自分の心と身体(藤原新也「乳の海」再読)

乳の海 (朝日文芸文庫) 藤原新也さんの「乳の海」という本を再読しています。これは、大学生の頃に社会学の授業の夏休みの宿題になった本です。大教室ではなされるその講師の授業は、多くの学生が居眠りをこいているような授業でしたが、たとえば上野千鶴子さんのジェンダー論のかじりのようなことを教えてもらったりして、未だにちらほらと内容を覚えています。この「乳の海」はそんな中で、課題として出されたルポルタージュです。本がかかれたのは、バブル前期1980年代前半のことですね。ちょうど校内暴力が、その後の管理教育につながっていき、学校内いじめへと転化していった時代をとらえています。

 冒頭には、藤原さんがスペインで出会った拷問具が語られています。その拷問具は異教徒を拷問にかけるもので、マリア像の形をしています。その拷問具に座らされた異教徒は、棘でで刺されたり、壁で押しつけられ骨を砕かれるという、凄惨なものです。じょじょに異教徒をいたぶっていく道具ですが、この具にかけられた異教徒たちは、かけられるうちに精神を破壊され、まるで歓喜の状態にでもあったかのように死んでいくのだそうです。その後、ひとりの大学生の話が語られます。

 この青年、それまでお母さんが決めたとおりになんでもかんでも生活していた。けれど、ある時に自分が着たいと思った服を、お母さんに否定される。そのことがきっかけで、なんでもかんでもお母さんの決めたとおりに暮らす自分自身に疑問を持ち、反抗を始め、藤原さんを訪ねてきたのだそうです。その後も彼は、そのお母さんの呪縛から逃れようと抵抗を続けます。ドラムセットを買って音楽にのめり込む。肉体労働にあこがれ、大学を休学して工員になる。けれど、どれもが長続きせずにやめてしまう。やがて、彼は絶望して元通りのおとなしい青年に戻る。

 結局、彼は、自分自身の身体と心が、自分自身のものであるという実感がもてなかったのです。自分の身体と心は母のものではないとばかりに、音楽にのめり込み、工場で肉体労働をしたけれども、そこに有ったものは、マニュアル化された工場の作業だったり、マニュアル化されパターン化された趣味の世界だったり、そこに身体と心の自由などなかったことに気がついたのです。

 この当時の青年は、今はどうなっているでしょうか、1982年くらいで大学生なのですから、生きていれば今は50代くらいでしょう。その後のバブル経済では、贅沢なブランド品を、海外で漁る日本人観光客の姿がありました。それは、身体も心の自由も持たない人間たちが、贅沢をした時に、どんな消費行動を起こすかという社会実験でもありました。獲得した富が、自身の身体と心の自由を獲得し、創りだす方向には使われずに、既に出来上がった価値を、大金をはたいて横取りすることしかできなかった。あの時代を経験した今の40代~50代の人間は、多かれ少なかれ、あのときのマニュアル文化に毒されているし、青年と同じような症状を抱えている。人間が身体と心の自由を持つということが、どういうあり方なのかということが肉体感覚としてよくわからない。

 けれど、最近になってようやく、そんな呪縛から脱した若者の姿を見たように思います。国会前で安保法制にたいして抗議を行う大学生たちの行動は、彼らが政治的な意見を発することだけが重要なのではなくて、自分の心と身体は自分のものである。という健全な感覚を持っていることに感心したのです。

 将来に危惧されている徴兵制というものは、自分の身体まるごとお国の道具にさせられてしまうという事でもあります。そのことを身体の感覚でわかっていない大人たちのほうこそ、むしろ不健全なのだと思います。