「伴大納言絵巻」から読み取る

 出光美術館は、中世に描かれた絵巻物や屏風絵、いわゆるやまと絵が多く展示されること多くて、好きな美術館のうちのひとつです。公立の美術館の多くが、採算ベースに載るように集客に力を入れるばかりに、ゆったりと展示を楽しめる環境でなくなっているけれど、そのようなこせこせしたところのないところが、この美術館のいいところです。今年は開館して50周年らしく、記念の展示をやっていて、国宝重文クラスの作品がてんこ盛りなのです。
 大きな目玉は、所蔵している国宝の「伴大納言絵巻」10年ぶりの公開だそうで、上中下巻にわかれている絵巻物を、3回にわけて展示するそうです。
 今回みたのは上巻にあたり、応天門が焼けていく部分が展示されています。感心したのは燃えさかる門を、不安げにみつめる人々の表情が実に豊かに見え、その一人一人の表情はどれも違うのですね。それだけなら、他の絵巻物でもみられますが、それだけではなく、一人一人が肉感をもって描かれているのが、伴大納言絵巻での絵の特徴だと。これは意外な発見でした。
 この絵巻が描かれたとされたのは平安時代の末期です。日本でリアリズム芸術が花開いたのは、鎌倉時代とされているのでそれよりも早い。この時代にこれだけ肉感にあふれ表情の豊かな絵がかかれたのはなぜなんだろうと。平安時代の末期といえば、その後の治承の動乱をめぐる争いなど、規則正しく年中行事をこなしていく、のほほんとした貴族の世の中が、帝自ら人間くさい欲をまるだしにして、戦乱の世を誘発していく変化の時代として捉えています。で、欲をまるだしにしたのは帝だけではない。武士も庶民の側も、権力者たちのふるまいに一方的につき従っていただけのやわな存在ではないことが、この絵を通してよくわかるのです。
 私たちは、あまりにも現代の視点で中世を見つめている。帝という王様がいて、貴族という富を集める特権階級がいれば、一般庶民の生活は貧しくて、彼らは下を向いて生き、恥をしのんで生きていると思いこんでいる。いや、絵巻物に見える庶民の豊かな表情から読みとったのはそれとは違います。貧しいからといって、べつに庶民は権力者に頭を下げ恥をしのんで生きていたわけではない。それは管理社会に慣らされた現代人の思いこみなのだと。
 現代に文章として残された往事の資料は、おおかた権力争いの勝利者が残した資料であって、敗者だったり権力とかかわりのない庶民のありようなど、そこからは想像できないことも多い。けれども文章ではすくい上げることのできない庶民のありようなどが、そんな当時の絵から読みとれるように思います。わざわざ往事の絵を見る楽しみというのはそんなとこにもあるのです。
 もちろん、この出光美術館の50周年の展示は、相当に気合いが入っていて、見どころは「伴大納言絵巻」だけではないのです。それは次の記事で書くことにします。