人間が真ん中でない(来迎図と地獄絵の世界観)

 伴大納言絵巻の他にも、出光美術館の50周年の記念展示は力が入っていて、興味深い数々の絵巻物や屏風絵などが展示されています。時代別に3期にわかれた展示のうち、第1期である今回の展示は、だいたい鎌倉~南北朝までの作品が展示されています。たとえば、網野善彦さんの歴史書には、南北朝が歴史の転換点だという言い方がされていて、それはどういうことかというと、時代を経るにつれて世俗的になっていくということなんですね。実際に当時の日本の人口は、1000万もありません。南北朝までの人々が暮らす空間が、生者だけの占有物ではなかったということ。土地土地の地霊や死者たちの霊と一緒に生きていたのだということがよくわかります。
 今回は、多く展示されている来迎図や、地獄絵に足が止まりました。ネットで検索すれば、臨終に際した儀式が取り行われていて、これからあの世へ行こうとする者たちも参加する儀式のようです。そこで来迎図のような絵も飾られたのでしょう。とこれから旅立とうとする者の後ろには仏の姿を表した来迎図が・・・世界は生者たちだけの占有物ではないという世界観が、ここでたたきこまれるのだと思います。地獄絵にしても同じで、人は死んだ後に裁きを受け、地獄に落ちるものは責め苦を負う。そんな世界観がたたきこまれる。そのほかの絵にもいえる共通点は、不思議にも、特定の人物が絵の中心を占めるような絵って少ない。
 このことから、中世を暗黒の時代のように述べるのは間違いのように思うのです。絵の構図からわかるように、中世の世界観は、近代のように人間が世界のまんなかを占めるわけではないのだけれども、だからといって人間が疎外されているようにも思わないのです。人々の意識は、山や川、その土地土地の霊、生者と死者さまざまと同居していて、一緒に存在しているという感覚です。この中世の絵を見た後では「人間が中心」と称する近代の世界観は、傲慢さばかりを感じるし、現実社会でさえけっして「人間が中心」になっていない。まして、まがいものの「中心」を作ろうとする人たちのやっていることは、罪悪に等しいとも思います。