ラジオ体操をしながらの妄想

 やっかいな梅雨がやってくるまでの季節は、新緑がきらきらとしたここちよい季節で、すこし早起きをしてご近所の公園に行けば、だいたい6時半ころにラジオ体操をしています。多くの体操をする人たちは、もう仕事はリタイヤしたんだろうななと思う年配の人たちがほとんど。彼らが「久しぶりだね」と知人に声をかけあう姿を眺めると、毎日のように欠かさず参加する人はそう多くはないようです。

 ちょっとした大きさのこの公園のラジオ体操は、日曜日ともなればほんとうにたくさんの人々が集まります。この公園を歩きながら、大勢の年配の人たちを眺めて妄想じみた考えが頭をよぎります。
朝にこの公園にラジオ体操に訪れる人たちは、だいたい300人くらい。そして、訪れる年配の方たちの平均年齢をだいたい70歳と仮定するなら、その合計値は、300×70=21000にもなる。その途方もない数字に妙な感慨を覚えたのです。この21000という数字は、こどものときに眺めたテレビ雑誌に載ってた、ウルトラマンの年齢に近いことを連想します。

 この公園に集まる300人が人生を過ごした時間は、それぞれはまったく別なものです。そして、ひとりの人間が過ごす70年という時間も、まっすぐな時間ではなく、だいたいは曲がりくねった時間でしょう。1年1年がまったく同じことなんてありえないでしょう。

 その人間の営みの総体は、現在を生きる人たちだけが占有しているわけではなくて、過去に生きていた人、これから生まれるであろう人たちまでを含めると、それはそれは膨大なものです。
 お墓に祭られるご先祖様、神様として神社に祭られる権力者から、遠い過去にこの地で行き倒れた人たち、非業の死を遂た人たちといったひとたちまで、神として祭られるモノや人は、なにか特別なひとのように思っていましたが、どうやらそうでもないのだと思います。有名だろうが無名だろうが、地上に生きてきたひとたちの人間の営みの膨大さに気がつくと、怪しげな心霊現象や宗教などに頼らなくとも、人間の営みの総体それ自身が、すでに神秘的なものなのかもしれません。