ポエムにならない絵画2(馬頭広重美術館「小林清親展」)

栃木県の馬頭広重美術館というところで開催されている小林清親展を、見に行きました。電車やディーゼル車、町営バスを乗り継いでたどり着く美術館の、なんて遠かったこと!けれど、出かけるだけの価値がある展示でした。
 小林清親は、最後の浮世絵師と呼ばれているそうですが、実際に見た彼の作品から感じたのは、浮世絵の伝統の継承というよりも、伝統とは異なるものを感じたのです。 
絵を志すまで、彼はサムライであったようで、鳥羽伏見の戦いにも幕府側として参加しています。その後、負けた徳川慶喜が静岡に隠居するのに従い、彼の静岡に引っ越すのですが、7年してから東京に戻り、絵を志したのです。ですから、彼は、文明開化の世になって本格的に絵を始めたわけです。彼の作品では洋画の技術を取り入れたなどと称されますが、それよりも、新政府軍にまけ、主君を失ったサムライが、絵師を志したことが、彼の作品の本質なのだと思いました。
どういうことかというと、サムライとしての自身を規定するのは、主君との関係であって、前近代的な「保護する・される」という関係です。しかし、主君を失うということは、そのよりどころがなくなるわけです。絵師となった時に、すでに彼は、主君から離れ近代的自我を抱えていたのだと思います。彼の作品がどこか、浮世絵の伝統とは離れたところにあるように感じたのはそのせいのように思うのです。
 後年では、彼は「光線画」と呼ばれたあからさまな洋風の意匠からは脱して、美人画や名勝画とか過去の絵師たちの伝統的な題材をとりあげるようになりますが、その絵からは、やっぱり浮世絵の伝統よりも、近代が感じさせられるのです。 
 また、明治になって描かれた東京の各地は、意外にも開放的なように感じました。幕藩体制では、いくら町人の文化が華やかだといっても、しょせん江戸はサムライの町で、面積の6割以上は大名たちの武家屋敷がしめていました。いくら両国橋が町人たちで華やかといっても、町人は、いばりくさった武士の顔色をみながら生活する。それが、明治になり武士階級はなくなり、半分以上を占めていた大名屋敷の多くが無用になる。あれほどいばりくさっていたサムライたちがいなくなる。町人たちにとって、こんなせいせいすることはないでしょう。 
 文明開化の時代、「西洋に追いつけ」とばかり、いっしょうけんめい西洋の技術をとり入れる精神を「和魂洋才」と呼びました。でも、本当はそうでもなくて、現在でも親しまれるのは、実は「洋魂和才」の精神で描かれた作品なのではないかと思います。近代化された精神で、伝統的な浮世絵を描く小林清親の絵は、すくなくともポエムではないですね。「洋魂和才」がどのようなあり方を指すものかが、わかるような気がします。