丘と思われる丘を上り下りしながら縫うように歩く行程は、かなり起伏が激しいところです。ここから、中津川の町が見えるようになるまでが、この日の一番きつかったところです。
f:id:tochgin1029:20150908221923j:image 段丘になった丘陵地から、最後の急な坂を降りると、中津川の市街地が突然現れます。丘に囲まれた地形のせいでしょうか、中津川は7ー8万人ほどの人口のわりに、規模が大きな町に見えます。町中には資料館があったのでたちよりました。幕末のころに、中津川は水戸の天狗党を宿あげて歓待したらしく、新政府に味方をした土地柄のようです。
 江戸時代の木曽の地は、御三家の直轄地で、かつ過酷な治世だったようです。おそらくそのことへの反感が
強かったのではないでしょうか?そのあたりは、いろいろ書きたいこともありますが、次回に回します。