めんどくささに耐える(民主主義について)

 先々月の安保法制に対する国会前抗議に出かけ、民主主義という仕組みは、単に選挙に行って投票することだけなのではない。ということを多くの人たちが体感したのだと思います。その間に行われた2~3の世論調査では、このようなデモに参加したいかどうか?という設問があって、意外と参加したいという答えが多かったものです。まだ、政治家たちや有識者のなかには、多数決=民主主義と短絡し、選挙に当選することを全権委任であるかのように捉える人もいるけれど、こうした言動こそ、民主主義を堕落させるのだいうことを感じています。
 ただ、民主主義を維持させるために、庶民の「不断の努力」が必要だ。という言葉もあるけれど、まるで辛苦をイメージさせる努力という言葉には「めんどうくせえ」と感じてしまうのも正直なところです。都市国家の決め事のために、いちいち山の上に上らなければならなかったアテネの市民ならともかく、長い時間をかけて勤め先まで通うような生活をする現代の庶民にとっては、それはめんどくさいこととも思います。それは努力という言葉ではなくて、別の言葉で言い換えたほうがいいのではないかとも思います。
 いつも引用する橋本治さんのエッセイ「江戸にフランス革命を!」では、近代の論理が隠し持っている本質とは「個人が強くなる、そして強くならねばならないこと」なのだと述べていて、前近代の社会の所領安堵という原理が含んでいる「保護する・される」という関係はないのです。ここで、「個人が強くなる」ということのは、腕力でも財力のことでもありません。めんどくささに耐える「強さ」なんだと思います。
 たとえば、学級委員にせよ、学校の保護者会にせよ、マンションの管理組合にせよ、くじ引きで役員になったとします。定期的な集まりでは、面倒なことも決めなければならず、集まりにでかけるのは面倒くさいものですが、やってみると、意外と充実感があるものです。
 民主主義を維持させるため「不断の努力」とか「強くなる」という言葉では、とかく難しく考えがちになりますがと、言葉の本質は、そんなめんどくささに耐えることなのだろうと思います。